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日蓮大聖人・池田大作

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大世学院 高田勇道院長  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  昼間働きながら、夜学ぶということは、心身ともに疲れる。苦しき仕事、深夜の勉強に打ち勝つには、肉体的にも精神的にも、相当の体力を要する。当時、私は、京浜蒲田駅の裏にあった蒲田工業会という大田区の中小企業の助成機関で、事務書記として働いていた。
 高田院長は、働きながら学ぶ若者の心がわかっていた。その燃えるばかりの教育への熱情は、夜の教室を、家族的な明るく楽しいものにしてしまう。教育とは、教師が学生に命を捧げることと決めておられた。私は、講義に魅了された。いかなるときにも、希望を与えていける人は偉大である。
3  あっというまに思えるような授業を終えるや、院長は、床をきしませながら出ていかれた。次の授業を受け、数人の級友と帰り支度をしていると、高田院長が笑顔で「君たち、時間があればだが、きょうも一つ語り合うか……」と顔を出された。私たちは、粗末な事務室へ入り、院長を囲んだ。「大世学院の名は、大き世を拓きに行く、との意味だ。将来は、必ず大学にする。君たちは、実力をつけよ」。院長の瞳は、輝いている。「将来を担う人物が、どんどん出てもらいたい。私はそれを信ずる」。話は、教育の遠大な構想に飛んだかと思うと、いつのまにか、幼き日の思い出から、波瀾の青春一代記へと進んでいく。
 富山県の農村に生まれ、父と死別、農業をしながら、あの″富山の薬売り″もした母の手で育てられた。商船学校に合格し、海外雄飛も夢見たが、母の反対で断念。農学校へ入り、農事試験場の技手を務め、上京。東京物理学校へ入学。一年後、社会改造家を志し、早稲田大学政治経済科へ進む。首席で卒業し、学究生活に入る。
 昭和十八年、宿願の学校を創立。一生を教育に捧げる第一歩を踏み出した。
 「苦闘は、人をつくる。理想に生きよ。希望を失うな」
 院長は、私たちを学院から送り出すと、入り口近くの板敷きの一室へ戻っていかれた。当初は病院から通っておられたということであるが、退院後は、学校の傷んだ一室で生活をつづけられていたようだ。自らが創り、守り、育て、愛する学院に起居する一人の教育者の姿には、世の人びとは知らないとはいえ、人間としての迫力があった。
4  雨もウソのように晴れ上がった夜の坂道を下りながら、満天の星座のもと、私は、満ち足りた心で、足も軽かった。「波浪は障害に遇うごとに、その頑固の度を増す」。一日の疲れは吹っ飛び、希望と勇気があふれできた。
 その後、私は、少年雑誌の編集に携わるなど、忙しさも増し、夜学へ通うことも断念せざるをえなくなった。高田先生に会えないことは、まことに悲しいことだった。
 昭和二十六年三月、先生の文字どおり命を削るような努力のかいあって、大世学院は富士短期大学となった。その直後の五月、先生は、四十二歳の若さで逝去された。まさに生涯を教育に棒げ尽くした炎の一生であった。後年、富士短大から卒業論文提出の機会が与えられた。やがて、教授会一致で私は富士短大の経済学科の卒業生となった。
 先生の作詞された校歌は、次代を拓く若人への限りない夢にあふれでいる。
 「一、春爛漫の夢さめて 匂える花の移ろへば 世は盛衰を嘆けども 世は盛衰を嘆けども 至誠の矜厳かに 文化の流れ拓かんと 破壊の嵐吹きすさぶ 曠野を進む若人の 燃ゆる瞳に希望あり……」
 先生は、学問的英知に輝く実践的教育者であったが、また、永遠の青年詩人でもあった。

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