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日蓮大聖人・池田大作

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生命の探究者 ベルクソン  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  生来、私は詩が好きであった。エマーソンやホイットマン等の、荒々しくも奔放な生命力のほとばしりにも親しんできた。同時に、一方ではベルクソン流の、精緻な論証を積み上げた果てに姿を現す、創造的生命の領域にも、不思議な魅力を覚えたといってよい。翻訳の壁もあって、正直いって読み通すには難渋した。しかしその難しさは、普通、哲学の難解さと呼ばれるものとは、やや感触を異にしていたような気がする。実証科学の成果こそふんだんに取り入れられていたが、なによりありがたかったのは、哲学の専門知識なしで読めたことである。
 そして綿密かつ流麗な筆致の裏には、直観によって把握され、論証によって純化されたあふれんばかりの生命感覚の高揚をたたえていた。彼の所説が、哲学のみならず、文学や芸術の世界にも広く影響をおよぼしている所以も、この辺にあるのではなかろうか。
 私は最近の哲学界で、ベルクソン哲学が、どのように位置づけられているかは、よく知らない。だが、押し寄せる実証科学の荒波に蚕食され、瀕死の状態さえ余儀なくされつつあった人間の精神世界の孤塁を守り抜くために費やした、彼の知的営為は、哲学というものの存在するかぎり、永遠に輝きつづけるであろうと信じている。
3  十九世紀中葉、西洋科学文明の華々しい進展の季節。それは同時に、普仏戦争から、第一次、第二次世界大戦へとうちつづく、未曾有の動乱の幕開けでもあった。アンリ・ベルクソンは、一八五九年十月、パリに生まれる。ポーランド出身の音楽家の父と、優美なイギリス婦人を母としていた。ともにユダヤ系である。幼児には、ユダヤ教の教育を受けたとある。
 父からは、芸術家に特有の直観力の鋭さと知的厳密さを譲り受けた。母によっては、実際的でしかも理想主義の精神と宗教的な魂を植えつけられたようである。しかし、宗教心の発動をみるのは、人生の後半に入ってからである。
 学生時代の彼は、もつばら、数学、物理学、古典に親しんでいる。フランス哲学は、デカルトやパスカル以来、科学と対立することなく、友としてきたが、ベルクソンも、この伝統の例外ではなかった。科学好きのこの青年は、当時の哲学界の主流であるカント主義を信奉せず、スペンサー流の進化論哲学に魅了されていた。全宇宙の機械論的説明を夢みていたという。
 哲学者としての基盤が打ち込まれるのは、クレルモン・フェラン時代である。原体験ともいうべき純粋持続の発見がなされたからである。厳しい自己集中、それによる機械論の再検討、スペンサーの「第一原理」の時間への疑問、エレア派のゼノンが提示する″飛んでいる矢は止まっている″等のアポリアの解明。思索が思索を呼び起こす。長く苦しい、自己自身との対決である。その極限で「ある日」「突然に」直観の徴光がともる。純粋持続、内的自由の発見であり、存在との劇的な接触であった。
 この純粋持続の発見は、ベルクソンの、以後の思索活動を決定づける一石であった。後年、彼は「わたしは、以前から、徹底的な経験主義者だ」と語っているが、言葉によって固定化されたのは、偽装経験にすぎない。たとえば「『物自体』に好きな名前を附け、それをスピノザの実体、フィヒテの我、シェリングの絶対、へーゲルの『イデー』、もしくはショーぺンハウエルの意志」(『哲学の方法』河野興一訳、岩波文庫)としたところで、言葉そのものは純粋経験にはならない。そうした装いの外被をはぎとって、″意識の直接与件″にどう迫るか――これが、第一の主著『時間と自由』を著すさいの、ベルクソンの苦渋に満ちた内的作業であった。その結果、純粋経験としての純粋持続のイメージが、あたかも天啓のように、彼の精神に宿ったのであった。そして、その純粋持続の把握は、知性では不可能であり、とぎすまされた哲学的直観によるしかないとしたのである。
4  主知主義の時流に抗した、ラディカルな知性批判は、同時にラディカルな科学的認識への批判でもあった。彼は、真っ向から科学の盲点を指摘した、おそらく最初の哲学者である。しかし彼は、知性や科学を軽視したのではない。その役割を正当に位置づけたのである。第一に、知性は物質を対象とするかぎり有効である。ことに科学的認識が成立する。第二に、知性は生命それ自体をとらえられないにしても、直観への思索には不可欠である。さらに直観の論理化にも不可欠である。彼は「どんな哲学も、実証主義さへも、実証科学を私程高いところに置いてゐない」(前出)とまで言い切っている。
 ともあれ、ここに、彼の独創的な哲学――生命論と科学論の基点が確立したのである。こうして彼は、従来の哲学を呪縛しつづけてきた「永遠の相の下に」の視点を排し、「接続の相の下に」、人びとを魅了してやまぬ印象的な青い澄んだ目をもって、事実の真実の姿を凝視しつつ、思索の旅をたどるのである。第二の主著『物質と記憶』は、哲学の永遠の課題である身心論へのユニークな試みであり、第三の主著『創造的進化』は、当時の進化論を取り入れた、パノラマのごとく絢爛たる、生命の世界の展開である。
5  たしかに、その世界の結構は、今日からみれば、欠陥の多いものであるかもしれない。ジャック・モノーなどは「私の少年時代には、『創造的進化』を読んでおかないかぎり大学入学資格試験に合格することはお、ぼつかなかったのであるが、今日ではこの哲学はほとんど完全に信用を失ってしまったように思われる」(『偶然と必然』渡辺格、村上光彦共訳、みすず書房)と述べている。それも一つの見方であろう。だが私は、ベルクソンも自説の不備にうすうす気づいていたように思う。というのも、『創造的進化』の発表後、第四の主著『道徳と宗教の二源泉』を準備中の彼は、自分の哲学的業績として後世に残るものがあるとすれば、″学説″や″理論″ではなく、″方法″であると、執拗に語っているからだ。
 その方法とは、前述したように、存在の内的把握を試みる直観と、知性や科学との精妙な使い分けを意味する。しかも彼は「科学と哲学は対象と方法を異にするが、経験の中では通じ合ふ」(前出、『哲学の方法』)と断言してはばからない。ここに、ジャンケレヴィッチによって「実体の一元論、傾向の二元論」と評された、ベルクソン哲学の最大の特徴があるのであるが、私は、彼の方法論がいまもって新しく、有効であると思っている。
6  さて、『創造的進化』を世に問うたころから、思索の哲学者は、エネルギッシュな行動の人となる。その行動も、華々しい国際色に彩られていく。海外での講演、イギリス心霊学会会長への推挙、道徳・政治学学士院議長に選出。そして第一次世界大戦中には″哲学者大使″としてアメリカに派遣され、世論を巻き起こし、ウィルソン大統領をも動かす。戦後は、国際連盟の諮問機関である、知的協力に関する国際委員会に、アインシュタインとともに参加、満場一致で議長に選出されている。そして一九二八年には、ノーベル文学賞に輝いている。
 絢爛たる活躍ぶりである。輝ける栄光が嫉妬の炎をあおりたて、彼の哲学への論難が浴びせられたこともあるが、かえってこのことが、彼の名声を高め、人気を博す結果をもたらしたといってよい。成功の鍵は、もちろん哲学の独創性にもある。しかしそれ以上に、人格そのものが、人びとの魂を揺り動かしていったことにある。
 講義は「泉からわき出るようなみずみずしさ」にあふれでいたという。国際委員会では「彼独特の思慮深い輝きをもった眼」と「洗練された、すきとおったような声」が、委員全員の絶対の信頼を集めていた。恵まれた豊潤な素質もある。卓越した才能の持ち主でもあった。それと同時に、私は、彼の人格の力の源泉を、エラン・ヴィタール(生の飛躍)に求めたい。
 「最上の創造者というのは、その人の行動自体が充実しているだけではなく、他人の行動をも充実させることができるような人であり、その人の行動自体が高邁であるだけではなく、高邁という炬床かまどに火をつけ燃えあがらせることができるような人」(『世界の名著53 ベルクソン』所収「意識と生命」池辺義教訳、中央公論社)であると彼は言う。この言葉は、生涯人間を信じ、ドグマや偏見と戦いつづけてきたベルクソンその人と、二重映しになってくる感さえあるのである。『道徳と宗教の二源泉』は、リューマチの連続する発作との格闘のなかで著される。栄光の人生にも、老いの影がしのびより、疾病の発作は、行動の自由をも奪ってしまう。それでも老哲学者は、敢然と最後の創造へ向かう。人間学の完結である。すでに、宗教的魂は蘇っていた。
7  第二次世界大戦の前夜である。彼は、迫りくるボルシェヴイズムとナチズムの脅威を、それぞれ無神論と閉じた宗教の帰結ととらえる。殺毅兵器は知的分析の悪魔的所産である。物質的欲望の噴出と快楽への狂乱――。なおかつ彼は、人間を信じつ事つけている。「私は歴史における宿命を信じない。充分に緊張した意志は、もしそれが適時に振舞うならば、どのような障碍でも粉砕し得る。それ故、避けられない歴史的法則というようなものはない」(『道徳と宗教の二源泉』平山高次訳、岩波文庫)との確信を支えていたものこそ、『創造的進化』のエラン・ヴィタールから、エラン・ダムール(愛の飛躍)へと飛翔した、精神の高揚であった。
 愛の飛躍を成し遂げた哲人は、人類愛への熱情に突き動かされて、回生の方途を訴えかける。凶暴化する科学文明をコントロールするには、巨大な精神エネルギーを蓄積し精神文明を興隆する以外にない。そのために要請される人間の生き方は、動的宗教による単純なる生であると――。
 『道徳と宗教の二源泉』と、それ以前の著作とのあいだに、ある種の思索過程の落差があると指摘するむきもあるようだが、私は当たらないと思う。彼の哲学は概念や論理の堅牢を誇るのではなく「生きることが第一」という、生の準則に従っている。彼は「心眼」をとぎすまし、直観の奥底に「何か単純な、無限に単純な、並外れて単純なために哲学者がどうしてもうまく云へないやうなもの」を見つめつづけ「哲学するといふことは単純な行為」とさえ言いきる(『哲学的直観』河野興一訳、岩波文庫)。動的宗教による単純なる生ということは、彼の思索の、忠実在帰結ともいえるのではなかろうか。
 ベルクソンは、その動的宗教の最高峰を、キリスト教の神秘主義に求めている。仏教に関しては、明らかに認識不足な点は否めないが、私は、彼が神秘主義なるものの特質を「行動であり、創造であり、愛」(前出、『道徳と宗教の二源泉』)としている点に注目したい。神秘主義はともかく、宗教的生に発する行動や創造、愛の動的エネルギーこそ、物質科学文明転換の貴重な指標たりうるであろう。「徹底的な経験主義者」が、経験の無限の深みを、ここまで降り来ったことに、私は尊崇の念を禁ずることができない。
8  一九四一年一月、この真摯な哲学者は、永遠の旅路につく。最後まで『物質と記憶』の一節をつぶやいていた。そこで到達した死後存続の確信に、思いをめぐらせていたのであろうか。死の足音を聞きつつ「私は強い好奇心をもって死をまっている」とも語っていた。ユダヤ人との理由から、葬儀も営まれなかった。ナチス占領下の厳寒のパりである。だが、凍てついた大地をたたき破るような、彼の魂の叫びは、混迷の闇が深まるほどに、いっそう人びとの心にこだましつづけていくにちがいない。

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