Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

レオナルド・ダ・ヴインチの眼光  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  私はレオナルド・、ダ・ヴインチの眼に惹かれる。彼は生涯、人間と自然と宇宙を彼自身の眼で凝視し、真実を見通そうとした人である。彼が描いた晩年の自画像は、叡智の高さと、思索の深さと、そして意志の強さとを伝えている。鋭く遠い眼差し、それを包んで、秀でた額に深く刻まれた皺、固く結ばれた口元、豊かな白髭がある。――哲人の面貌である。
 若きラファエロが、ローマ法王宮に有名な「アテネの学園」の壁画を描いたとき、壁画中央に威風をはらって弟子のアリストテレスとともに語るプラトンは、レオナルドをモデルにしたものだと伝えられるように、彼は画家であると同時に哲学者をもって遇されていた。
 レオナルドは、技術としての絵画を、芸術に高めた人だといえる。「技」を「芸」にまで高めたのは、彼の鋭い「眼」であった。彼が哲学者であった所以もここにある。彼はこう言う。「魂の窓と呼ばれる眼は、それによって共通感覚がもっとも豊富かつ壮大に限りない自然の作品を考察しうる第一義的な道である」(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)
 彼は自らの眼で見、わが感覚で確認するところから出発しようとした。したがって、言葉のみの観念の世界に遊ぶ学者には、強い嫌悪の念を隠そうとしない。
 彼は自らを「経験の弟子」と呼ぶ。自分の労苦ではなく他人の労苦でふくれあがり、他人の言葉をもって語る人びとに対しては他人の作品のラッパ卒兼暗誦家」と痛言するのである。
 「ルネサンスは世界と人間の発見の時代」といわれる。ギリシャ・ローマの古典文化の学習、研究を通して文化の再生、復興が行われ、人間の再発見がなされた時代である。中世の暗黒時代からの人間解放として、それは大きな意義をもつが、同時に、ギリシャ・ローマの古典文化を一つの規範として、その鋳型のうえに自己形成と人間探究を試みようとした時代でもあった。したがって、そこには貴族的、保守的な現実肯定の人間像が生まれ、優雅な宮廷人、教養人が理想ともされたのである。
2  当時の学者は図書館やアカデミーに閉じこもり、古典文献に依存していたが、「無学の人」を自称するレオナルドは「経験の弟子」に徹した。彼は教養人たらんとするよりも、自然の事実を探究し、自らの眼をもって事象の深層を凝視する創造的人間の道を進もうと願ったのである。
 「智慧は経験の娘である」との信念に立つレオナルドは「研究者諸君、ただ想像だけによって自然と人間との間の通訳者たらんと欲した著述家連を信じるな。自然の目くばせではなくその経験の諸結果によって、自分の天分を磨いた人々を信じたまえ」(前出)と″書物の学者″を批判するのである。
 ことにレオナルド・ダ・ヴインチの真骨頂がある。彼は画家ではあったが、単なる画家ではなかった。「最後の晩餐」にせよ、「モナ・リザ」にせよ、たしかに人類の財産として誇るべき見事な作品を残したが、ただ作品のみをもって評価するならば、遠近法を採用して先駆的業績を果たした点を除き、歴史上に名をとどめる幾多の画家と、それほどの相違はないかもしれない。
 むしろ、彼の作品のあまりにも少ないこと、そしてその多くは未完成のまま残されたことを勘案するならば――あの「モナ・リザ」でさえ未完成なのである――はたして彼は画家であったのかという疑念さえ浮かびかねない。
 彼の画家としての働きは、自然と人間の探究に尽くした生涯の一部分を占めるにすぎないのである。自然と対峙し、経験を通し、自らの頭脳で考え、そこに貫かれる理法をみようとしたのである。その作業の一角に絵画があった。
 この意味で彼は、十七世紀のデカルトに通ずるのではなかろうか。デカルトもまたスコラ哲学を批判し、書物による学問を捨てて世間という書物に学ぶために諸国を旅して、自らの頭脳で真理へ至る道を求めた。デカルトが元素について論じ、天文について論じ、光について論じたように、レオナルドも、光学、天文学、力学、気象学、生理学、解剖学、さらに土木技術、都市計画にまでおよんでいる。レオナルドは科学者でもあったのである。
 しかし、ここでもまた彼は、単なる科学者ではなかったといわなければならないであろう。彼の科学は、あくまでも人間と自然を貫く理法を追い求めようとする彼の行路の手段としての科学であった。
3  経験を師として万般に通じていたレオナルドの合理的思考は、彼の生きた時代を考えるとき、驚くべきことである。ちなみにローマ法王さえ、常時、身辺に占星家をおいていた時代である。人びとの頭脳は権威と因習に支配されていたが、彼の明噺な思考は、その非合理を見抜いて魔術や占星術には鋭い批判を加えている。
 たとえば彼は、当時の人びとにとって絶対の権威であった『聖書』に説かれるノアの大洪水も、水の性質からありえぬことだと、きっぱりと否定している。当時、山の中から発見される海産動物の化石は、ノアの洪水を証明するものだとの説が有力であったが、水が上がったのではなく地盤が隆起した、つまり地殻変動の証拠としてとらえる科学的思考が、彼にはあった。
 このような合理的思考をもっレオナルドが、キリスト教の神を信じていたかどうか。彼の手記を通して感じられることは、無関心ということである。
 彼が神をいう場合、それは彼の鋭敏な眼光によって洞察された宇宙、自然の法理なのである。彼は手記のなかに「自然の中には理法なき結果は何ひとつ存在しない」「自然は、経験の中にいまだかつて存在したことのない無限の理法にみちみちている」「自然は、自己の中に渾然と生きている自己の法則の理法によって強制される」(前出)等と書きしるしている。
 レオナルドの神はここにある。その彼は、大自然を観察して次のように言っている。
 「感覚的な生命も植物的な生命もあるいは理性的な生命も存在しないところには何ものも発生しない。(中略)大地は植物的な生気をもっているといってよかろうし、またその肉は大地、その骨は山脈を構成している連続せる岩石層であり、その軟骨〔筋肉〕は凝灰岩であり、その血管は水脈であり、心臓の周りに横たわれる血の池は大洋であり、その呼吸や脈搏による血脈の増減はまた大地においては海の潮汐であり、そして世界の生気の熱は地中に瀰漫せる火であり、植物的な生気の住居も、大地の四方八方の地点から温泉、硫黄鉱、火山――例えばシチリアのモンジベルロ山その他非常に多くの場所――となって噴出するあの火の中にある」(前出)
 レオナルドにとっては、地球も一個の生命であった。否、宇宙さえも巨大な生命と映ったであろう。彼は現象の奥に実在を求めるのではなく、奥にあるものを現象に即してみようとした。ここに眼光の鋭さを感ずる。
 彼の独自の「眼」は絵画にも見られる。
 「自然や風景が自覚的に絵画の主題として採り上げられたのは近世のことであって、絵画論としては恐らくレオナルドが初めてであろう。古代以来西洋の絵画は人間をしか主題としていなかったのである」(下村寅太郎著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』勤草書房)
4  レオナルドは自己がその一部であるところの大自然の転変を貫く理法をみようとしていたのではないか。彼が風景を描き、草花をスケッチしたのは、そこに無限に広がる時間と空間に秘められた理法を表現しようとしたのだと、私は考えたい。
 現実に即してそこに宇宙の秘密を洞察しようとした彼は、人間に対しても写実の眼で迫っている。しかし写実に徹しながら、彼の描く人物は温かく、美しい。彼の「眼」は冷酷な機械のそれではなく、熱い血をもった正確な知見をそなえている。彼は、人間の神性をあらわすために他の画家がよく用いた、非現実的なあの光輪のごときものを必要とは考えてはいなかったようだ。人間に神性的なものがあるとするならば、人間それ自体のなかにある、との直観をもっていたにちがいない。
 自然の転変をみても、そこに超越的な存在を考えようとはしていない。彼はひたすら現実を凝視し、一切のものは生成死滅するという万物流転の法理に至っている。彼の思考はすでに西洋を超えていたのかもしれない。
 「リオナルドは東洋を知っている、外面的にも内面的にも充分に。それは、リオナルドの中にある何等か超ヨーロッパ的なるものであり、よきものも悪しきものもすべてを広範囲に亙って見つめた人間を特徴づけるところのものである」(『ヤスパース選集』4所収「リオナルド・ダ・ヴインチ」藤田赤二訳、理想社)と評したニーチェは、レオナルドの内実を鋭く見通していたのであろう。
 彼は「万能の天才」と称賛されている。偉大な画家であったことは当然として、すでに述べたように彫刻家であり建築家であり、土木技術者であった。また発明家、自然科学者の側面もあった。しかし彼の偉大さは万能であったことにあるのではない。才能が万般に開かれた所以が大切なのだ。そこに彼の偉大さが明らかになる。
 彼はあらゆる分野にわたって自然と人間を貫く法理を探ろうとしたのだ。彼にとって絵を描くことは決して目的だったのではない。同じように、土木や都市計画の技術も、光学も生理学も、すべて宇宙の法理を探らんとする方法として、彼は取り組んだのである。
 彼の仕事における多くの未完成は、このことと深く関わっている。彼にとっての大目的の前には、小目的の完成、未完成はもはや問題ではなかった。彼は万能たらんとしたのではなく、根源の法理を求めようとして、その才能を万般に開かざるをえなかっただけである。
 彼の「眼」は、そしてあふれでやまぬ才能は、彼をあらゆる方向に走らせた。彼にはあまりにもすることが多過ぎた。必然的にそのいずれもが未完とならざるをえなかった。彼は一個の人間の歴史に刻印する仕事の少なさを歯ぎしりしながら痛感していたにちがいない。彼はどこまでも孤高であった。
5  彼が生きた一四〇〇年代から一五〇〇年代にかけての時代は、文化的には絢欄たるルネサンスの花が開いたときであったが、政治的には未曾有の混乱期にあった。マキアベリが活躍したこの時期は、権謀術数の渦巻く戦乱の時代であった。レオナルドは、自ら時代の荒波にもまれながらも、しかしこうした政治の世界にはほとんど言及していない。同じ時期を生きたミケランジェロが、生活の不安と動揺のなかで苦悩し、激情し、絶望しながら生きたのに対し、レオナルドは、静かな湖水のごとく、その水面に一切を映し出しながら、人間と自然の発見に刻苦の歩みを着実につづけていたのである。
 彼が手がけた分野は、人類に普遍な分野である。彼の「眼」は世界に向けられ、未来に向けられていた。その彼にとって、一国の利害に明け暮れ、変転常なき闘争の政界は、自らを没入させるに値しない世界と映ったのではなかろうか。
 彼はむしろ、盛衰を繰り返す世の諸相をみればみるほど、そこに生成死滅の理をみていたのかもしれない。彼はただひたすら、自己の宿命に生きたのである。
 彼は言う。「星の定まれるものは左顧右眄しない」と。彼は世に尽くすことを願いながら、疲れを知らぬ努力をつづけた。しかし、彼の仕事は、すべて未完成に終わったようである。
 だが、生涯にわたる飽くなき自己探究の姿勢は、彼の言葉とともに、今も私の心を打ちつづけてやまない。
 「可哀相に、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに苦心するのか」(前出、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)

1
1