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日蓮大聖人・池田大作

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大世学院 高田勇道院長  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  古い一冊のノートがある。
 インクの染みのついたA5判のノlトである。茶の帯がついた表紙には「史学概論」「政治学」と標題がしるされている。質の粗い紙をめくると「昭和二十三年度大世学院体育祭ニテ」と書かれであった。比較的丁寧な小さい文字がびっしりと並んでいるぺージを一枚一枚くっていきながら、私は、三十年近く前、裸電球の下で学んだ夜学生のころを懐かしく思い出した。
 「代表……第三者の方法の確立の認定。個人代表、集団代表」「″人類の文化財産の最も古い事なり″例へば……」など若き日の文字を見ていると、「政治学」の講義を情熱的にしてくれた、少壮の一人の教育者の姿が、感謝の気持ちとともに浮かんでくる。
 戦後、数年しかたっていないときで、食糧不足で闇市が栄え、世の中は不安と無秩序で落ち着いていなかった。私は、ただ無性に勉強がしたかった。
 新宿の高田馬場駅で山手線を降り、西武線に乗り換え、二つ目の中井駅で下車。踏切を渡り、一の坂へ出た。私は、詰め襟の学生服。油の染みこんだ作業服の級友、背広姿のサラリーマン風の友、国民服を着た軍人のような仲間、皆、路地のような坂道を急いでいる。
 雨が降ってきた。いっせいに駆け出す。道の左側に、植え込みのある校門が見えはじめる。わが大世学院の校舎である。校舎といっても、百五十坪ばかりの木造二階建てのバラックである。
 傷が目立つ机の上にノートを広げ、授業が始まるのを待つ。広間を二つに仕切っただけのにわかづくりの教室は、上のほうがあいていて、隣の教室の物音が聞こえてくる。破れた窓ガラスから雨が吹き込み、窓側の学生が、あわてて席を移す。
 「いようーッ、諸君! 元気かね」
 やや疳高い独特の声で、院長の高田勇道先生が、元気よく入ってきた。骨ばった痩躯を質素な黒の背広に包み、眼光は人を射るようであり、眉毛の太い、彫りの深い顔は、蒼白かった。断固とした意志の強さにみなぎっていた。
 「理想なき民は、必ず滅びるのである」「思想とは何ぞや――このことを考えてみよう。思想とは、精神現象である……」。雨が、激しく屋根や壁を打つが、先生の滔々とした講義は、いよいよ佳境に入り、雨の騒音も、少しも気にならない。
 突然、咳をされ、黒板のほうを向いて、チリ紙に吐かれた。血痰なのである。私たちは、心配した。とくに、私は、胸を病んでいたので、病魔と闘う先生の苦しみが実感できた。
 院長は、呼吸を整えると「失礼した!」と謝り、前にもまして勢いよく授業を進められていく。占領下の時代世相を憂え、鋭い時局批判を交えながら、人道による世界平和を、炎のような気迫で説かれるのを眼前にすると、私は凛々と勇気と活力が湧いてくるのであった。
2  昼間働きながら、夜学ぶということは、心身ともに疲れる。苦しき仕事、深夜の勉強に打ち勝つには、肉体的にも精神的にも、相当の体力を要する。当時、私は、京浜蒲田駅の裏にあった蒲田工業会という大田区の中小企業の助成機関で、事務書記として働いていた。
 高田院長は、働きながら学ぶ若者の心がわかっていた。その燃えるばかりの教育への熱情は、夜の教室を、家族的な明るく楽しいものにしてしまう。教育とは、教師が学生に命を捧げることと決めておられた。私は、講義に魅了された。いかなるときにも、希望を与えていける人は偉大である。
3  あっというまに思えるような授業を終えるや、院長は、床をきしませながら出ていかれた。次の授業を受け、数人の級友と帰り支度をしていると、高田院長が笑顔で「君たち、時間があればだが、きょうも一つ語り合うか……」と顔を出された。私たちは、粗末な事務室へ入り、院長を囲んだ。「大世学院の名は、大き世を拓きに行く、との意味だ。将来は、必ず大学にする。君たちは、実力をつけよ」。院長の瞳は、輝いている。「将来を担う人物が、どんどん出てもらいたい。私はそれを信ずる」。話は、教育の遠大な構想に飛んだかと思うと、いつのまにか、幼き日の思い出から、波瀾の青春一代記へと進んでいく。
 富山県の農村に生まれ、父と死別、農業をしながら、あの″富山の薬売り″もした母の手で育てられた。商船学校に合格し、海外雄飛も夢見たが、母の反対で断念。農学校へ入り、農事試験場の技手を務め、上京。東京物理学校へ入学。一年後、社会改造家を志し、早稲田大学政治経済科へ進む。首席で卒業し、学究生活に入る。
 昭和十八年、宿願の学校を創立。一生を教育に捧げる第一歩を踏み出した。
 「苦闘は、人をつくる。理想に生きよ。希望を失うな」
 院長は、私たちを学院から送り出すと、入り口近くの板敷きの一室へ戻っていかれた。当初は病院から通っておられたということであるが、退院後は、学校の傷んだ一室で生活をつづけられていたようだ。自らが創り、守り、育て、愛する学院に起居する一人の教育者の姿には、世の人びとは知らないとはいえ、人間としての迫力があった。
4  雨もウソのように晴れ上がった夜の坂道を下りながら、満天の星座のもと、私は、満ち足りた心で、足も軽かった。「波浪は障害に遇うごとに、その頑固の度を増す」。一日の疲れは吹っ飛び、希望と勇気があふれできた。
 その後、私は、少年雑誌の編集に携わるなど、忙しさも増し、夜学へ通うことも断念せざるをえなくなった。高田先生に会えないことは、まことに悲しいことだった。
 昭和二十六年三月、先生の文字どおり命を削るような努力のかいあって、大世学院は富士短期大学となった。その直後の五月、先生は、四十二歳の若さで逝去された。まさに生涯を教育に棒げ尽くした炎の一生であった。後年、富士短大から卒業論文提出の機会が与えられた。やがて、教授会一致で私は富士短大の経済学科の卒業生となった。
 先生の作詞された校歌は、次代を拓く若人への限りない夢にあふれでいる。
 「一、春爛漫の夢さめて 匂える花の移ろへば 世は盛衰を嘆けども 世は盛衰を嘆けども 至誠の矜厳かに 文化の流れ拓かんと 破壊の嵐吹きすさぶ 曠野を進む若人の 燃ゆる瞳に希望あり……」
 先生は、学問的英知に輝く実践的教育者であったが、また、永遠の青年詩人でもあった。

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