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日蓮大聖人・池田大作

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東西を結んだ若き情熱 アレキサンダー  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  アレキサンダーが呱々のの声をあげたのは、紀元前三五六年である。哲学の遠き祖ソクラテスの直後の時代であり、東洋においては釈尊の活躍のあとであった。いわば哲学、宗教の夜明けの時代であったともいえよう。もっともキリスト誕生は遥か後であり、日本など、有史以前という状態であった。
 幼時から天才の誉れ高かったという。天賦の才を認めた父フィリップは、当代随一の学者アリストテレスを家庭教師につけた。ソクラテスの後継者プラトンの弟子を師にもったアレキサンダーは、十三歳に至る三年間、ギリシャ文学、倫理学、政治学、哲学、科学を学んだ。
 アリストテレスが自然科学、とくに医学等に造詣が深かった関係上、ほぼ全般にわたって知識が得られ、これがのちに戦闘の指揮に大いに役立つことになる。少年の家庭教師は、彼のためにわざわざ、哲学者たる王の思想を示した『王道論』や、植民支配を教えた『植民論』を著して、未来の王に贈っている。
 二十歳――父フィリップの暗殺によってマケドニア軍会議の決議のもと、王位につく。全ギリシャ騒然として反乱の兆候がみえたが、疾風迅雷、遠征地より取って返し、たちまちにして平定。以後、連戦連勝の日々が始まるのである。
 ギリシャを平定し、バルカン半島を手中に収めたアレキサンダーは、二年後、いよいよ東征の途につく。その彼方には強大なペルシャがあった。長い歴史を誇ったとの強国も、やや下り坂になっていた。しかし三度の大会戦を経て初めて滅ぼすことができたのである。斜線陣など、独特の戦法で勝利を収めたが、なにより勝因となったのは、やはり彼の率先垂範であったという。
3  将兵の先頭に立つ王は、幾度も生命の危険にさらされた。敵将二人に同時に襲われ、間一髪、味方に救われたことなど、戦闘史の遥かな一齣いっせきにすぎない。その戦いのなかで、若き王と臣下は「友だち」のごとき連帯意識を培っていった。
 強い意志、明晰な頭脳は父フィリップから、情熱的な性格は母オリンピアスから受け、どの戦闘にも劇的な勝利を収めて東征はつづいた。しかしそれは、武力による有無をいわせぬ制圧だけではない。もし、そのような転戦であれば、マケドニア軍はいくらいても足りなかったであろう。精兵は王とともに東へ征く。あとに残った地が叛逆しないのは、威力を恐れただけではあるまい。そこにアレキサンダーの占領政策の卓越性、人心をつかむ資質がみられるのである。
 勇敢に戦った敵の将兵を許すどころか、自分の親衛隊に用い、また捕虜となった敵将の母を王者の礼をもって遇し、逆に夫の首を持って許しを乞うた王妃を砂漠に追放するなど、義理に篤い王であった。
 それだけではない。被征服民族に対する思想に一歩進んだものをもっていたゆえに、占領政策が成功したのである。彼の師アリストテレスはこう説く。「ギリシャ人に対しては友に対するように、アジアの異民族に対しては動植物を扱うように」と。当時の最も進歩的な哲学者イソクラテスでさえ「へラス人と異邦人の相違は出自によるのでなく教養による」と、ギリシャ人の優位を説いている。
 しかし、アレキサンダーの考えは違った。「神は全人類のあまねき父にして、それゆえ全人類は同胞である。人類をギリシャ人と異邦人に区分すべきではなく、善悪によってわかつべきである」(『世界大百科事典』「アレクサンドロス大王」粟野頼之祐、平凡社)と。
4  この思想から、次のような占領政策が生まれる。プリエネ市から出土したアレキサンダー王令碑文によると「この都市は、自治にして自由である。都市の公有地と、市民の私有地ならび、私有家屋はいままでどおり領有権を認める」となっている。農民等に対しては差別の残った考えであったが、征服した都市に対しても、自治を与える思想が徹底されていたことが分かる。方法は野蛮であり、奴隷制の上に立ったものではあった。しかし、その発想が当時においてきわめて進歩的な、人類平等に近いものに立っていたことは着目に値しよう。
 彼のとった面白い民族融合策がある。それは集団結婚であった。王自身、異民族の女性と結婚したが、八十人の高官もそれぞれペルシャの貴族と結婚し、さらに一万人の将兵にペルシャの女性を配したという。随分、突飛なやり方だが、青年らしい直情さで人類の融合を図ろうとしたのであろう。
 軍隊においてもそうであった。ペルシャ青年を三万人集めて訓練を施し、自国のマケドニア兵と同じ待遇にした。ペルシャ人による近衛軍団としたのである。マケドニア兵は怒り、反抗したが、王はかえって自国の兵を解任し、ペルシャ軍をもって正式な近衛軍とした。驚いたマケドニア兵が許しを乞い、両者の和解がなったという。
 その和解の祝宴は、九千人のマケドニア兵と同数のペルシャ兵を招待して張られた壮大なものであった。そこで祈られた両民族融合の祈りは、オピスにおける「和合の祈り」として有名である。
5  こうしたアレキサンダーの行跡をなぞってみると、彼の遠征に、人類の和合、文化の交流という側面が顔を出してくる。事実、その東征は、人間交流、知識探検という性格ももっていたのである。
 アレキサンダーの遠征軍には、多くの学者が従軍した。未知の地域を測定し、動植物を観測している。エジプト遠征のときにはナイル川を調査し、この川が定期的に氾濫を起こすのは、アビシニア地方の季節的豪雨が原因であることをつきとめたりしているのは興味深い。
 この遠征がヘレニズム時代の地理学、生物学等、自然科学に大きく寄与しているのは、その性格の一端を物語っているのではなかろうか。
 このような俯瞰作業から、アレキサンダーの大まかな人物像が浮かび上がってくるようだ。彼の十二年間の閃光のような日々は、まさしく「戦士」としての性格をもっている。武力の戦士たることは当然である。同時に「文化の戦士」でもあったような思いがするのである。
 占領地の宗教と文化には尊敬を払い、深い理解を示した。港の建設や、国際通貨の制定、追放者復帰令など、広い観点から政治を行おうとした。この思想は、ストア学派が出るにおよんで体系化され、やがてローマ帝国へと引き継がれていく。
 アレキサンダーが出たときは、マケドニアはギリシャの一地方であった。しかし、そのギリシャ文化は、やがてヘレニズム文化を生み出す母体となり、世界の精神史の土壌ともなっていった。アレキサンダーのこの思想が、のちに出るキリストの精神に強い影響を与えているとする考え方も多い。のみならず、今日の科学を支えているギリシャの科学精神も、オリエントの地へ文化を携えて赴いたアレキサンダーの長途の旅に、多くを負うところがあったのである。
6  その戦いの鮮やかさと激しさのゆえに、アレキサン、ダーに敵は多かった。何度か暗殺されそうになり、そのつど切り抜けた。しかし三十二歳、日の出の勢いの若者のとどめを刺したのは、おそらく一匹の蚊であった。高熱に侵され、雄図半ばにして、若き大王は倒れた。しかも、そのあとを継ぐ人材群が彼にはいなかった。天才の悲劇なのかもしれない。
 指揮者にとって、後継のないほど哀しく寂しいものはない。アレキサンダーはどこまでも孤高であった。
 あるいは、悲しくも彼はそれを悟っていたのかもしれない。それゆえに、自分の一代で一切を成し遂げようとしたのであろうか。地道で着実な思想の王道、平和の王道を避けて、武力の覇道に拠ろうとしたところに、彼の失敗と悲劇がある。
 私はアレキサンダーに二つの影を見た。それは古い時代の人としてのアレキサンダーと、未来への方向をもったアレキサンダーである。
 すなわち、アレキサンダー一代で築かれ、それを限りに滅びていった帝国の大王としてのアレキサンダーと、それが発端となって、ヘレニズム文化の多彩な開花があり、東西に文化の興隆が起こり、さらにはローマ帝国の出現へと、世界史が流れ込んでいく、その水源としてのアレキサンダーである。
 前者のアレキサンダーは死んだ。儚い生涯であった。その名がもてはやされる軍国時代も、死んだ。しかし、文化の興隆者としてのアレキサンダーは、いまだ死んでいないと思う。そしてその名を評価する、人類平等の精神文明の時代は、今、暁光が差し込み始めたところであるといえまいか。この陽光が大きく世界を覆うとき初めて、帝国ではなく、人類が志向しているであろう、人間の人間のための世界国家ともいうべき、理想郷が出現するといってよい。
 私は、文化の交流ほど、息の長く、尊い作業はないと考えている。東西に精神の懸け橋を渡すことが、これからのなさねばならぬ、緊要にして永劫の目標である。しかもその主役は一人の王ではなく、広範な民衆である。その意味でアレキサンダーの通った道を逆に、精神の遺産を携えて、互いに交流しあいつつ遡行してみたいというのが、私の夢なのである。

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