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日蓮大聖人・池田大作

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プラトンとその師ソクラテス  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

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4  しかも彼は、師の思想の継承と展開を、単に文字に託し著作として残そうとしただけではない。四十歳を過ぎたころ、青年子弟の教育のために、アテナイの近郊、アカデメイアの園に学園を創設する。
 このアカデメイアの学園は、西暦五二九年、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスの禁令によって廃絶されるまで、じつに九百年間存続しつづけた。そして多くの政治家、数学者、人文学者、生物学者を生み出したのである。
 ヨーロッパにおいてアカデミーの名が学問研究の権戚ある正統の意をもって使われ、そうした権威ある組織の呼称とされているのは、このプラトンのアカデメイア学園の栄光に由来するといえよう。
 教育にとどまらない。青年プラトンの政治への情熱は、晩年に至るまで衰えることを知らなかった。彼は自らの「哲人王」の理想実現をめざして、彼を師と敬愛するデイオンの招きに応じて、六十歳の老齢の身をおしてシュラクサイへ渡っている。残念ながら意図は実を結ばず、彼はその後十数年聞にわたってこの政治的事件に巻き込まれる。『法律』『ティマイオス』など、後半生を飾る数々の著作は、理性の静謐ではなく、生命の激動の所産であった。
 教育にしろ政治にしろ、すぐれて人間の触れ合いのなせる業である。プラトンは、いかなる意味でも独居せる思索の人ではなかった。思索から行動へ、行動から思索へ――八十年の生涯を閉じるまで、絶ゆることなくつづいたこの往復運動こそ、プラトン哲学の真髄であった。
 そして、その壮大な足跡を「哲学とは死の練習である」と一言のもとに喝破した彼の心根を思うとき、若くして出会った師ソクラテスの「生と死」が、常に彼の脳裏から去らなかったにちがいない。その全人格の重みが、イギリスの哲学者ホワイトヘッドをして「ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンに対する一連の脚注から成り立っている」といわしめたのであろう。
 私は、この西洋哲学の源としての栄誉は、ソクラテス一人が負うのでもなければ、プラトン一人が担うのでもないと考えている。ソクラテスとプラトン――との二つの人格が一つになったところに、この師弟という一つの存在のなかに、その栄誉は帰せられるべきであると思っている。
 そして、まさにそれこそが、あらゆる歴史の変遷のなかに、不死鳥のように蘇つては、暗雲のなかに人間英知の大空を開いてみせた力の源泉でもあったのであろう。

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