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日蓮大聖人・池田大作

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周恩来首相と桜  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  車は夜のとばりのおちた北京市内を走った。中日友好協会会長の寥承志氏と同理事の林麗韞りんれいうんさん、それに私の妻が同乗していた。北京飯店より十五分ほど走ったであろうか。昭和四十九年十二月五日のことである。
 車から降りて玄関を入ると、今は亡き周恩来首相が出迎えておられた。会見の場所は、北京市内の病院と、あとで聞いた。
 しゃんと伸ばした背筋、意志の強さを物語る濃い眉毛、握手する目は相手の心を射るような、それでいて柔和さをたたえた目であった。
 いま思えば周囲の緊張した空気は、八億の民の指導者へ寄せる敬愛の念と警護の責任と、病身を気遣う心の入りまじったものであったようだ。入ったところで、私ども訪中の一行と記念撮影が行われた。照明が整い、撮影のための台が設定されていた。
2  じつは同じ日の午前中に鄧小平とうしょうへい副首相に会っていた。席上、周恩来首相の健康を尋ねたところ、副首相は「この七、八か月、ずっと入院しています。病状は私たちの思っていたより悪かったのです。もう七十七歳です。ここ数年来、仕事も多くて疲れていました。普通であれば周首相は喜んでお会いすると思います。しかし私たち党としても、できるだけ仕事をしないよう″管制下″においているのです」と語っていた。
 私は咄嗟にお会いすることはど迷惑と判断し「なにか機会がありましたら、心からの見舞いを伝えてください」と申し上げた。
 鄧小平副首相の言葉の端々には、首相の健康を思いやる心があった。「今はとくに重要なことだけ報告しています。健康状態の良いときに指示を受けています」とも語っておられたのである。
 その夜、あすは帰国するため、滞在中に、お世話いただいた方々への答礼宴を催した。その散会のあと、周恩来首相との会見予定が知らされたのである。私は、鄧小平副首相の言葉もあり、健康をおもんばかつて、いったんは辞退申し上げた。しかし会見は、首相ど自身の意志であることは明白だった。
 会見には寥承志会長、孫平化中日友好協会秘書長らが同席し、通訳は林麗韞女史があたった。
3  「二度目の訪中ですね」
 会見の冒頭でこう言われた。一回目の訪中は、この半年前の六月。そして同じ年の師走に再び訪中したのである。首相はこうした経緯を知悉しておられた。
 最初のときは病気がひどい時分で会えなかったが、病気も快方へ向かっており、会えて嬉しい――氏は包み隠しなく、ご自分の病気のことにもふれられるのであった。
 会見の部屋は、質素であった。壁に沿ってイスが配置され、全体に清楚な感じがした。目を気遣ってのことだろうか、部屋の照明は弱かった。周恩来首相の生涯変わることのなかった質素さには定評があるが、ここも同様であった。
 「鄧小平副首相に会われましたか」とも聞かれた。その内容や模様について、詳細を知ったうえで臨まれていることは明らかだった。
 話の折に「今の中国は、まだ経済的に豊かではありません」と語るなど、周恩来首相はありのままにものを言われる。
 率直さを心情の発露とするのは、まさしく東洋の丈夫と好感がもてた。会う人を引きつけずにおかないのは、そのためもあろう。思うに、七変化のような活躍で国際政治の舞台を飛び回り、合理的に物事を進めたキッシンジャー氏も、そうした首相の心情の発露に共鳴したのではなかったろうか。
4  「私たちには毛主席の指導があります」
 会見の席で、周恩来首相は、なんの気負いもなく強調していた。中国にとって最も幸せだったのは、毛沢東と周恩来という二人のあいだに、絶対の同志愛に基づく信頼があったことであろう。
 それは革命の歴戦のなかで培ったものにちがいないが、周恩来首相はトップに立たず女房役に徹した。まさに信念とさえいえる。己を知っていたというべきか。
 両者の双眸には、終生、虐げられた革命前の民衆の苦悩が映じていたにちがいない。ありとあらゆる方法を講じて人民を守り、尽くす。
 この権力の地位にありながら、人民の味方に徹した一点こそ、両者の真骨頂である。
 いわば中国の人びとにとって、毛沢東は″父″であり、周恩来は″母″であったといってよい。
 「二十世紀の最後の二十五年は、世界にとって最も大事な時期です」
 淡々と語る言葉が、今も耳元に鮮やかである。いやそのためにこそ″あのとき″を、強靭な精神と気迫で生き抜いていたのだ、とも思えるのである。
 会見は約三十分だったが、私は率直なところ、体は相当弱っており、直観的に長くは生きられないのでは……と感じた。長時間になることを遠慮もした。
 「八億の人民のためにもどうぞお大事に」と切に健康を祈らずにはおれなかったものである。
5  計報が世界を駆けたのは、その一年ほど後であった。私は京都にいた。悲しみのなかで、くるべきものがきたとの思いで、終日冥福を祈ったのである。
 初めての出会いが、最後の出会いとなった。あのとき、病気をおして会ってくださったのだという実感が、私の胸を強く打った。
 五時間の出会いもある。わずか五分間の出会いもある。私自身、五十歳を越え、それこそ数えきれない人と会った。それらすべての人びとが、私の今日へ影響を与えている。その影響の度合いは、共鳴の度合いにもよるであろう。時間の長短を超えたところで、人は互いを知るともいえる。
6  氏は礼節の人であった。帰るさいにもわざわざ玄関まで見送られたのには、恐縮したものである。
 「私は五十年前、桜の咲くころに日本を発ちました」
 遠く過ぎし方を振り返るような口調に、思わず「ぜひとも桜の花が咲くころ、日本にきてください」と申し上げた。「願望はありますが実現は無理でしょう」との答えだったが、そのとおりになってしまった。
7  訪中で推進した教育交流の一環として、私の創立した大学に、中国の若き友人が留学している。そのキャンパスに、私はその人たちに「周桜」の記念植樹をしてもらった。
 くる年も、くる年も、春の日溜まりのなかで桜花が咲く。それは、私にとって″一期一会″の証のように思えてならない。

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