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日蓮大聖人・池田大作

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プラトンとその師ソクラテス  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  ソクラテスとプラトンとの出会いは衝撃的であった。青年時代、悲劇の創作に自信をもっていたプラトンが、そのコンクールのためにディオニュソス劇場へ赴く途上のことであった。そのときソクラテスに出会い、その教えを聴くうちに根底からの回心が起こり、自分の作品を火中に投じたという。それが、ソクラテスの弟子としての彼の一生を定める契機になったと伝えられている。
 それはプラトンが二十歳ごろのことであろうと一般的に推定される。
 プラトンはソクラテスの名を幼少から知っていたかもしれない。しかし師弟の決定的な邂逅は、このときに始まったのである。
 私はここに「師弟」というものの不思議さと美しさを思うのである。互いに知り合っているとか、接触があるといった物理的な関係では「師弟」は成立しない。二人の生命と生命、精神と精神とが電撃的に呼び合い、融合し、大いなる宇宙と人間の真理をその出会いの瞬間に共有するような、稀有なる出来事こそが「師弟」を成立させるのであろう。
 ソクラテスの死後、プラトンはほとんど時を接して著作を開始したと考えられている。それはなによりも、なまなましい師ソクラテスの死についての弁論のためであった。だが単なる弁明ではない。ソクラテス自身、自己の思想の完結のために、逃げようと思えば逃げられたところをあえて死を選んだのである。『ソクラテスの弁明』は、公判の席でソクラテスが五百人の裁判官と聴衆を前に行った演説を、プラトンが記憶をたどってしるしたものといわれる。そこには、魂をなにより大切にし、そのために知を愛し、自己および他人を吟味しながら生きることを訴え抜いたソクラテスの人生が凝縮されている。
 まずプラトンの心にあったのは、師ソクラテスの思想、その哲学精神を未来に遣すことであったのであろう。
 なかでも対話篇のなかで展開されるさまざまな物の考え方は、驚くばかりである。まず一つの考えが示される。それは見事な論理に貴かれており、読み進むうちに何もそれ以上つけ加えるものもなく、反論の余地など少しもないのではないかという気持ちになる。
 ところが、その同じテーマで別の登場人物が語り始めると、これまた完壁な論理で、これ以上正しい論議などありえないのではないかと思えてくる。だがその結論は、先の人物が主張したのとは全く別の内容なのである。
 プラトンの対話篇を読むと、人間の思考というものが、かくまで多様にありうるのかと驚きを禁じえない。いうなれば、人間の思考のパノラマを見る思いがする。それはまさに、プラトンが師から受け継いだ、思想に対する柔軟、自在な姿勢がもたらしたものであろう。
 ソクラテスはただ人びとと語り、啓発した。自らの思想を文字として残すことをしなかった。弟子プラトンは、それを当時のあらゆる思想との対比、対話のもとに、見事に文字として再現し、人類への遺産としたのである。ソクラテスあってのプラトンなら、またプラトンあってのソクラテスでもある。プラトンなくしては、後世の人びとは、ソクラテスの名も、いわんやその思想も、知ることはなかったにちがいない。
 師と弟子のこの関係は、私の信奉する仏法においても、きわめて重視される。師が針であるとすれば、弟子は糸である。針がいくら進んでも、糸があとにつながっていなければ何も残らないし、できあがらない。
 師はその独創的な思想をもって、苦難を突き抜けて進む。弟子は、師が進み、切り拓いたあとをしっかと留め、発展させて後世に残す。プラトンはまさに、ソクラテスにとって糸の働きをなしたのであった。
 この糸は、三十数篇にのぼる対話篇として、ローマ時代を越え、ヨーロッパ中世のキリスト教神学の偉大な支えとなる。さらに、近世哲学の発展の源泉となり、二十世紀後半の現在もなお、世界の哲学青年にとって、一度は通らなければならない関門となっている。
3  ではソクラテスの独創とは何か。
 いうまでもなく「汝自身を知れ」の格言に象徴されるように、古代ギリシャ空前の混迷期にあって、自己知を基盤にして人間の真実のあり方、生き方を再吟味したところにある。いうなれば、万人共通の出発点である。
 彼はこの一点を抜きにしていかに人生を論じ、世界観を高説しようとも、根無し草にも等しいであろうと考えた。もし自分が智者の名に値するとすれば、自らの無知を自覚している、つまり「無知の知」を悟っているからである。――こうして彼は、当時のアテナイを我物顔にしていたソフィストたちのドグマと偏見を、次々に打ち破っていくのである。
 無知を自覚しているがゆえに、知を愛し、知を求める。世間の学者はその自覚がないために、臆見を逞しくしつつも、真実、知を求める心がない。愚かなことである。知(ソフィ)を愛(フィロ)する――ことからフィロソフィー(哲学)の名が起こったことは、周知の事実である。
 いわゆる自己知は、単に哲学の根源であるばかりでなく、人間が人間らしく生きるための根本である。否、本来、哲学とは、ある特別な領域を形成している学問の一分野ではなく、人間が善く生きるためには誰しももたねばならぬものだ――ソクラテスは、このことを、文字通り死をもって後世に示したのである。
 その生き方によって提示された「問い」の鋭さと深さ、そして普遍性こそ、彼の哲学の真骨頂であり、彼が「人類の教師」の名で長く称えられてきた所以もここにある。
 プラトンのあふれるばかりに情熱的な全生涯の足跡を通観してみるとき、私は、彼が師ソクラテスの残した「問い」をどう継承し「回答」を与えていくかと、思い悩んだであろう一本の太い線が感じられてならない。
 もとよりプラトンも、最初は師の思想の忠実な祖述者として出発したであろう。だがソクラテスの問いは、この優れた弟子を単なる祖述者に終わらせない、創造への触発力を秘めていたと私は考える。中期から、とくに後期におけるプラトンの思想を鮮やかに彩るイデア論の展開は、師の「問い」に自分なりの「回答」を模索する、全精力を傾けた試みといえよう。
 たしかにイデア論は、その後さまざまな発展を遂げる観念論の原型とされ、ときに批判、攻撃の矢面に立たされてはきた。しかし私は、彼の思想に観念論などの哲学的範疇を設定するまえに、この試みのもつ重みに目を向けるべきであろうと思う。
 プラトンのイデア論とは、体系化された論理というよりも、人間や社会がよりよく生き、運営されるための根本の条件であった。いわば全人間的営為の残した生命の飛沫といってよい。先に指摘した対話による構成は、なによりの証左である。
4  しかも彼は、師の思想の継承と展開を、単に文字に託し著作として残そうとしただけではない。四十歳を過ぎたころ、青年子弟の教育のために、アテナイの近郊、アカデメイアの園に学園を創設する。
 このアカデメイアの学園は、西暦五二九年、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスの禁令によって廃絶されるまで、じつに九百年間存続しつづけた。そして多くの政治家、数学者、人文学者、生物学者を生み出したのである。
 ヨーロッパにおいてアカデミーの名が学問研究の権戚ある正統の意をもって使われ、そうした権威ある組織の呼称とされているのは、このプラトンのアカデメイア学園の栄光に由来するといえよう。
 教育にとどまらない。青年プラトンの政治への情熱は、晩年に至るまで衰えることを知らなかった。彼は自らの「哲人王」の理想実現をめざして、彼を師と敬愛するデイオンの招きに応じて、六十歳の老齢の身をおしてシュラクサイへ渡っている。残念ながら意図は実を結ばず、彼はその後十数年聞にわたってこの政治的事件に巻き込まれる。『法律』『ティマイオス』など、後半生を飾る数々の著作は、理性の静謐ではなく、生命の激動の所産であった。
 教育にしろ政治にしろ、すぐれて人間の触れ合いのなせる業である。プラトンは、いかなる意味でも独居せる思索の人ではなかった。思索から行動へ、行動から思索へ――八十年の生涯を閉じるまで、絶ゆることなくつづいたこの往復運動こそ、プラトン哲学の真髄であった。
 そして、その壮大な足跡を「哲学とは死の練習である」と一言のもとに喝破した彼の心根を思うとき、若くして出会った師ソクラテスの「生と死」が、常に彼の脳裏から去らなかったにちがいない。その全人格の重みが、イギリスの哲学者ホワイトヘッドをして「ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンに対する一連の脚注から成り立っている」といわしめたのであろう。
 私は、この西洋哲学の源としての栄誉は、ソクラテス一人が負うのでもなければ、プラトン一人が担うのでもないと考えている。ソクラテスとプラトン――との二つの人格が一つになったところに、この師弟という一つの存在のなかに、その栄誉は帰せられるべきであると思っている。
 そして、まさにそれこそが、あらゆる歴史の変遷のなかに、不死鳥のように蘇つては、暗雲のなかに人間英知の大空を開いてみせた力の源泉でもあったのであろう。

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