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日蓮大聖人・池田大作

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孤高の哲人 デカルト  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  ところで私は、そうした文明史の曲がり角を見るにつけ思うのだが、われわれ現代人の陥りやすい通弊は、ともすれば現代の目のみをもって過去を裁いてしまう点にあるのではなかろうか。それがすぎるあまり、先人の歩いた道が示している、善悪両面の貴重な教訓をも、見失うようなことだけはあってはならないと思う。
 なにもデカルトを弁護しようというのではない。私の目は、一点に注がれている。それはともかく彼が、未踏の世界に懸命に挑戦し、生きたということである。彼の時代では、人びとの心を支えていたスコラ哲学の支柱が崩れ去り、精神世界は混迷の闇に覆われていた。そのなかでデカルトは、知力と情熱をふりしぼって生きた。
 彼は『方法序説』のなかで、自らを森のなかの旅人になぞらえている。「かれらが森の中で道に迷ったならば、もちろん一か所に立ちどまっていてはならないばかりでなく、あちらこちらとさまよい歩いてはならぬ、絶えず同じ方角へとできるだけ真直ぐに歩くべきである」(落合太郎訳、岩波文庫)と。
 彼は文字通り、そのような道を歩んだ。「一つ判断をあやまればすぐにも処罰されねばならぬ結果をきたすような、おのれにとって重大な事のために各人がこころみる推論においてこそ、はるかに多くの真理に出会うことができよう」(前出)との信念に立って、書斎や書物をすてて歩みつづけた。伴侶を求めず、ただ一人――。そこには、アカデミズムに閉じこもる、哲学者のイメージとはほど遠い、戦士の風貌が彷彿としている。
3  私は仏法者であり、デカルトの発想と次元を異にする立場にある。しかしデカルトにひかれるのは、彼の明晰をもって知られる哲学より以上に、そうした人間としての戦いの響きを感ずるからである。あるいは、哲理の明晰さが、流汗淋漓りゅうかんりんりたる現実との苦闘と表裏をなしているという一点である。
 ルネ・デカルト。この近代思想界の巨人は一五九六年、フランス中部の貴族の家に生まれた。貴族といっても下層に属し、パスカル、コルネーユ等も同じ階層から出ている。生まれてほどなく母を失い、自らも病弱であったという。
 十歳のとき、創立まもない、イエズス会系のラ・フレーシュ学院に入学。そこで、スコラ学とルネサンス・ユマニスムを軸とする諸学を学ぶ。明晰性と確実性への希求を、生来の質とした彼は、歴史学などの不確かな学問を嫌い、数学を、ことのほか好んだらしい。八年間で、ひととおりの課業を終えたあと、ポアチエの大学で、法律学と医学を学ぶ。
 だが、学院や大学で学んだ知識は、この鋭利で血気壮んな若者を満足させはしなかった。彼は二十歳にして、書物による学問に見切りをつけ、「世間という大きな書物」に学ぶために、諸国歴訪の旅に出る。ときに宮廷に遊んで議論をかわし、ときには軍隊に身をおく。ある女性をめぐって決闘におよび、勝ったこともあるという。剣にかけても、なかなかの使い手だったらしい。
 そして一六一八年から一九年にかけて、デカルトの生涯を決する画期的な″事件″に遭遇する。新進の自然学者べークマンとの邂逅と″デカルトの夢″として知られる知的啓示である。ベークマンとの出会いは、幼いころから愛好していた数学的自然学への志向を、決定づけた。たしかにそれは、当時の学問界の雄として台頭しつつあった分野だが、デカルトの資質はそこにとどまっているほど狭小なものではなかった。彼は数学者や自然学者である以上に、哲学者だったのだから。
 それを決定づけたのが、一六一九年十一月十日、ドイツのウルム郊外の炉部屋に滞在中の一夜、忽然と夢の中にあらわれた三つの啓示である。その内容については、死後四十年たって発見された手記に「私は霊感に満たされ、おどろくべき学問の基礎を見出した」とあることから推量されるだけである。
4  諸説があるが、伝記作者ジルソンによれば(1)諸学問全体の統一、(2)哲学と智慧の和解、おびそれらの基礎的統一、(3)彼自身がその使命を神からうけたという自覚の三つに、還元されるという(竹田篤司著『デカルトの青春』勁草書房)。いずれにせよ、彼の生涯を決する、エポック・メーキングな″事件″であったことは間違いない。
 これほどの大事が『方法序説』のなかで、ほとんど具体的に語られていないということは、興味深い事実である。おそらく明晰性を重んずるデカルトは、そうした神秘主義的体験を語るのを好まなかったのであろう。しかしそれが、彼自身にとって、いかに深刻な内的体験であったかは、イタリアの聖地ロレットへの巡礼や、当時の神秘主義団体「バラ十字会」への関心など、およそこの合理主義者に似つかぬエピソードが伝えられていることからも、明らかである。
 現代の精神的風土からみると、こうした啓示など、うさん臭いものに感じられるかもしれない。しかし私は、すぐれた精神を内より揺り動かす体験には、現代科学をもってしでも覆いきれぬ奥深さがあるように思う。ソクラテスはダイモン(神霊)に憑かれていたし、ゲーテもしばしば、自己をつき動かしてやまぬデモーニッシュ(超自然的)な力について語った。デカルトの内に、そのような力が働いていたと考えても不思議はないであろう。ただ彼は、それを好んで語ることを欲しなかっただけである。ときにデカルト、二十三歳の若さであった。
5  しかし彼は慎重であった。速断と偏見を避け、じつに九年間の長きにわたり、内なる体験を、外との交わり、経験によって錬磨することに努める。その間の精神の遍歴、動揺は、おそらく彼が『省察』のなかで述べているように「足を底につけることもできないし、また水面へ泳ぎ出ることもできないといったような状態」(『世界の大思想1−7 デカルト』所収、桝田啓三郎訳、河出書房新社)であったであろう。
 そして一六二八年、喧騒を避けてオランダに独居した彼は、思索に次ぐ思索の糸を、かの有名なが″コギト″すなわち「私は考える、それゆえに私はある」との一点に結びつけたのである。その堅牢な足場に、彼は両足を踏ん張って立った。まさしく″アルキメデスの支点″であったであろう。精神界のアトラスのごときその姿は、近代的自我の目覚めを告げる暁鐘であり、同時に、近代哲学の広大な流れの礎石をおいたのである。
 炉部屋の啓示以来、九年の歳月を貫くものは、神の束縛から解放された人間が、なお生きる基盤を求め抜く、自立への意志であった。その苦闘の足跡は、″コギト″の名とともに、永遠に人間解放の歴史上から消えることはあるまい。
 いわゆる哲学の″第一原理″を見据えたのちのデカルトの関心は、形而上学を根本として、ほとんど学問全般におよんでいる。若き日の啓示にあった「諸学問の統一」という課題を忠実に実行しようとしたわけだが、ここでは割愛しておきたい。
6  私が、デカルトの思想遍歴に注目する最大の理由は、混沌に直面した彼の目が、まず″内″を向いたということである。自身「運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努め」(前出、『方法序説』)たと述べているように、内面を凝視することが、彼の第一義であった。その点がパスカルと同様、彼を、当時の多くの科学者や数学者と分かつ点であった。彼らが、超一流の科学者でもあっただけに、この事実は、なおさら際立ってくるのである。
 事にあたって自らを省みるということは、人間誰しも困難なものだ。ややもすれば、混乱の渦中に巻き込まれ、右往左往を繰り返してしまう。時代が濃霧に包まれていれば、なおさらのことである。アテナイにおけるソクラテスとともに、デカルトも、ほかならぬ″汝自身″を問うことから出発したのであった。その掘削作業、内面への問いかけの深さが、以後、数百年にわたる彼の哲学の影響性を支えていたといえるであろう。
 だが、その掘削作業は、岩底まで至っていたであろうか。最近の深層心理学は、意識の極限ともいうべき″コギト″をさらに突き抜けたところに、なおかつ大海のような無意識、集合的無意識層が広がっていることを解明している。それは、縦に人類数千年の歴史を通じ、横に世界をも包み込む広がりをもっという。それに対し、デカルトの″コギト″は、あくまで個我であった。「私は考える、それゆえに……」の保証するものは「私」の存立する基盤のみであった。
 事実、オランダに独居してからの彼は、徹底して孤高、不羈ふきの姿勢を貫いている。群衆のなかへ出歩くことはあったが、交わりをもとうとはしなかった。祖国フランスで、オランダにおける彼の居所を知っていたのは、親友のメルセンヌのみである。デカルトの後半生を彩る論争のほとんどは、このメルセンヌを通して行われている。あるとき彼は、親友にこう書き送った。「よく隠れし者、よく生きたり」と。
7  すなわち彼の掘り当てた基盤は、己自身のみ、よく拠って立つことのできる基盤であった。そこには″他者″の介在する余地は、ほとんどない。もとより彼は、良識や理性が、万人に公平に分配されていることを信じてはいた。しかしそれが、人びとの内面でどう繋がり、どう触発されていくかについては論じなかった。そこまでいくと、無意識の次元より発する感性の問題が不可欠となってくるのだが、デカルトは、積極的な関心を示そうとしなかった。例外は、親交のあったエリザベート王女、クリスチーナ女王との数多くの書簡と、晩年の『情念論』だけである。だがそれとても、二人の女性との私的関係のうえから、やむなく公にされているのである。
 思うにデカルトの孤高は、根無し草にも似た現代人の病的な孤高からみれば、よほど健全ではあった。彼の孤高は、世を嫌った厭世家のそれとは遠い。独居の地にしても、人目を避けた山林などではなく、殷賑いんしんを極めていた商都アムステルダムである。そこを拠点に彼は、多くの論敵と渡り合った。
 だが私には、その倨傲きょごうなまでの孤高が、どうしても孤独の影を引きずっているように思えてならない。影は、太陽が中天にあるうちは、あまり目立たない。日が傾き、黄昏時になると、しだいに黒く、長く伸びてくる。
 デカルトの時代は、乱世とはいえ、近代の力強い勃興の足音が迫っていた。その近代は、いまやあまりにも無残な姿をさらしつつある。影は身の数倍にも伸びて、まさに覆い尽くさんばかりである――。
8  ポール・ヴァレリー(フランスの詩人)は、デカルトの″コギト″を「精神の自負と勇気とに『目覚めよ』と呼びかける起床ラッパ」と形容している(『ヴァレリー全集』9所収「デカルト考」野田文夫訳、筑摩書房)。その通りであろう。しかしその音色は、今ではある種の就寝ラッパといえるかもしれない。安らかな眠り、そして新たな目覚めは、はたしてくるのか。ここに、現代のわれわれに課せられた、最大の課題があるであろう。同時にそれは、かの自立、独歩の巨人デカルトへの、最高の敬意ではなかろうか。

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