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日蓮大聖人・池田大作

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人類愛に生きたタゴール  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  ある朝――私は武蔵野の緑在す自然のなかに立っていた。
 天空を指して凛々しく直立する竹林。桃の花も暖かさをあたりに漂わせながら、自らの青春を誇っている。緑を衣裳に真白き雪柳のあどけない姿に微笑みをおくる。
 しかし、なによりも、私の佇んでいる一角は、うすみどりの竹が叢生し、ようやく暖かみを帯びはじめた陽光と、心地よく吹く風に誘われて、さわやかな音を立てているのが、今朝の。プレゼントだった。
  太陽に祝福さ
  青空と白い雲
  見守られなが
  風が仲人となって
  竹と竹とが、さらさらと
  握手しながら 語っている
 思わず私は、ひとときの素朴な感慨をメモしていた。
 昔、ギリシャの人びとは、野外の劇場で上演される劇を観ては、精神を浄め、慰安もしていたというが、今、この私をしっとりと包んでくれる巧まざる武蔵野の自然、それがいかなる演劇にも劣らず、私の心を和ませてくれる。
 幾度この地を訪れたことであろう。教育の府は自然に囲まれた環境のなかにつくりたい、これが私の夢であり念願でもあった。
 ――昨春、私はこの武蔵野の小高い丘にある創価大学の入学式で、インドの詩聖ラビンドラナート・タゴールについて語った。
 タゴールが世界的な詩人であることを知らない人はいないであろうが、教育にも精魂を傾けた人であったことは、詩聖であるというほどには知られていない。
2  タゴールは一九〇一年、三十九歳のとき、カルカッタから約八十マイル北方のシャンティ・ニケタン(平和の郷)に数人の子を連れ、理想の教育の一歩を踏み出している。そこはふくよかな自然のある場所であった。授業はすべて、野外の樹陰で行ったという。広々とした大地をはね、虫の声に耳をすませ、風との呼吸に身を委ねながら、子供たちも伸びのびと才能の芽を育てていったことであろう。
 人間は自然の一員である。自然と人間は対立しあうために在るのではなく、融合し、協調しあうために生きている。人間はそのなかで、いかに価値創造するかの使命を受けた主人公であると私は考える。
 とすれば、学問は自然を征服するためでなく、人間としての素養、人間らしさを磨くためにある、と思ってみたりする。その意味でも、自然は、それ自体、比類なき教師である。
 シャンティ・ニケタンでタゴールは、自然を最大の教師に迎え入れて、子供たちを育んでいったようだ。
 現在、彼の創設したシャンティ・ニケタンの学舎は、インド独立後、ヴィシュバ・バーラティ大学(俗称タゴール国際大学)として、国立の総合大学へと発展し、近代的在設備を誇ってている。
 そこではタゴールの協調の精神が脈々と承継されていることは、大学の精神に謳われている彼の言葉からも知れるのだ。
 「東洋と西洋の出合いを知り、究極的には、二つの半球の思想の自由な交わりの確立を通して、世界平和の基本的条件を強化すること」――このタゴールの理想が、若き学究に呼びかけられていたことでわかる。
 一般に西洋の文明は「石の文明」といわれ、東洋の文明は「森の文明」といわれる。事実、この二つの文明の異質性は認めざるをえない。
 しかし、異質性は、対立性ではない。双方の異なりを学びあい、補いあうなかに、新文明の止揚が可能となっていく。
 タゴールは「森の文明」に育ち、そのよさを教育の場に生かそうとした。だが彼は、西洋の文明への批判者では毛頭なかった。
 たしかにタゴールは普遍の人間であったにちがいない。それは、インドを愛し、東洋を慈しみながら、西洋的雰囲気も併せもっていこうと努力した姿にもみられる。同じインドのガンジーが、どちらかというとインド民族主義の「魂」的存在として差別解放に尽くしたのに対し、共通の主張に立ちながらも、彼の目は世界に向けられていた。そしてそのことは、教育にとって最も大切なことと、確信していたにちがいない。
3  彼のこの考えは、活動のなかにも如実にあらわれている。それは、英国政府がべンガルを分割しようとしたときである。祖国を、友を、自国の思惑によって引き裂こうとする非道さに、タゴールの憤激はすさまじかった。
 タゴールは楽天的な性格の人でもあった。詩にもユーモアあふれるものが多い。すらりとした肢体と神秘的な白い鬚をたくわえたタゴールの晩年の写真を見ると、東洋の内省と西洋の瀟洒とが同居しているように思える。そういうところをみて、貴族趣味的だと若干の非難を浴びせる人もいる。しかし、それはタゴールの内面と対話しようとしない人の言葉ではなかろうか。外見で人はわからない。多様な精神の起伏の一部が外にあらわれているにすぎないからだ。
 彼は、シャンティ・ニケタンでの生活が始まってまもなく、愛する妻と二人の子を失っている。
 「運命を呪う」とはこのことかと、のちにタゴールは回想しているが、身を引き裂かれる悲しみを胸中にたたえながら、すさまじい政治運動に飛び込んでいったのである。何を始めるか想像さえつかぬほど、祖国は興奮しきっていた。そこに叩きつけられた彼の火を噴くペンは、民衆の蜂起を次々に促していった。ベンガルの大地を紙とし、わが身体をぺンとし、己が口を文字とする思いで激しく駆けめぐった。
 タゴールに「瞑想」をみる人は多いが、内面に悲哀と激情の海をみる人は少ない。底知れぬ哀惜の極にオプティミズムを把み、激情の奥に哲学の深遠さを求めたといっては、言い過ぎであろうか。
 ともかくタゴールは、このインド最大の政治的動乱にあって、インド・ナショナリズム対イギリス帝国主義の抗争という次元に堕すことをなにより恐れた。英国を鋭い論調で攻撃しながら、国内の、過激な行動に走ろうとする同胞にも、暴力でインドは救えず、平和も達成されないことを遊説して訴えている。
 英国は敵なりと起つ民衆の熱涙に共感しながら、なおかつ冷厳に行動の方向を見据えることも忘れなかった。それはタゴールが哲学の人でもあったからであろう。激憤のぺンを走らせつつ、見境のないテロリズムを懸命になって抑えていった。
 ――ただ、タゴール逝って数十年の今日、ベンガル、パキスタン、インドの抗争を知れば、どのような嘆きの表情を見せるであろうか。
4  タゴールの信ずる真理とは、一体どのようなものであったのか。彼はヒンズー教の家庭に育ったが、ヒンズー教には関心を示さなかったようだ。著作を一覧すると、ウパニシャツドと仏教に基礎をおくもののようである。
 ウパニシャツドでは、ブラフマンである宇宙と、アートマンである個とが一如の関係にあることを形而上学的に樹立した梵我一如を根本にしている。ただ、彼は、観念的、思弁的にこの原理をとらえることを好まず、そのまま生活のなか、社会のなかにあらわれることを求めた。それが彼を仏教に赴かせた原因でもあったろう。
 タゴールの数多い作品のなかに『サーダナー』という著がある。『生の実現』と邦訳されているが、そのなかで、ランプのたとえを借りて仏教の精神を述べている。
 「ランプには燃料が入っている。けれども油は洩れないように油壷のなかに密閉されている。このようにしてランプはまわりのすべてのものから切り離され、欲深くなる。しかし火がともされると、ランプはすぐに自分の意味を明らかにする。ランプとまわりのすべてのものとのあいだに関係が確立され、燃える火を強くするために燃料の貯えを自由に犠牲にするのである」(『タゴール著作集』4所収、美田稔訳、アポロン社)
 こう述べて、われわれの自我も、このランプのようなものであり「仏陀が指し示した道は、単なる自己放棄の実践ではなく、愛をひろげることであった。またここにこそ仏陀の教えの真の意味がある」(前出)と語る。
 小さな「自我」を包摂しつつ、より大きな「真我」へと自らを創造すること、これがタゴールが言うところの「自我のめざめ」である。ランプという卑近な事物を用いて人間の生き方を教えたこの喩えは、今も人びとの胸を打つ。
 今日の社会では、自我といえば、エゴである。エゴのあからさまなエネルギーの前には、ひよわな自己犠牲の愛など、吹き飛んでしまう。ランプに灯をつける大切さより、油の減ることに心を痛めている。人類を慈しむためには、エゴに優るエネルギーを必要とする。勇気なくしてできることではない。
 タゴールは人類愛の勇気ある実践者であった。彼の信奉した仏教教義は法華経に最も近いものであったという。
 あるときには数時聞におよぶ瞑想の後、政治に、また子供たちへの教育の庭に、わが身を差し伸べた。大乗菩薩を彷彿とさせる行動である。
 タゴールの思想は、憎悪の側面をいつみせるかもしれない、偏狭な愛ではない。大地から草木が生ずるごとく、水が万物の渇きを癒すような、大宇宙の創造的な生命力をさしていた。
 英国政府による祖国分割策に抗して戦いながらも、狭いナショナリズムに短絡させることのなかった行動の裏には、この哲学的信念があったにちがいない。
5  このタゴールの気高いまでの思想と行動は『ギータンジャリ』という幽遠を思わせる美しい詩となって結晶している。宇宙存在の根本への歌の捧げものという意味をもつ百ページほどのこの詩が、アンドレ・ジードによって仏訳されるや、たちまち世界から注目され、東洋人として初のノーベル文学賞に輝いたのである。
 一挙に世界的な名声の人となったタゴールに、英国政府はナイトの称号を与えて遇した。しかし、三年経った一九一八年の春、パンジャブで無防備の民衆を射撃した英国警備隊の行動に怒り、あっさり称号を突き返してしまった。
 また、大の親日家で、再度にわたって訪日し、数多くの友人ももっていた。高潔な人柄を示すものだが、日中戦争で日本軍が中国に侵略するや、痛烈に非難、日本の友人とも絶交している。
 そして近づきつつある世界大戦の機運を憂えるのあまり、ついに病の床につくようになった。詩人独特の鋭い感受性で、避けられぬ運命を悟っていたのであろう。
 人が人を支配したり、国家が国家を侵略することは、タゴlルにとっては最大の悪であった。最も忌むべき暗雲が、彼の意志とは正反対に、あざ笑うかのごとく広がっていったのだ。いかにすれば、との風波を食い止められるか、心痛は少なくとも彼の寿命を数年は縮めたにちがいない。
 人間、いかなる人生コースを歩んでも、最晩年に悲劇の訪れることほど惨たるものはない。彼の無念、思いをこえるものがあったろう。死を前にしながら、なおかつタゴールは、チェコの友に憤激の詩を送り、カナダの国民にラジオ放送で奮起を促している。詩を書く体力が衰えてからは口述して詩作した。
 彼の生命の容器に満々とたたえられた油は、最後の一滴まで人類愛の炎をきらめかせながら、日本が真珠湾攻撃に踏み出そうとする一九四一年の夏、八十一年の光のごとき生涯を閉じた。
6  かれはその武器をおのが神々とした。
 かれの武器が勝利をうるとき、かれ自身は敗れる。(『タゴール著作集』7所収「迷える小鳥」宮本正清訳、アポロン社)
 タゴール逝つてなお、魂の警句は、強い響きをもってわれわれに迫ってくる。

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