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日蓮大聖人・池田大作

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運命の戦士 ベートーベン  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
4  音楽の都ウィーンで、ある貴族の家での演奏中、若い貴族と婦人との話が一向にやまないのを見て痛く自尊心を傷つけられ、演奏を中止しながら大声で叫んだ。「こんな豚どもに、もう誰がひいてやるものか」と。そして人びとの説得も聞かず、帰ってしまったという。
 私は、こうした奇矯ともいえる言動から、自尊心と謙遜とのあいだをどう埋め合わせるべきか、と考えることがある。ベートーベンが謙遜の人ではなかったというのではない。彼の運命に対する不屈の闘志をみても、宇宙の壮大な音楽の世界を仰ぐ謙虚なまでの姿勢をみても、ある大いなる力への謙譲の美徳が、そこに貴かれている。それが対人関係になると、たちまち自尊心をむきだしにしてしまうのだ。
 それはともかく、運命との激しい苦闘と慎悩の底から、生の歓喜の調べを、ついに虚空に鳴り響かせたのが、晩年の名曲「第九シンフォニー・合唱付」であった。
 シラーの詩「歓喜の歌」に付けた曲のイメージを三十年間も繰り返し歌いながら胸中深くいだき、そして第九シンフォニーの合唱部分で爆発させたのである。
 初演の指揮棒を振ったときの彼は、晩年のことゆえ、目もよく見えず、耳も全く聞こえず、ただひたすら己が歓喜への憧憶を体全体にあふれさせて、指揮台の上で激しい身振りを展開した。
 演奏が終わったとき、聴衆の怒濤のような喝采と熱狂的な感激の嵐で、劇場は揺らぐがごとくであったという。だが、この感動の渦巻きも彼には全く聞こえず、聴衆に背を向けて突っ立っていた。演奏者の一人が彼を促して後ろへ向け、初めて聴衆の熱狂を理解したのである。
 これは百五十年前の一人の人間の生涯である。しかし彼の曲が今なお、激しく私たちの胸中の共鳴盤を叩いてくれている。
 ともあれ、真剣な生命の波動というものが、どこまで民衆に感応するかという永遠の真理を、今日の私たちに示しているように思う。この感応の妙こそ、芸術の到達すべき究極の境地であり、さらには人間の極致の世界ではないだろうか。

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