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日蓮大聖人・池田大作

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EECの父 カレルギー博士  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「私は、母がいなかったとしたら、決してパン・ヨーロッパ運動を始めることはなかっただろうと考えています」
 リヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー博士は、ふと組んでいた足を解き、遠くを見る眼差しをした。
 一九七〇年(昭和四十五年)十月、博士との対談に臨んだ私は、初めから、その思想に、東洋的発想の青々とした水脈が貫いていることを確かめていた。パン・ヨーロッパ運動の基調をなす調和、統一の思想にも、西洋的でない香りがある。仏教思想に対する造詣の深さや、日本に寄せる美化されたイメージも、並々ならぬものがあった。
 周知のように、博士は、日本人を母としている。私は、改めて、その横顔を見た。
 さすがに磨き抜かれたヨーロッパ貴族の品格は、争えないものがある。が、博士の半身をなす東洋人の血もまた、ありありと窺える。皮膚は、西洋人の白面より黄がかつており、鬢はすっかり白いが、腰の強そうな頭髪は、やはり東洋人のものだ。
2  博士は、生地も東京である。二歳で、オーストリア=ハンガリー帝国の外交官で伯爵である父の故郷に帰ったが、母の存在が、超ヨーロッパ的な色彩の濃い教育環境をつくっていたようである。
 早くから超国家的な連帯の必要を直観していたらしいことは、第一次大戦後、ウィルソンによる国際連盟の理念に共鳴していたことからも窺える。そして、同大戦の終戦から四年後の一九二二年(大正十一年)、ヨーロッパの救済を地域連合に見いだそうとするパン・ヨーロッパの理念を世に放った。ときに博士は二十八歳の青年である。
 パン・ヨーロッパの思想は、しだいに有力な賛同者を得て、全欧におよぶ運動に発展した。途中、ナチスに追われてアメリカに六年間の亡命生活を送っているが、超国家的な連帯は、ますます時代の要請するところとなった。EECの形で博士の思想的営為が一応の結実をみたのは、一九五八年(昭和三十三年)のことである。それは三十数年におよぶ実践運動の結晶であった。
 その″EECの父″として聞こえる博士が、じつに七十一年ぶりに″里帰り″した一九六七年(昭和四十二年)十月、一度お会いする機会があった。このときに再会を約束し、三年後に二度目の来日の運びとなったものである。
3  博士の活力は、三年前と少しも変わらず、七十六歳の高齢とは思えなかった。
 「ヨーロッパの騎士道の道徳は、今ではゼントルマンに受け継がれています」
 対談の核心の一つであるヨーロッパの将来について、博士は、ヨーロッパには騎士道と宗教の二つの道徳がある、と語りはじめた。騎士道は″精神の美″をもって旨とし、武士道とも東西軌を一にするものだ、という。そういえば、悠揚と構える博士自身が、なにやら日本のよき昔の殿様、といった感じがある。
 ヨーロッパのもう一つの道徳的基盤であった宗教が衰退している、と博士は語を継いだ。キリスト教を支柱とする大西洋文明は後退し、代わって太平洋文明が勃興しゆくであろう、というのが、かねてからの見解である。そのリーダーシップを日本に期待したい、とも言った。また、世界平和のためにベストを尽くすべきである、というのが、日本への提言であった。
4  では、何をもって日本はその任にあたるのか、私はお尋ねした。
 博士は、日本が世界に向けて輸出すべきものは、単なる物や技術だけではない、と言った。そして「もっと大事なことは、偉大な思想を紹介することです。その偉大な思想とは、インドに起こり、中国を経て、日本で大成した、平和的、な、生命尊重の仏教の思想です」と明確に答えた。また、その仏教とは、現代のヨーロッパにも世界にも受容しうるように「二十世紀の息吹を備えた仏教」でなければならない、とも語った。眉を聞いて「あすの文明は宗教の文明になるにちがいない」とも言われたが、それも仏教思想への強い期待から発したものであった。私は、仏教に対するこのような直観的な理解は、博士の血の中に伝えられた東洋人のものだ、と強く感じた。
 これは、日本の文化立国の方向に、一つの示唆を含むものだと思う。近ごろ、日本経済の″黒字減らし″論議がかまびすしいが、逆に、有史以来″入超″なのが文化である、日本には海外に伝えるべき文化はないのか、というような論調もあった。この点で、博士の所論は傾聴に値するものがあろう。
5  対談は、東京で三回、延べ十数時聞におよんだが、若い私を相手に、博士は少しも疲れをみせなかった。頭脳のきらめきも早く、楽しい語らいに、時の移るのを感じなかった。私たちの問題意識は、多くの点で、明らかに同じ方向をさしていたが、それらは『文明・西と東』(サンケイ新聞社)と題する一冊の本に収められている。
 博士は、青年時代から一つの信念に生涯を賭けた理想家である。その意味では、生涯青春の生き方であった。統合ヨーロッパに向かって歴史の巨歩が踏み出されるのを見届けた博士晩年の思想圏には、さらに、東西文明の交流を、新しい宗教の理念によって進めたい、との壮大な思いがあったようだ。
 一九七二年(昭和四十七年)七月のある日、「ヨーロッパを含む全世界を高揚させる、宗教的、普遍的な何かが必要だ。それは仏教しかない。自分の年でどこまでやれるかわからない。しかし、やらねばならない」と夫人に語っていたという。博士は、その旗を振ることはなかった。数日後に亡くなられている。
 十月の声を聞くと、私は、博士との出会いを思い出す。八年前も、十一年前も、お会いしたのは、十月だった。今は、スイスの、アルプスの山並みを背にする平和な村に、永眠されている。博士の熱い思いが、世界の恒久的な平和として実るまでには、なお時を貸さねばならないだろう。しかし、いつの時にか、その日は、招来させなければならない。
6  キキョウ色に澄み渡るスイスの空も、秋の気配を深めていることだろう。

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