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日蓮大聖人・池田大作

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パラシュートの米兵  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  その日、馬込(大田区)には、直接の空襲はなかった。
 南の空が、朱色に染まっている。焼夷弾攻撃で、川を隔てた川崎の市街は、焼き払われ、灰燼に帰しているのであろう。
2  私は、横穴を掘って急造した防空壕の入り口に立って、従弟や四、五人の近所の人と一緒に、空を見つめていた。探照灯にとらえられたB29の銀色の機体は、地上の火炎に照らされて、赤味をおびていた。
 悠々と空爆をつづける巨大な″超空の要塞″B29をねらって、まっしぐらに進む高射砲の弾が、まるで花火のようである。
 そのほとんどが、夜空の流れ星のごとく、虚しく消えていく。たまに、銀翼に青白い閃光が走ったかと思うと、旋回しはじめ、やがて火の塊になって、墜ちていくものもあった。
3  敗戦の年の昭和二十年になると、連日の空襲で、B29の編隊も″定期便″のようになっていた。三月十日の東京大空襲を機に、糀谷二丁目の私の家は、強制疎開になり、馬込のおばの家のつづきに新築して寄せてもらうことになった。
 その家も、引っ越しが完了しようというとき、五月二十四日の大空襲で、焼夷弾の直撃を受け、全焼してしまった。そこで、そのあとにトタン屋根のバラックを急いで建て、住むようになった。
4  その夜も、耳を覆いたくなるような空襲警報のサイレンが鳴り響き「敵B29の大編隊は、帝都に侵入せり!」とのラジオの疳高い放送があった。私たちは急いで、防空壕へ駆け入った。私は眠られぬ不安な夜を防空壕の中へ入ったり出たりしながら過ごしていた。兄たち四人はすべて戦地である。父は老いて疲れているし、当時十七歳の私が、一家の柱といった意識をもっていたのか、偵察と称して外の様子を見守っていたのである。
 朝の五時過ぎであったろうか。そろそろ夜が明けはじめるというとき、存分に地上のすべてを破壊し尽くしたB29の編隊は、東の空のほうへ飛び去っていった。朝日に輝いて凱旋していく百機の大編隊は敵ながら美しい。私たちは、小さく点のようになっていく飛行機を見つめていた。
 そのときである。
5  「あれは、なんだ!」との叫びに、私は、空を見上げた。ぐんぐんと近づいてくる物体がある。
 落下傘であった。高射砲で撃ち墜とされたのであろう。米兵が、空から降ってきたのである。こちらを目がけてまさに襲ってくるようなのだ。私は、びっくりした。動けなかった。頭上の敵兵は、一直線に向かってくる。私は、上からピストルで撃たれる恐怖を感じた。こちらは、むろん武器など持っていない。おそらく、何分も超えない時間であったろうが、私には、緊張と息苦しさのあまり、それまでの長い長い空襲下の時間よりもずっと長く感じられた。私は、パラシュートの兵隊の動きを、じっと凝視していた。
 彼は、なにやら落とした。重要書類かもしれない。ちらっとそんな考えがひらめいたが、ともかく空から自分に直進してくる米兵から、目をそらすことはできなかった。落下傘は、かなりの速度で私の頭上を通り過ぎていった。
 私は、そのとき、その兵士がきわめて若いのに気がついた。意外だった。半袖のシャツから露出した腕の白さは、まさしく外人のものであった。二十歳をようやく越えたばかりの、むしろ子供っぽいその顔に、私はハッとした。遠ざかりながら、二、三百メートル向こうの畑に落ちていくのを、危険が去った安堵感をもって、見送っていた。私の心には、敵意が全く消えていた。
6  生まれて初めて見たアメリカ兵の印象は、鮮烈であった。しかし、なにか戸惑いに似た感情が揺れ動いていて、うまく心の整理がつかなかった。数年来「鬼畜米英」と教え込まれてきた人間にとっては、敵国兵は、毛むくじゃらな形相も凄まじい悪鬼のような荒くれ男であるべきであったのかもしれない。連日、無差別爆撃で、わが町、わが国を焼き払う兵は、もっと残忍な風采であってしかるべきであったのかもしれない。
 ともかく、空襲警報も解除になり、私は、家族の者と家へ向かった。家へ着くと、のどの渇きをおぼえ、台所で一杯の水を飲んだ。冷たくてとてもおいしかった。体を休めようと、横になったが、パラシュートの米兵の印象が強烈すぎるのか、興奮して、眠れない。あの包みは一体何だろう……。また、「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の言葉が小さな頭を駆けめぐるのであった。
7  七時ごろになったろうか。私は、外へ出た。あたりは、すっかり明るい。空は、晴天であった。昨夜の空襲がうそのように、静けさが朝を支配する。私はともかくあの米兵の落としたものを見つけたい一心であった。ひたすら落下地点めざして歩いていった。あった。それは、白い包帯の分厚い包みであった。
 私は、近くの駐在所へ、その包帯を届けた。年配の巡査は、貴重品を扱うように調べながら、緊張しながら、すぐに電話連絡をとっていた。駐在所を後にして、歩きながら、あの捕虜になったであろう若いアメリカ兵のことが気になってならなかった。
 人びとが、道端で輪になって話していた。米兵のことだった。彼は、地上に墜落するや、知らせを受けてやってきた憲兵に、目隠しをされて連行されていったという。その前に、駆けつけた人びとによって、棒でさんざん打たれたということだった。日本刀をもって「殺してやる」と駆けつけた男も二人いたという。
 私は、彼を心からかわいそうに思った。
8  彼は、疑いもなく私たちを焼き尽くそうとした圧倒的な暴力の一部分であった。当然、怒りの対象であった。しかし、私は、私の予想に反した彼の少年に近い顔が強烈な印象であったゆえであろうか。私の頭のなかは、いささか混乱を呈した。今にして振り返ってみれば、その一つの事実もまた戦争の愚を教えているように思えてならないのだ。

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