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日蓮大聖人・池田大作

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日中友好の懸け橋 廖承志会長  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  一九七四年五月、私は、中日友好協会の招きで初めて訪中した。
 まだ東京――北京の直行便がない時分のことで、香港から広州まで鉄道で行き、それから空路、北京に入った。空港は、すっかり闇に包まれている。ただターミナルの建物だけが、くっきりと光を放っていた。
 機窓より目を凝らすと、闇の中に、十数人が出迎えてくださっている。もう夜の十時に近かった。こんな遅い時聞に申し訳ない。タラップを降りると、先頭ににこやかな笑みをたたえて立っておられたのが、廖承志会長であった。
 「ようこそ、おいでくださいました」
 流暢な日本語が、親近感をわかせる。
 翌日、中日友好協会の建物であらためて、お会いした。
 談たまたま「四面楚歌」ということにおよんだ。すると氏は、すかさず「四面楚歌のほうが、かえって力が出るものです」と言われた。それが、温厚な人間性の奥に秘める鋼鉄のような発条をうかがわせた。こういう言葉を語るときの氏は、さすがに革命家の相貌をおびる。
 革命家の血は、ご両親から受け継いだものだ。父は、孫文の片腕といわれ、国民党左派の元老であった廖仲愷りょうちゅうがい。母は、中国婦人運動の草分けの一人、何香凝かこうぎ。二人ながら、中国革命のために生涯を捧げられている。
 父を右派テロの凶弾で失ったのは、氏が十六歳のときだった。糠慨悲憤に耐えて革命の戦
2  列に加わる。その後ヨーロッパに出て、中国人船員のあいだで工作し、逮捕、国外追放を二度うけている。祖国に戻っても逮捕されたが、母の必死の運動で釈放され、危うく銃毅刑を免れた。やがて、長征に加わっている。国民党に逮捕され、投獄されたこともある。
 そういう波瀾怒濤の連続が、氏の青春であった。
 「私たちのように長征に参加した者は、体のどこかがおかしくなっているのです」。そのようにも語っておられた。
 飢えと疲労だけを拾い歩くような苛烈な日々のなかに、革命の未来を固く信じて幾山河を踏破した長征は、氏の強靭な精神力を練り上げたにちがいない。人間的な雰囲気のなかに、不屈の信念がどっしりと腰をすえているのを感ずるのは、私一人ではあるまい。
 新中国建設ののちも、氏は、さまざまな嵐を乗り越えられた。とりわけ、日中関係については、その行方がまだ霧中にあったとろから、第一線の衝にあたってこられた。その大きな足跡は、誰しも認めるところだろう。
 私が一九七四年十二月、二回目の訪中で、故周恩来首相、鄧小平副首相と会談したいずれの席にも、氏は立ち会われた。平和友好条約の早期交渉、締結を希望するというお二人の話にじっと耳を傾けておられた姿は、日中友好にかける真摯の気があふれでいた。
 氏は、中国きつての日本通といわれる。
 東京・小石川に生まれ、暁星小学校に学び、長じて早稲田大学にも在籍した。日本語の達者なのも道理である。ご自身だけでなく、父も法政大学を卒業し、母は東京の女子美術学校で、絵を学んだ。姉も奈良女子高等師範学校を出ている。一家あげて日本と深いつながりがあったわけである。
 日本の事情に精通し、また、日本の心をつかまれているようであった。友好は、まず互いをよく知ることから始まる、という簡単なようだが現実には難しい原則を、確認する思いであった。
 気遣われたのは、氏の健康であった。
 とくに、一九七五年四月、三度目の訪中では、病気療養中とのことで、鄧副首相との会談の折にも、臨席されなかった。楽しみにしていた四か月ぶりの再会も、今回は無理だろうか、と気がかりだった。ところが三日後、私たちの宿舎・北京飯店にご夫妻で訪ねてこられた。案外、お元気そうだつた。「きょうは、病院から外出許可があったので」とのことで、恐縮した。
 何事を成すにも、強健な体力がいる。長い革命の風雪を乗り越えてきた精神の強靭さと、日中関係の柱としての責任感が、氏の行動を支えてはいる。しかし、健康には、ぜひとも心していただきたいと、心から念じた。
 先日、日中平和友好条約調印式の模様を、テレビで見た。
 鄧副首相の隣に、寥承志氏の姿が見える。その歴史的な瞬間を見守る氏の胸中は、千万無量の感慨に満たされていたことだろう。私自身も十年前の一九六八年九月、創価学会学生部総会の席上、日中関係の抜本的な改善を求める提言を、世に問うた。
 テレビに映る氏に言葉にはならないお祝いを述べながら、私も感無量だった。
 その数日後、氏から電報をいただいた。「熱烈な祝賀」とあって、条約の歴史的な意義をかみしめつつ、心から喜ばれているようである。結びに「中日両国人民の世々代々にわたる友好を祈っております」とあった。
 ふと、初夏の風薫る北京の朝、私の所望に応えて一筆さらさらとしたためてくださった言葉を思い出した。
 「経常改造自己(経常に自己を改造す)寥承志」
 みずみずしい情熱を高く持しておられる人生の態度が、そのまま言葉になったものであった。
 氏は、青春時代から革命に一身を投じ、万難を浴びつつも、未来の光を見つめて歩んでこられた。そして七十歳を迎えた今も、なお壮大な長征の途上にある中国革命の第一線に立っておられる。日中関係が新しい局面を迎えて、氏の責務も一層重く、そして光ることであろう。それを思うと、私たちの難など、まことに小さいものだ。
 大切なことは、こうした困難な踏破を成し遂げてきた中国首脳の精神的な遺産を、次の世代にどう継承していくかであろう。日中両国人民の青年のあいだに、崩れざる懸け橋を築くことが、子々孫々までの友好、平和を確かなものにする。それが寥氏の願いではなかろうか――。
 電報を手にして、氏の心情が彷彿としのばれるのであった。

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