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日蓮大聖人・池田大作

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教育の慈父 ペスタロッチ  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  今、教育界の父祖ともいうべきペスタロッチの伝記を読み返してみると、戦後の紙も満足にない荒廃の時代に、少年へ希望を贈る喜びだけに支えられて、ひたすらに働き、書いたときのことが浮かび上がってくる。そしてなによりも、ペスタロッチの人となりに、恩師の面影が重なって、熱い呼吸とともに語りかけてやまないのである。
 「逆立っている髪の毛、あばた面の赤い痣で掩われた顔、手入れをしない刺すような髭をもち、ネクタイがなく、靴下は靴下で靴の上に落ちていて、その靴下の上に垂れ下っているボタンのはずれたズボン、よろよろちょこちょこ歩く歩きぶり(中略)美しい調を響かせるかと思うと、或いは雷のように轟く言葉を発するひどく醜い人を想像して見よ。そうすればお前たちには私たちが父ペスタロッチと呼んだ人の姿が浮ぶであろう」(ドゥ・ガン著『ペスタロッチ伝』新堀通也訳、学芸図書)
 八歳のとき、ペスタロッチの学校に入学した歴史家、ヴュイlマンの表現は、決して偏見によるものではない。作家フェルノウの「顔は醜くて痘瘡のあとがついて居り」という印象や、妻アンナ・シュルテスの「黒い大きな眼を自然が貴方に与えていなかったとすれば、貴方は自然に恵まれていないとお思いになってもいいでしょう」(前出)という慰めの言葉を引くまでもないであろう。
3  彼の「不細工」は、容貌のみではない。世故にも、不細工そのものであったという。悪筆、発音の不明瞭、分析的知識への無関心、数学の極端な無知、不得手な図画、音楽、皆無の読書等々、およそ不細工という言葉が想像されるほとんどの要素を彼は具えていた。もちろん、経営や政治的手腕など徴塵も持ち合わせず、学校を瓦解させるなどは不思議なことでもなんでもなかった。
 彼の教育に関する著作においても、形式にとらわれず、文字や言語の既成の概念に束縛されない表現は、非専門的で非学術的だと非難された。事実「教育を心理化する」という内容を長いあいだ「教育を機械化する」と表現して気にもとめなかったようなことが屡々であった。
 この、一見も二見も不細工な、教育にだけは旺んな情熱の持ち主であった人が、いかにして教育界から慈父と崇められるまでに至ったか、そこに私は人間の教育の真髄をみる思いがするのである。
4  ハインリッヒ・ペスタロッチ。一七四六年、チューリヒに、外科医、眼科医のヨハン・パプティスタを父に、医師ホッツの妹スザンナ・ホッツを母に生を享けている。六歳のとき、わずかな遺産をおいて父は他界した。窮迫の生活を、一切の楽しみを捨てた母の腕が支えた。その献身から、子ペスタロッチは、人間のやさしい感情と、究極的信頼を学んでいる。「我が母は(中略)すべてのものの欠乏にたえて、その三人の子供の教育の為に身を犠牲にしてくれた」(『白鳥の歌』)
 彼が教育の重点を「心」におき、家庭教育、なかんずく母親の役割を重んじているのは、自らの体験に基づくことが多いといってもよいであろう。生ある者を、生ある者自体として、すなわち、社会的才能・条件や肉体的素質に価値を見いだすのではなく、一個の人間として愛する思想の原点は、母の温かい体温にあったようである。
 幼いペスタロッチに影響を与えた人がもう一人いる。チューリヒから十数キロ離れたへンクの牧師であった祖父である。学校の休暇をここで過ごしたぺスタロッチ少年は、教区の病人や、貧人を訪問する祖父についていった。庶民の生活の実態にふれ、悲惨を知った。のちに、シュタンツ等で、孤児や貧民の子供たちを集めて教育した、貧民への強い共感は、この幼時の経験を抜きにしては、醸成されなかったにちがいない。
 心の優しさ、庶民への愛情は、それらを蹂躙する理不尽な力への、限りなき憤怒を呼び起こさずにはいない。不正を憎む心は、ペスタロッチにあって人一倍激しかった。すでに小学生のとき、遊戯で不正をした助教師を殴打し、教育を蝕む悪徳をあばく投書もしたりした。チューリヒの人文大学にあっても、特権階級を嫌悪してやまず、『エミール』の著者ルソーに有罪判決を下したジュネーブ政府に激しく抵抗した。結果、専攻した法律への道を断念し、ぺスタロッチは農民となって大地へ還った。
5  ノイホーフで農業を興したが、持ち前の「不細工」さで、財産を使い果たして失敗するのに七年とかからなかった。しかしアンナを得、一子ヤーコプの誕生は、ようやく教育者としての松明に火をつける。わが子を対象としての教育実験を重ねた彼は、農業が破綻したノイホーフで、貧民の子供のために保護国を作ることを決意し、二十五人の貧民の子を受け入れて教育を始めたのである。
 ペスタロッチの考えはこうである。人びとの悲惨をなくすためには、彼ら自らが得たものでないものを与えるという「慈善」は、全く彼らのためにならない。結局は不幸を増大させるに至る、一時的な緩和剤にすぎない。たとえば痛みをひととき和らげる麻薬のようなものであろう。自らの内にあるもので自立し、社会に貢献する力を養うことが最善の方策である――というものである。
 ここでも、ペスタロッチは経営面において失敗する。無一文と病んだ体しか残らなかった。しかし精神面においては、ますます深みを増し、人びとの心奥に拭いがたい印象を与えるという勝利を得ていたのである。絶望と孤高のペスタロッチに百六十九人の孤児と二百三十七人の貧民の子が託されたのは、フランス革命の余波の戦争によるものであった。政府に懇望されたペスタロッチは、シュタンツに赴き、再び教育に五十三歳のエネルギーをぶつけていったのである。
6  ここに一枚の絵がある。グローブ描くところのシュタンツにおけるべスタロッチと孤児たちである。
 ピッタリしたとはお世辞にもいえない服を着たペスタロッチが椅子に座っている。背中の幼児は、手を前に回してペスタロッチにすがっている。少し長じた子供に抱えられたもう一人の幼児の手を、大きな左手で握りながら話しかけている、特徴のある目がそこにある。子供もペスタロッチに円らな目を向けている。
 その側に子供たち。歯が痛いのか布を顔に巻いている男の子、裸足で座っている女の子、後ろのほうで暴れている子ら……。そこに見られるのは、まさしく「慈父」の姿であった。
 学校の先生ではない。ペスタロッチが子供なのであった。子供の生命に入り込んで、その輝きを引き出そうとする彼の教育法なのである。否、それはもはや「教育法」などという形式ばったものでさえなかった。彼の「人生」そのものだったのであろう。人びとからは奇矯と恩われ、軽蔑されても、彼の真実はいささかも退くことはなかった。
7  とりすました知識教育に、子供たちの興味の扉を聞き、智慧の宝庫を与えることができるであろうか。教育を受けることさえ許されない貧窮の子の才能を伸ばしてやることができるであろうか。ぺスタロッチには、それができた。他のすべてに不器用な彼は「普通の知識の代りに、彼は大部分の教師が知らなかったこと、即ち人の精神、その発達の法則、人間の愛情、それに生命を与え高める術を知っていた」(前出)のである。児童の才能を開花させる天才なのであった。
 しかし、ここでも彼は不運であった。シュタンツの孤児院は翌年、フランス軍の病院として没収されてしまうのである。その後、ブルクドルフの学校長となり、つづいてミュンヒェンフゼー、イベルドンと転々とする。教育においてようやく不朽の名声をつかみ、後継者、支援者も次々とあらわれるが、何処でも彼の純粋さは、狡猾な世間の荒波を渡ることはできない。彼の人生は、険難と失意しか与えられないようであった。
 だが、人生の貴さ、人間の偉さが外見の成功、不成功で測られるものではないのは、もとよりである。彼の世事への拙劣さは、それを求めなかったからであり、世俗の評判などは眼中なかったからであろう。貧しさにいじけていた子供の心に人生の豊かさが育まれ、孤独にひしがれた孤児に希望が宿ったことを知るほど、ペスタロッチにとってうれしい報酬はなかったにちがいない。
8  一八〇〇年、ブルクドルフ学務委員会からぺスタロッチに宛てた文書がある。「貴君の生徒はこの課業を今までにない完成の程度に果しただけでなく、それ等のうちの最も優秀な者は既に能書家として画家として計算家として秀でている。貴君は総べての児童に歴史、博物、測量、地理等に対する趣味を喚起し刺戟することを知っている」(前出)と。ぺスタロッチに触発された子供たちが、自由に、颯爽と成長していくさまが目に浮かぶ。
 彼の教育法は、分析ではなく、直観を重んじるものであったという。正式の教案はなく、生徒は本も帳面も持たなかった。暗記することも全くなかった。石盤と赤いチョークが与えられ、ペスタロッチがさまざまな事物に関する言葉を話し、子供たちは図をかいた。何を書いてもよかった。子供たちの興味をふくらませ、自身の思想を表現させるのだ。この一見、破天荒なやり方が、教育の心理化という彼の思想に沿ったものであった。
 たとえば、地理を教える場合、大地そのもので観察させ、そとから地図の勉強に入る。博物学は散歩とともに実地で学習された。学校の時間割に体操を採用したのもペスタロッチである。心身にわたる全体教育とでもいおうか。
 子供は何によって学ぶか。決して強制によって学ぶのでもなければ、理念によって学ぶのでもない。ただ興味によって学ぶのである。言葉で学ぶのでなく印象によって学ぶ。与えられて学ぶのでなく、自分で獲得して学ぶのである。
 極端ともいえようが、この一点をぺスタロッチは凝視しつづけた。人生において、他のすべてに失敗した彼は、児童教育の真髄ともいうべきこの一点に成功した。この一点の灯が教育界の未聞の原野を照らす光源となったのであった。不幸と絶望の連続に見える彼の表層の生涯の内奥に、私は、子供たちと未来を仰ぎ語っている、輝くばかりの勝利の讃歌を聞く思いがする。
 ――一八二七年二月十七日、友人、家族が見守るなか、唇に笑みを浮かべつつ、この教育の父は八十一歳の生涯を閉じた。遺言通り、村の子供たちが葬儀の列に加わったという。

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