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日蓮大聖人・池田大作

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勝利の人(ヴイクトル) ユゴー  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  人の外見が千差である以上に、その内なる心の世界は万別である。
 その「体」と「心」が織り上げる人生はまた、それぞれに違った模様となろう。厳しき波浪に難戦する人生もあろうし、さざ波に戯れるがごとき生涯の人もあるにちがいない。また、静寂な、凪の日々の積み重ねの人もあるだろう。同じ人間の一生であるならば、難局に昂然と立ち、波浪の飛沫を身に受ける挑戦の日記を綴りたい。
 「人の一生は劇のごとし」といった人がいた。ヴィクトル・ユゴーは、まさしく劇のごとく人生を舞った人である。ユゴーの生きた十九世紀フランスは、変転と激変の舞台を提供していた。ナポレオンもその舞台で動き戦っていた。
 さて、どういえばよいであろうか。強い人といえば、ユゴーの生涯を流れるロマンを見過ごしているし、文豪という言葉も、市井に呼吸した庶民性を忘れている。貧しい人びとのために激しく生きた、情感満ちる一生を眺望していると、彼の「人生は航海なり」という言葉が想い出されてくるのだ。
 荒れた海を勇壮に乗り切る航海士に、自らを擬していたのではなかろうか、と想像してみたりする。風波に遭って後退せず、前へ前へと進む強靭な命がっていた。ユゴーの作品に流れる一種の「進歩の精神」は、彼の停滞を許容さぬ人生態度と、切り離して考えることはできない。
 幼少のころ、父と母が離別している。家庭生活の温かみに、憧慢の念をいだきつつ、文学への精進に、青春時代を送ったユ
 ゴーは、二十代の若さで、すでに「ロマン派の驍将ぎょうしょう」と目される地歩を築いている。図書館に通い、猛牛のごとく文学書を読み漁った、並々ならぬ努力が成功を呼んだ。
 ひたむきに人生を生きた人だという感がする。時代を超然と見下ろすのでもない。かといって時流におもねるのでもない。わが生命の内に燃えつづける思いをペンに叩きつけ、行動し、叫び、猛々しく生きた。書斎にこもって創作に専心するなど、彼には思いもよらないことであった。
 庶民――それは彼の作品の主人公である。庶民に生きることを信条とした彼。自ら庶民たろうとし、庶民への愛情を絶叫しつつ、作品を生みつづけた彼。
 日本人にとって、ユゴーと『レ・ミゼラブル』は切り離すことのできないものである。明治の末年に、黒岩涙香るいこうが『ああ無情』と題して、この大著をいちはやく紹介している。私も少年のとろ、豊島輿志雄の全訳を、感動をもって一気に読んだ記憶が、今も鮮やかである。
 「レ・ミゼラブル」とは「みじめな人々」との意である。「ああ無情」という訳が流布し、ジャン・ヴァルジャンの心境をあらわすのに適切であったこともあって、原題の正確な意味が知られていないようだ。しかし、この原題のなかに、ユゴーの思いが込められているように感じられてならない。
 民衆の悲惨を描きつつ、その民衆のなかに善なる光明、真理を求めようとしている鋭さ……。言い換えれば「俗」のなかに「聖」の輝きを発見せんとした作品でもある。これに成功しえたのも、彼自身の「庶民的な気質」が重要な原動力になっていたことは確かであろう。
2  人生の風波をまともに浴びるのは、いつの世でも庶民である。この庶民の岬吟を、傍観的に見ていたのでは『レ・ミゼラブル』は誕生しなかったであろう。数々の名作を残しつつ、この一作が世界文学史上に燦然と光芒を放っているのも、主人公ジャン・ヴァルジャンの数奇な生涯に託して、庶民の勝利の人生を謹い上げているからに他ならない。
 ユゴーの小説は「マヌ教的な二元論」で貫かれ、善と悪、明と暗の対立性が、あまりにもはっきりとしすぎている、との批判がある。しかし、人間の生き方の理想を真摯につきつめようとしたユゴーの創作態度の力強さは、そうした批判をこえて、民衆の心に直裁に浸透していった事実となってあらわれている。いや、庶民大衆こそ、ユゴーにとっては唯一の善であったにちがいないのである。
 人びとに「惨め」な思いをさせるものは、なんであれユゴーにとっては悪でしかなかった。その強く激しい心境が、善をどこまでも善とし、悪をどこまでも糾弾せずにはおかない構成となってあらわれたにちがいない。生きるためにたった一つのパンを盗むのが悪で、偽善の抑圧がどうして悪ではないのであろうか。
 ユゴーの少年時代、指導を受けるべき牧師を選ぶ機会があったという。上流階級に人気のあった、いかにも聖職者然とした牧師の説教をいやがって、反対に、野暮ったい牧師に好感をいだき、貧相な身ぶりの、しかし語る言葉に真実の感じられる牧師と親友になっている。『レ・ミ、ゼラブル』のミリエル司教も、生活は質素で、僧衣も粗末である。だが心は大海のように寛容であった。これは聖職者観があらわれていて面白いし、なによりも偽善、虚偽を激しく憎む彼の心情を吐露してくれているようだ。
 ユゴーは、晩年になってから、知人に対して、葬式には「いかなる司祭にもたちあってもらいたくない」(アンドレ・モロワ著『ヴィクトル・ユゴーの生涯』辻昶、横山正二訳、新潮社)ともらしていた。もっともらしい顔をして空虚に言葉を並べ連ねる似非聖職者に嘔吐を感じていたらしいことがうかがわれる。民衆の哀しみを衣をもって覆い、背に負う人であってこそ、宗教者でなくてはならない。
 ユゴーの怒りともつかぬ慨嘆が聞こえてくるような言葉である。
3  では、彼は誰に立ち会ってもらいたかったかのか。彼の遺書はそれを語ってくれる。
 「真実、光明、正義、良心、それが神だ。(神、光明)私は四万フランを貧しいひとびとに与える。私の遺体は、貧者の枢車に乗せて、墓地まで運んでもらいたい」(前出)
 ユゴーは貧しい人びととともに生きたかった。否、死んだ後も貧しい人びととともに在りたかったのである。教会という権威や牧師という媒介によって祭り上げられたところに神はあるのでなく、人間の心のなかに光る真実のなかに神の「実像」を見つめ、人びとのなかにそれを発見していたのであろう。彼の言動をスタンドプレーとみる人もいる。しかしユゴーからすれば、言わば言え、私が人びとと生きんとする真実を隠すことはできない、と笑うのみにちがいない。
 「真実」は人の命のなかに、深く、ある。しかもそれは隠されている。それを隠しているものは何か。ユゴーは烈しく探り、憎悪した。
 罪人を扱った作品『クロード・グー』の語るものは多い。殺人を犯して処刑されるクロドと、彼を殺人者に引き込んだ作業場の主任の関係が、刑務所という特殊な状況を舞台に、緊迫感をもって描かれている。
 殺人者のクロードが善人に、殺された主任が、およそ愛とか寛容性を全くもたない人物として描かれている。ユゴーのパターンであるといえばそれまでだが、人間が人間を裁くという冒瀆を看過できなかった。
 罪人に寛容であれ、という単純な主張を繰り返しているわけではない。罪人がなぜ罪を犯すようなことになったか、その原因を直視し、人間心理の極限と現実社会の矛盾との相対の妙をもって明らかにしていったのである。
 彼の心情は、ぺンだけに終わらせていない。「死刑反対」運動に、急先鋒の役割を果たしていく。生命がいかに尊いものか、人間がいかに過誤を犯しやすいものか、教育や生活条件の改善に全力を尽くさず人を裁くことがいかに体制的発想であるのかを、絶叫したかったにちがいない。
 迸る生命力をもったユゴーは、悲惨で貧しい民衆に対して偽善に終わることは、絶対にできなかった。ユゴーにとっては、考えることは即行動を意味していたのである。
4  民衆の声を作品に蘇らせる一方、彼は、社会に横行する悪を放擲するために、政治にも強い関心を寄せている。
 ユゴーの政治に対する考え方は、王党派、ボナパルト派、共和派と、三度変わっている。そしてナポレオン三世の時代に、ユゴーはパリ選出の議員に当選し、あふれる熱情を政治に投入していった。一八四八年、ユゴー四十六歳の初夏である。だが、彼の政治家としての生命は、わずか三年で終章を迎えている。
 議員としての器量を具えていなかったというのではない。人間にとっての「理想」を追い求め、文学の分野では頂上に向かって進んだユゴーであったが、野心と欺瞞と虚栄の渦巻く政界では、彼らの手練手管の前に、孤立無援の状態に追い込まれてしまったのである。
 詩も小説も中断して没頭した結果がこうである。『レ・ミゼラブル』の草稿でもある「レ・ミゼール」も中途で放置して政治に情熱を注いだユゴーは、苦い思いを味わわねばならなかった。
 ユゴーが政治家として行ったことは、貧困の解決、教育権の独立、自由の擁護など、民衆の地位向上への思いを託した熱弁であった。しかし文学者としての正直な理想主義は、老練な野心家が手玉にとるには、あまりにもやさしすぎた。ユゴーは一八五一年七月、ナポレオン三世の野望を弾劾する議会演説を最後に、イギリス海峡のジャージー島、ガーンジィー島へ亡命の人となったのである。
 亡命地のユゴーは、また生き返ったように、すさまじい勢いで創作活動に取り組んでいる。ユゴーの炎は、小さな島の静寂な景観のなかでも、激しく燃え上がって尽きることがなかった。
 ユゴーは、まず正義の言論を封殺したナポレオン三世を痛烈に批判した小説『小人ナポレオン』を著し、これをベルギーのブリュッセルから密かに出版。さらに『懲罰詩集』を書いて、徹底的に現政府を攻撃した。
 人間、手足がなくなっても口がある。口を封じられでも心は消せぬ。沈黙はユゴーには考えられぬことであった。天に昇り、地にもぐっても正義を吐きつづけたいという一念が、作品の奔流となった。
 十年余り据え置きのままになっていた『レ・ミ、ゼラブル』にも改めて着手し、長編小説として完成させた。『諸世紀の伝説』といった、人間の営みをその始源から描く雄大な作品が誕生したのも、この亡命の期間である。
 激しい情熱も、内奥のない猪突は底の浅いものでしかない。ユゴーの情熱は、深淵さも追い求めていた。『静観詩集』は、自己の内面をあくなく究めようとした、彼のもう一つの側面でもある。
 亡命の島を離れ、パリの地を再び踏んだのは、じつに十九年後、一八七〇年、六十八歳のときであった。しかし帰国後、ただちに普仏戦争に反対表明をし、翌年には国民議会の議員に当選、老齢にもかかわらず、尺進あって寸退なしの日々に突入している。創作活動もさらに盛んであった。
 臨終の直前まで創作への熱い心はたぎっていた。『九十三年』『テオフィル・ゴーチェへの弔詩』に、その炎をみることができる。
 ユゴーは八十三年の生涯を閉じた。「火」のごとき「生」であった。一人の人間が怒濤と格闘しながら「生の歓喜」を咆哮しつづけ、遥か大洋へ漕ぎ出していく雄姿を、国民に焼き付けながら、翻然として逝った。
 柩は凱旋門の下に置かれ英雄として讃えられた。亡骸はパンテオン(偉人廟)に納められた。しかし、それ以上に、彼にとって晴れがましいのは、世界の人びとの心に、作品の命が灯火されつづけていることであろう。
 ユゴーは、まさにヴィクトル(勝利)の人であった。

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