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日蓮大聖人・池田大作

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″民主″の星 リンカーン  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  おお 力ひめつつ西方におちた星!
 おお 夜の影――おお 思い屈した涙の夜!
 おお 姿かくした偉大な星――おお その星をかくす暗々の闇!
 一八六五年四月十四日、暗殺者の凶弾に朴れたエイブラハム・リンカーンを悼み、情熱の詩人ホイットマンは、このような痛惜の詩句を贈った(アメリカ古典文庫5『ウォルト・ホイットマン』瀧田夏樹訳、研究社出版)。当時の人びとの心情も、これに近いものであったであろう。
2  歴史回転の重要なひとコマ・南北戦争――終結以来ここに数日のことであった。劇的といえば、これほど悲劇的な死も少ない。それが相乗効果となってか、ケンタッキー州の丸太小屋に生まれた、長身痩躯の第十六代大統領は、いわばアメリカ史における、立志伝中の雄である。「正直者のエイブ」「奴隷解放の先駆者」「南北戦争の輝ける星」「有能な将軍にして卓越したポリティシャン(政治家)」――ある熱狂的な支持者などは、彼の丸太小屋での出生を、イエス・キリストの馬小屋での誕生になぞらえて、人格の高潔を宣揚している。
 どこまでが実像で、どこまでが虚像なのか。最近では、いろいろと論議を呼んでいるようだが、ともかく、リンカーンの名は、第一代ジョージ・ワシントン、第三代トマス・ジェフーソンら、建国の祖父たちと並んで、アメリカ民主主義の歴史のうえに、燦然と輝きつづけている星であることは、事実である。
3  ある少年が、知人から『ワシントン伝』を借りてきた。夜更けまで読んでいて、壁の丸太のあいだにはさんだまま寝てしまう。ところが夜中に大雨が降って、大切な本がびしょびしょになる始末。持ち主のところへ行ってわびるが、許してもらえない。やむなく三日間まぐさを刈って弁償する。その間に少年は、『ワシントン伝』を、ほとんど自家薬籠中のものとしてしまったのであった。――「ワシントンと桜」とともに、リンカーンの少年時代を飾る、あまりにも有名なエピソードである。わが国でも、少年期に、誰でも一度は耳にしているにちがいない。
 少年リンカーンは、無類の読書好きであったらしい。大工と農業で生活をたてていた父。実母とは、幼くして死別してしまう。幸い、継母サラは、のちに彼が「大事な親友で天使のような母」と慕うような人柄であった。貧しさもあって、小学校時代は、一年たらずしか学校にいっていない。だが、書物を持っている人がいれば、どんな遠くでも足を運び、近隣「四方二十里のあいだ、リンカーンの読まない本はなかった」といわれるほどであった。
 だからといって、小屋に閉じこもってばかりいたのではない。一家の生活を助けるために原野に挑み、農耕に汗を流した。また果実を採集し、ときには狩りなどもしながら、走り回ったという。十八歳のころには、オハイオ州に注ぐアンダーソン川で、渡し守として働きながら、乗降客と交わり、大いに″社会学″を学んだ。斧を扱わせれば、右に出る者はなく、後日、ホワイトハウス入りを果たしたときも、農作業用の重い斧を水平に持ち上げ、肩の高さで支えて、人びとを驚かしている。
4  こうした大草原での生活は、強健な体躯をつくるとともに、彼の内面深く、進取の気概にあふれた、フロンティア・スピリットを、植えつけていったにちがいない。それは、アメリカ民主主義と呼ばれるものの骨髄でもあった。
 博識であり、野性的なとの青年が、念願の政界進出を果たすのは、一八三四年、弱冠二十五歳のときである。イリノイ州議会議員に当選し、以来四期、八年間にわたって在職している。その間、三七年には、独学で弁護士の資格をとり、州都スプリングフィールドに、友人と協力して事務所を開業、多くの事件を手がけている。公平で廉直、説得力のある雄弁は″庶民の味方″として、しだいに信望を集めていった。この時代の経験が、彼の政治家としての生来の資質に、大きく磨きをかけていったのであった。
 意外なことに、当時、アメリカ社会を揺るがす最大の難問題となりつつあった奴隷解放については、どちらかといえば、穏健派に属していた。もとより、あまりにも不平等なこの制度については、最初から批判的であった。ワシントンやフランクリンの伝記物を愛読した彼が、独立宣言に盛られた「我々は自明の理として、すべての人は平等に創られ、造物主によって、一定の奪い難い諸権利を付与され、そのなかに、生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを確信する」との建国の理念と、現実の奴隷制度との矛盾に気づかないわけがない。リンカーンも、この制度の非人道性を早くから感じとり、四七年から四九年にかけての合衆国議員の時代には、積極的に解放派に加わってもいる。ちなみに、彼の出身であるケンタッキー州は、いわゆる″奴隷州″である。
5  だが彼が、即刻、奴隷制度廃止を叫ぶ急進派と一線を画するのは、急進的な主張が、北部の自由州と南部の奴隷州との対立を、決定的に激化させ、祖国を救いようのない分裂と混乱に陥れることを憂慮している点にあった。彼が大統領候補に指名された五八年六月の共和党大会での受諾演説で「『分かれたる家は立つこと能わず』(マルコ伝3の25)。半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家ガヴアメントが永く続くことはできないと私は信じます」(『リンカーン演説集』高木八尺、斉藤光訳、岩波文庫)と述べたのは、有名な話である。その意味でリンカーンは、イギリスのグラッドストーンと同様に、練達の政治家であるとともに、十八世紀ナショナリズムの″子″であったといってよい。
 しかし、指名受諾演説の内容は、同時に、奴隷制度の存続か廃止かの二者択一を迫る意味も含まれていた。リンカーン自身は、それほどの意識はなかったかもしれないが、大勢はそう動いた。六〇年、彼の大統領就任が濃厚となるや、反奴隷制度勢力の増大を恐れたサウスカロライナ州が連邦を離脱、つづいて低南部の六州もこれに同調し、六一年二月、南部連合国を結成するに至る。
 同年四月、南部連合国によるサムター要塞砲撃を皮切りに、南北戦争が始まり、アメリカは建国以来、最大の危機に突入していくのである。
 南北戦争の経緯については割愛するが、その渦中にあっても彼は「もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるならば、私はそうするでしょう」(前出)と述べている。また、開戦に踏みきるにあたっても、南部諸州の抵抗が、それほど激しくなく、短期決戦に終わると読んでいたらしい。しかし、抵抗は予想外に頑強であり、勢い、南北戦争は奴隷解放をめぐる聖戦の色彩を強めていく。リンカーンは、そのチャンピオンである。ことここにいたって、彼も意を決して、世界史上に名高い「奴隷解放予備宣言」を公布。六三年一月一日をもって実施に踏みきった。
6  たしかに現代の目からみれば、彼の姿勢は、微温的で、決断は遅きに失した観があるかもしれない。だが私は、彼の年来の主張、そして、寛大で流血の惨事を好まない性格からみて、ぎりぎりの良心による選択であったと思っている。当時の状況は、彼以外の誰が手を下しでも、それほどすぐれた処理はできなかったのではなかろうか。
 事実彼は、前例を破って、ホワイトハウスに黒人の訪問者を引見したり、また、黒人の友人も多かった。南北戦争の渦中『アンクル・トムの小屋』の作者ストウ夫人が、大統領府を訪れたとき「では、あなたがこの大きな戦争を引き起こした本をお書きになった小さなど婦人なのですね」と、ユーモアまじりに語った、心温まるエピソードも伝えられている。
 おそらく、南北戦争とともにあった大統領在任の四年間は、寛大、温情、正直などの言葉に象徴されている彼の資質を、ひときわ強靭に鍛え上げたのであろう。偉大な人格というものは、苦難に遭遇するごとに輝きを増していくものだ。大統領就任式のために四半世紀を過ごしたスプリングフィールドを去るとき、彼は「いつ帰れるか、果して再び帰れるか、わかりません。ワシントンに委された事業よりも、もっと困難な事業を前にして行くのです」(前出)と訣別の言葉を述べた。予感通り、彼は亡骸となって、四年後に、故郷に帰るのだが、その間の波浪の激しさは、彼の想像を超えるものであったにちがいない。
7  今日に伝えられるリンカーンの肖像、写真を見ると、広い額、高い鼻、鋭く温かい眼光、やせた面長な顔は、聡明な頭脳と強靭な意志とのなかに、どこか憂いを漂わせている。ホイットマンが「一種特別な色、そのしわ、目、口もと、表情、専門的にいう美というものはどこにもない。だが、偉大なる芸術家の目には、なかなかまたと得難い研究の対象となり、よろこびとなり、また大きな引力ともなるであろう」(石井満著『リンカン』旺文社)と評したように、その憂いは、常に決断を迫られ、辛酸をなめつくしてきた、いわば境界線上を生きてきた人間からにじみでる経験の深さと思えてならない。私は「四十をすぎた人間は、自分の顔に責任をもたなければならぬ」というリンカーンの名言を思い出すたびに、ほかならぬ彼自身の″顔″を、いつも想い起こすのである。
 のみならず、彼の顔は、一種の宗教的色彩さえ帯びていると、私は思う。顔だけではない。歴史に残る彼の名演説の多くは、政治次元を超えた、宗教的使命感を、色濃く漂わせている。激戦の地、ゲティズバーグにおける不朽の言葉「われわれの前に残されている大事業に、ここで身を捧げるべきは、むしろわれわれ自身であります――それは、これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽して身命を捧げた、偉大な主義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、(中略)またこの国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため」、さらに、第二次大統領就任演説「なんびとに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、神がわれらに示し給う正義に堅く立ち、われらの着手した事業を完成するために」(前出、『リンカーン演説集』)。
8  これらにみられるトーンは、明らかに宗教的使命感であるピリグリム・ファーザーズ(メイフラワー号で新大陸に渡った清教徒の一団)以来の、ジェファーソン等建国の祖父たち以来の――。それはR・N・ベラーのいうように「アメリカの伝統に非常に深くひそんでいる一つのテーマ、すなわち神の意志を地上で実現するという集団的、個人的な義務」(『社会変革と宗教倫理』河合秀和訳、未来社)であり、事あるごとに指摘される、アメリカ民主主義の復元力と呼ばれるものも、ここに由来するといわれる。南北戦争は、その伝統が直面した、最大の試練であった。その戦乱のなかに身を焼き、伝統を、新たな蘇生へと向かわしめたのが、リンカーンその人であった。彼の演説が極度に宗教色を強めているのも、当然といえばいえよう。
 また彼が、イエス・キリストに擬せられたり、彼の生涯が、必要以上に神話化、伝説化される所以もここにある。当時の、そして以後の人びとも、彼の言々句々に、聖書の言葉にも似た救世、回生の響きを聞きとったにちがいない。リンカーンは、多分、それと意識してはいなかったであろうが、アメリカ民主主義の精神を回生させる、壮大な歴史ドラマの主役を演じたのであった。
 彼は人間を愛し、同胞愛を叫んだ。しかしそれは、観念的、抽象的なコスモポリタニズムと違って、百折不撓の実践のなかから発した叫びであった。善かれ悪しかれ、アメリカの伝統にしっかりと根をおろした、生きた人間の声でもあった。
9  南北戦争以来百有余年、リンカーンの体現していた伝統の精神は、どれだけの命脈を保ちつづけているであろうか。それを判別するほど、私は彼の国の事情に詳しくない。ウォーター・ゲートの事件のとき、祖父の時代に帰れと声高に叫ばれていたのをみると、まだまだ生きつづけているのかもしれない。だが、ベトナム戦争という、精神史的には南北戦争以来の大試練が、数百年の伝統と使命感を、大きく汚してしまったことも事実といわねばならない。リンカーンが、今日生きていたとすれば、その顔に浮かんだ憂いは、いっこうに晴れないにちがいない。
 私の二十代のことであったろうか。ラジオが「私は奴隷になりたくない。だから奴隷を使う身にも、なりたくない」という趣旨の、リンカーンの言葉を流していたのを記憶している。福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」などと並べて、繰り返し放送していた。この偉大な憐欄と人間愛が、人類の頭上に陽の目を見るのは、いつの日であろうか。

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