Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ノーベルの遺産  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  炎のごとくに生き抜いた一人の懸命な一生は、社会を超え、時代の彼方に、きらめく星となって輝くものである。
 華麗に演じた栄光の映像が人びとの脳裏に焼き付き、そのまま後世へと伝えられることもある。孤独と苦闘の生涯が、忘却の幾星霜を経て、突如、歴史の櫓舞台に躍り出ることもある。迫害と殉教の死が、滔々たる人類史の大河の流れを変えゆくことさえ、決して珍しくはない。
 だが、科学文明の飛朔の時代に出現した一つのすぐれた魂、ノーベルの生と死が、現代人に鮮やかな光芒を放っているのは、古今に比類なき「一通の遺書」のゆえである。
2  ノーベルの人生には、常に光と影が交錯していた。称賛と中傷、崇拝と憎悪の嵐が、めまぐるしく風向きを変えつつ、間断なく吹きすさんでいた。この影の部分が、彼の遺書への伏線となる。
 科学技術の飛躍的進展に寄与した膨大な数の発明は、天才の名に恥じるものではない。しかし、その発明には、終生、戦争、不幸の翳りがつきまとって離れなかった。
 それは彼の死にも、象徴的であった。死因は脳溢血である。心臓疾患が彼の生命を蝕んでいた。ついに発作が彼を襲った。一八九六年十二月のことである。遺言執行人のラグナル・ソールマンはこう書いている。
 「アルフレッド・ノーベルの最期には、深い悲哀がたれこめていた。機会あるごとに彼が手紙で述べていた予感が的中したのである。『金で雇った召使いに取り巻かれただけで、やさしい手で私の目を閉じてくれ、心から慰めの言葉をささやきかけてくれる人も近くにいないまま』彼は世を去ったのであった。彼は何度も発作的に不安になり、思わず起きあがろうとするのを周囲からとめられた。かなりの言語障害に襲われ、(中略)使用人には理解できない単語をいろいろと語った」(エリック・ベルイェングレン著『ノーベル伝』松谷健二訳、白水社)
 甥やソールマンに連絡されたが、死に目に間に合ったものはいなかった。彼は親しい人びとに見守られることもなく、ただ一人、寂しく生と死の淵を越えていった。
 わびしい一老人の、孤独なる死であった。
 後世の人びとは、この一老人のことについて、爆弾史の一ページをさいてその名をしるすか――当代随一の事業家として若干評価するにとどめたはずであった。それとも、死の商人という汚名さえ着せたかもしれない。もし、この小柄な老人の胸中にただよう人類永遠の熱き平和への執念が知らされなかったとすれば――。
 世界中の人びとが、死の直前における魂の昂揚と炸裂の事実を知りえたのは、彼の遺言書の公開を通してであった。
 二十世紀のノーベル賞へと開花した遺言書が作成されたのは、死の一年前、心臓の疾患が悪化しはじめたころであるという。自己の寿命を覚知した生命が、最後の力をふりしぼって燃焼し「人類への遺書」となって光を放ったのである。
 彼の人生の総決算であり、魂の炸裂であった。
 それにしても、この特異なる人物は、なにゆえに「魂の遺言」を書かなければならなかったのであろうか。ここにノーベルを解くすべての鍵が秘められている。
3  独特の人格の持ち主である。ある意味では矛盾の人といってもよい。幼少期から病身であった。しかし旺盛なる行動力にあふれでもいた。正規の教育は受けていない。しかし、生来の鋭敏な知性を駆使して科学上の難問を次々に乗り越えた。
 専門は爆薬である。しかし、というよりそれゆえにであろうか、暴力と戦争をこのうえなく憎んだ。コスモポリタンであり、同時に祖国スウェーデンを熱烈に愛していた。科学技術者であり、同時に詩や文学への豊潤な情操に恵まれていた。しかも、現実を冷静に判断する実業家の才も、抜きんでていた。
 といって社交的な性格というのではなさそうである。内向性で、ともすれば人間嫌いになりがちだったという。が、邪悪への敢然とした挑戦や、弱い人への憐欄の情など、人情味にもあふれでいる。
 激しい内的対立が、彼には渦巻いていた。病身と行動性、知性と情熱、理想主義と現実主義、そしてなにより戦争と平和の双極に、彼は身をおいていた。彼は常に悩んだ。苦闘と苦悩を、鉄の意志で耐え抜かねばならなかった。自然に憩う詩人でいることや、静かな研究者として一生を終えるという彼の願望は、彼のなした業績、否、彼の生み出した怪物が酷薄にも打ち砕いたのである。
 まれにみる多彩な才能をもってしても、家庭の安らぎと個人的な幸福を犠牲にして挑んでも、生涯をかけて、なお制御できそうもなかったモンスター、それは近代科学文明そのものである。
 科学の真理に挑む者はいた。思想、科学の探索に分け入る者もいた。平和への戦いに尊い一生を捧げる人も少なくはない。しかし、近代科学文明の頂点に立ちながら、それと格闘し、血みどろの生涯を歩んだ人物は、ノーベルをもって嚆矢とする。
4  時は十九世紀の後半。ヨーロッパの一角に華々しい鬨の声をあげた西洋の近代科学文明は、初期の理論革命を跳躍台として、ようやくその成果を現実社会に適用する技術革命の段階に突入していた。科学技術といえば無条件に礼賛する時代であった。
 彼は、その技術革命の先駆者たるべき運命を担った人であった。それゆえに、科学の内にはらむ問題に気づき、深く懊悩したのである。
 少年のとろ、二人の兄とともに、家業である火薬の製造にたずさわっている。
 火薬は、土木技術、鉱山技術、鉄道の開通、またそれらに関連する産業に不可欠の利器であり、技術革命の花形であった。と同時に、爆薬は要塞を破壊し、大砲を発射させて町や人を破砕する。必然的に軍事産業とも結びついた分野である。そこに生を享けたことが、ノーベル青年の宿命の星であった。
 技術革命を経て飛躍的な発展をとげた科学技術は、有史以来、人類が初めて手にした巨大な力である。その力を活用すれば、文化を高め、文明を築き、人間の幸福を呼び寄せる利器となる。もし、力の使用を一歩でも誤れば、技術の暴走を許し、破壊と殺裁のサタンの武器と化してしまう。
 どのような分野の発見、発明も、善悪の二面性をもっていると考えねばならない。この真実を、世界の人びとが眼前にしたのは、ようやく半世紀ののちであった。純粋理論の学問といわれた理論物理学が、核エネルギーの開放を発見するにおよんで、原水爆の出現へと引き継がれたのである。
 ノーベル青年は、この二十世紀の科学者たちの洞察と苦悩を先取りしていたのである。
 人類の幸福にとって、科学技術の発達は、望ましい「手足」であることは疑いない。これを放棄することは無価値である。だからといって、力の暴走を許し、破壊の凶器とするところに、平和の城を築くことも望みえない。
 とすれば、巨大な力を、幸福と平和の方向へ制御する道しか残されていない。青年は、モンスターとの格闘の道を選んだのである。
5  幸福への力の源泉は発明である、と彼は信じた。雷管、ダイナマイト、プラスチック、ゼラチン、バリスタイトの発明、人絹、人造ゴム、人造宝石の研究、さらには機械、石油、医学、生理学の分野にまでまたがる発明精神は、とどまるところを知らないようである。
 苦難の道であった。、ダイナマイト、すなわち安全火薬の発明までには、幾多の惨事をくぐりぬけている。実験中に実弟を失った。火薬の輸送事故、工場の爆発が人命を損傷したこともある。
 彼は、非難の矢を一身にうけながら、それでも信念の道を切り開こうとした。発明を人類の幸福に結合させることが、生きがいともなっていたのである。
 発明だけにとどまったのでは意味がない。悪用される恐れがある。彼は言う。「私の発明は、私が発達させなければならない。それでなければ、正しい利用の道を発達させることはできないであろう」と。
 この言葉は、発明の主要部分が火薬であり、また当時の世界の姿をみれば、十分に納得できる。生存中から彼の発明は、戦争に転用されていた。ノーベルはそれを必死になって防ごうとしたのである。
 心ならずも、全世界を駆けめぐる実業家の役割をも引き受けた。実務感覚もそなえた人であったが、そのために、彼はますます苦悩の人となっていく。
 あるときは、政治家に裏切られ、学者には発明の功績を横取りされ、信頼する友にまで煮え湯をのまされている。彼の内向性、人間嫌いという性格の一面は、こうした運命が形成したのかもしれない。心臓の発作が襲っても、休養さえとれなかった。晩年には詩を楽しむ余裕も失ってしまった。
6  病める体をすり減らし、寿命を縮めての苦闘にかかわらず、彼の申し子は猛烈な勢いで変容を遂げていく。地球はまさに火薬庫の様相を呈していた。
 少年期における自然との対話、これが彼の平和への熱望の栄養素であったと自ら述べているが、青年期における詩人シェリーからの影響――それらを通して得た詩情豊かな平和主義が、どす黒い戦争主義者の魔手に蚕食されながら、絶望的な戦いを繰り広げるのは、凄絶でもあった。
 戦争に使われる爆薬の発明家が、平和の促進を叫ぶのはおかしいという非難がある。しかし、これは科学技術に対する彼の考えのなんたるかを理解していない。彼にとっては発明者が悪魔なのではなく、利用者が悪魔なのである。しかしそれでも、自己の果たす役割を求めて模索をつづけた。技術的に爆薬の破壊力を最大限に高めれば、かえって爆薬そのものが戦争を抑止するであろうと考えたこともある。
 私は軍備増強による戦争抑止論には反対である。しかしこの考えは、今世紀の悲しむべき現実となってしまった。
 戦争防止の対策は、平和を撹乱する国に対して各国が共同して防衛に努めることだ、と主張したこともある。これは国際連合の基本理念に通じるものである。
 そして、広範囲の啓蒙が人類の魂を高め、平和がやがては戦争を解消するにちがいないと信じるに至っている。
7  新たなる世紀の開幕まで数年を残すのみとなった一八九五年の暮れ――「魂の遺言」がしたためられた。
 彼には巨大な遺産があった。それで基金をつくり、その利子で毎年、人類に尽くした人びとに賞金として与えるのである。物理学、化学、生理学、医学上の重要な発見、思想的文学への寄与、そして世界平和への努力、それらに賞を与える。「この賞金は、国籍を問わず授与することとし、スカンジナピア人であろうと、外国人であろうと、最も立派な資格のあるものに授与してもらいたい」これが遺書の概要であった。
 科学技術文明との格闘に、壮絶なる人生を歩んだ生命の絶叫である。己の創り出したものの大きさに恐れおののきながら、その平和利用へ泥まみれになって奔走しつつ、大きな絶望と、かすかではあるが人類の前途への確かな光明を確かめておこうと、彼は祈るような気持ちで逝ったにちがいない。否、そのような気持ちをいだかなければ彼は救われなかったともいえる。
8  いまだ世界は動乱の巷である。バラ色の平和の芽は発見できそうにない。しかし、人類は闇のなかに滅びてはならない。
 平和への、正しい技術の発達への、そして詩情豊かな精神への星光を美しく輝かせつづけていかねばならない。――苦闘の生涯を終えるにあたって、一通の遺書に託したノーベルの魂が、後継の友を呼んだ。
 ノーベルの業績は、彼の生存中になした発明の数々もさることながら、その死後にノーべル賞として残された功績のほうが、世に知られているようである。
 しかしそれが、特定の個人の業績をたたえる賞として終わったり、平和とは反対の方向へ進む風潮への歯止めにならなかったなら、その意味は失われるであろう。
 一人の科学者の遺産が、人類の醜悪な抗争を防ぎ、平和努力を促す精神的遺産として、一部の人にとどまらず、すべての人びとの心に生きたとき――その悲願は達成されるにちがいない。
 ともあれ、科学技術の進展が世界平和と結びつかない現代社会をみて、ノーベルは自らの宿業に、深い悲しみの曲を聞いているのでは・なかろうか。

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