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日蓮大聖人・池田大作

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勝利の人(ヴイクトル) ユゴー  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
4  民衆の声を作品に蘇らせる一方、彼は、社会に横行する悪を放擲するために、政治にも強い関心を寄せている。
 ユゴーの政治に対する考え方は、王党派、ボナパルト派、共和派と、三度変わっている。そしてナポレオン三世の時代に、ユゴーはパリ選出の議員に当選し、あふれる熱情を政治に投入していった。一八四八年、ユゴー四十六歳の初夏である。だが、彼の政治家としての生命は、わずか三年で終章を迎えている。
 議員としての器量を具えていなかったというのではない。人間にとっての「理想」を追い求め、文学の分野では頂上に向かって進んだユゴーであったが、野心と欺瞞と虚栄の渦巻く政界では、彼らの手練手管の前に、孤立無援の状態に追い込まれてしまったのである。
 詩も小説も中断して没頭した結果がこうである。『レ・ミゼラブル』の草稿でもある「レ・ミゼール」も中途で放置して政治に情熱を注いだユゴーは、苦い思いを味わわねばならなかった。
 ユゴーが政治家として行ったことは、貧困の解決、教育権の独立、自由の擁護など、民衆の地位向上への思いを託した熱弁であった。しかし文学者としての正直な理想主義は、老練な野心家が手玉にとるには、あまりにもやさしすぎた。ユゴーは一八五一年七月、ナポレオン三世の野望を弾劾する議会演説を最後に、イギリス海峡のジャージー島、ガーンジィー島へ亡命の人となったのである。
 亡命地のユゴーは、また生き返ったように、すさまじい勢いで創作活動に取り組んでいる。ユゴーの炎は、小さな島の静寂な景観のなかでも、激しく燃え上がって尽きることがなかった。
 ユゴーは、まず正義の言論を封殺したナポレオン三世を痛烈に批判した小説『小人ナポレオン』を著し、これをベルギーのブリュッセルから密かに出版。さらに『懲罰詩集』を書いて、徹底的に現政府を攻撃した。
 人間、手足がなくなっても口がある。口を封じられでも心は消せぬ。沈黙はユゴーには考えられぬことであった。天に昇り、地にもぐっても正義を吐きつづけたいという一念が、作品の奔流となった。
 十年余り据え置きのままになっていた『レ・ミ、ゼラブル』にも改めて着手し、長編小説として完成させた。『諸世紀の伝説』といった、人間の営みをその始源から描く雄大な作品が誕生したのも、この亡命の期間である。
 激しい情熱も、内奥のない猪突は底の浅いものでしかない。ユゴーの情熱は、深淵さも追い求めていた。『静観詩集』は、自己の内面をあくなく究めようとした、彼のもう一つの側面でもある。
 亡命の島を離れ、パリの地を再び踏んだのは、じつに十九年後、一八七〇年、六十八歳のときであった。しかし帰国後、ただちに普仏戦争に反対表明をし、翌年には国民議会の議員に当選、老齢にもかかわらず、尺進あって寸退なしの日々に突入している。創作活動もさらに盛んであった。
 臨終の直前まで創作への熱い心はたぎっていた。『九十三年』『テオフィル・ゴーチェへの弔詩』に、その炎をみることができる。
 ユゴーは八十三年の生涯を閉じた。「火」のごとき「生」であった。一人の人間が怒濤と格闘しながら「生の歓喜」を咆哮しつづけ、遥か大洋へ漕ぎ出していく雄姿を、国民に焼き付けながら、翻然として逝った。
 柩は凱旋門の下に置かれ英雄として讃えられた。亡骸はパンテオン(偉人廟)に納められた。しかし、それ以上に、彼にとって晴れがましいのは、世界の人びとの心に、作品の命が灯火されつづけていることであろう。
 ユゴーは、まさにヴィクトル(勝利)の人であった。

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