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日蓮大聖人・池田大作

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運命の戦士 ベートーベン  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  私は時折、ピアノの前に座る。
 決して、上手ではない。我流ではあるが、懇談のひととき、会員から所望されたり、ときには友のためにと思いながら弾く程度である。
 さすが「楽器の王」である。人びとの心を揺さぶるだけの、響きの豊かさがある。
 思えば、人間もたいしたものを発明したものだ。日常の起き臥しに、それだけ必要ともいえないのに、どんな民族でも、音楽だけは創造している。悲喜哀楽の感情の噴出は、音楽をつくらずにはおかなかったのであろう。
 言葉には翻訳がいるが、音楽にはそれがないところがいい。時代、距離、風俗習慣を瞬時に跳躍して、心の奥に眠る情感の壁に、直載に語りかける。
 私の青春も、音楽とともにあった。終戦直後の殺伐たる風景が、私の周りを埋めつくしていた。二十を過ぎたばかりの多感な生命には、あまりにも救いのない時代相といってよい。私は、大森の薄汚れたアパートの一室に暮らしていた。否、夜は閉じ込められていたというほうが、私の精神状況には適切な表現かもしれ、ない。給料も安い。そのうえ、胸を病んでいた。このままではと、死の予感すらある日もあった。
 私は渇して泉を求めるごとく、音楽を求めたのである。なけなしの財布をはたいて手回しの蓄音機を買い、夜半や日曜日の朝にはレコードを友人に借りては、音の世界に浸った。次から次へと、名曲を聞き漁った。
 ベートーベンの「運命」が、狭い一室に轟然と響きわたったとき、その力強く厚い音の真っ只中に陶然として聴き入った感動は、今も鮮やかである。わずか三十分たらずの演奏だったが、私の人生にとっては、たしかに大事件であった。
 「運命」を聴いたロシアの文豪トルストイは「ああ、勇気が出てくる」と叫んだという。
 ゲーテは、メンデルスゾーンのピアノ演奏で「運命」に初めて接し「おそろしく、大きく、狂的のようだ。まるで家がぐらぐらしそうだ」と驚いたといわれる。フランスのロマン・ロランも「彼の音楽こそ、芸術の権化である」と絶句している。
 私の「その瞬間」も、それに決して劣らない。狭いアパートの一室は、まさしく波浪に弄ばれる小舟であった。畳が激しく揺れ動く感触は、生命の深層から、いつまでも去らなかった。
 私は「運命」の盤の溝がすりへるまで聞いた。幾度も、幾度も――。熱と汗にまみれた疲労の体を横たえながら、生きることの意味と、明日に向かう勇気を、激しくつかもうとしていた。
 あまりにも有名な出だしの主題について、「運命はかく扉を叩く」と彼自ら語ったごとく、第五シンフォニーは彼自身に襲いかかった苛酷な運命との格闘を通して、勝利への憧憶を謳いあげた、雄々しき戦士の叫びである。
 風を巻き雨を叩きつける、雷鳴の咆哮にも似た激しい情熱と、絶えず律動している、妙にして動かしがたい巨大な宇宙の呼吸とを、「音」の世界で冥合させた作品といってよいであろうか。ベートーベンを語るに、彼の「運命」を除いてなにごとも語れないのも、この曲が彼の生涯と芸術のすべてを象徴しているからだ。
2  彼、ベートーベンは一七七〇年十二月十六日、ライン河畔のボン市に生まれた。彼の没したのが一八二七年であるから、活躍の期聞はほぼ十九世紀の初め、百五十年近くも以前のことになる。生涯についても、そんなに詳しくわかるわけではない。
 それにしても、知りうるかぎりでは、数奇な運命このうえない。彼の悲惨な生涯は、すでに四歳から始まった。それは、父親の厳しいスパルタ教育に端を発している。家庭の温かい雰囲気に育まれる少年の時期を、アル中の父親の、金儲けの手段にしようとする非情な音楽教育で、灰色に塗りつぶされたのである。
 この鍛錬は、少年にとっては可哀相であったかもしれない。しかし、教え込まれたのが音楽であったことが、彼の不思議な運命の配剤であった。八歳にして音楽会に出場するという天才が、こうして音楽史上に登壇していくのだ。
 十六歳にして母を失い、アル中の父と幼い二人の弟を養う運命を両肩に負いつつ、孤独の生活行路を行くベートーベンと、常人を超えた努力で音楽家としての名声を獲得するベートーベンが表裏となりながら、ようやく未来を垣間見んとした矢先に待ち受けていたものは、苛烈非情な運命であった。
 彼は聴覚に変調をきたし、ついには聞こえなくなってしまったのである。目が見えなくなったり、口がきけなくなったり、あるいは歩行が困難になったりするならまだしも、音楽家として、音が聞こえなくなるということは、死を宣告されたにも等しい。三十歳、まさに脂の乗りきろうとするときである。
 彼の絶望は想像に余りある。ひとたびは書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」には、天を恨む断腸の叫びが叩きつけられている。二人の弟へ「死後開封、履行のこと」と注意書きして宛てられたものだ。
 「――おお神よ。――我に喜びの浄き一日をひとたび与えたまえ! ――長い間喜びに触れないので、真の喜びに深く共鳴する術を私は忘れている! ――おお、いつ――おお! いつ、おお、神よ! 私はまだ、自然と人間との殿堂の中で喜びを味わうことができるでしようか? ――永久にだめですか? ――だめか! ――おお! それはあまりにひどすぎる!」(長谷川千秋著『ベートヴェン』岩波書店)
 己が運命への呪詛と、ただひたぶるに生の歓喜を求める狂おしいまでの渇仰の心が、ひしひしと伝わってくる。
 この泥まみれの苦渋の人生の闘争のなかから、彼の真価が磨かれていった。彼の遺した作品の大部分が、耳が聞こえなくなってから創作された事実は、なによりも雄弁だ。音楽創造への一念の強靭さが、運命の虐待に打ち克ったのであろう。尋常ならぬ運命の力に抗して、むしろ「運命」を自らの創造の源泉にしていった偉大さが偲ばれるのだ。
 今わの際まで、孤独と貧困に包まれ、三日間もの苦悶のうちに死を迎えたという。運命は最後まで彼に苛酷であった。しかし、自己に襲いくる運命と格闘し運命を必死に叩きながら、曲に昇華させていった意志力こそ、芸術家の要件の最高峰ではなかろうか。
3  努力の人である。
 わずか一小節を創作するにも、精魂を傾けたことを示す、有名なエピソードがある。
 ある旋律を直すために、五線紙の上に新たな紙を貼って書き改めた個所を、ある人が順にはがしてみると十三枚あったが、完成された旋律と一番下にある最初の旋律とが全く同じであったという。彼の曲のいかなる小節でも十二回以上直されないものはないという逸話と併せて、それは彼の努力を語り、最初の旋律と最後が同じであったことは、豊かな天分を代弁している。彼は即興曲を得意としていたという。天才的であった楽才に、想像を超える努力が相乗されて、彼の曲は生み出されていった。
 己が命に聞こえてくる宇宙の旋律を、心の耳で聞き分けながら、楽譜の上に完全に表現しきろうとする彼の執念の炎を、眼前にするような話である。音の美しさなどを超えて、広大な宇宙に向かって音符を打ちつけるような趣を感ずる。モーツァルトやシューベルトの曲が流麗であるのに対し、彼の曲がきわめて男性的なのも、この創作態度が反映しているからであろうか。
 だが、彼の代表的な名曲には「激情」と「静寂」、「動」と「静」とが鮮やかに対比をしているように思えてならない。「運命」や「英雄」「クロイツェル・ソナタ」などは激情的で動的であるが、「月光の曲」「田園」などは静寂で平和な趣をもっている。
 この静と動、激情と静寂の交流は、そのまま彼の人生を象徴しているのであろう。彼の人生もまた、極端から極端へと揺れる振り子といえるかもしれない。そこに大きなアンバランスを招き、彼は生涯、葛藤と闘争の連続に終始し、尽きることがなかった。このことは彼の不幸といえるかもしれない。
 私は、ベートーベンの生涯と芸術を概観するとき、汲めども尽きぬ名曲の世界と、人生の幸、不幸とのあいだに横たわる二律背反を痛切に感ぜざるをえない。芸術の極致ともいえる素晴らしい世界を創造しながら、彼の人生には深い哀しみが影を落としていた。
 もっとも、二律背反が人生の真実なのかもしれない。これをどう調和せしめていくかということに、哲学の課題があるようだ。さらに彼の不幸は、その反社会的な言動、振る舞いに由来した面も、少なからずあるといえよう。彼が曲を創造するときの、狂人のごとき態度が、それを示している。
 ある楽想が湧くと、彼の行くところ、どこまでもそれがついてまわり、雨も嵐も気づかず、夜遅くずぶ濡れになって帰ってくる。
 アパートの一室にいれば、食事も忘れ、眠りもせず、二十四時間ぶっ通しで捻ったり叫んだり、足を踏み鳴らして作曲した。この騒音にアパートの同居人から抗議が出て、立ち退きを命ぜられたこともあるという。こうして誰からも狂人扱いされ、孤独をしいられた。芸術の力への信頼と自身の才能に対する強烈な自尊心とが、辛うじて彼を支えていたのである。
4  音楽の都ウィーンで、ある貴族の家での演奏中、若い貴族と婦人との話が一向にやまないのを見て痛く自尊心を傷つけられ、演奏を中止しながら大声で叫んだ。「こんな豚どもに、もう誰がひいてやるものか」と。そして人びとの説得も聞かず、帰ってしまったという。
 私は、こうした奇矯ともいえる言動から、自尊心と謙遜とのあいだをどう埋め合わせるべきか、と考えることがある。ベートーベンが謙遜の人ではなかったというのではない。彼の運命に対する不屈の闘志をみても、宇宙の壮大な音楽の世界を仰ぐ謙虚なまでの姿勢をみても、ある大いなる力への謙譲の美徳が、そこに貴かれている。それが対人関係になると、たちまち自尊心をむきだしにしてしまうのだ。
 それはともかく、運命との激しい苦闘と慎悩の底から、生の歓喜の調べを、ついに虚空に鳴り響かせたのが、晩年の名曲「第九シンフォニー・合唱付」であった。
 シラーの詩「歓喜の歌」に付けた曲のイメージを三十年間も繰り返し歌いながら胸中深くいだき、そして第九シンフォニーの合唱部分で爆発させたのである。
 初演の指揮棒を振ったときの彼は、晩年のことゆえ、目もよく見えず、耳も全く聞こえず、ただひたすら己が歓喜への憧憶を体全体にあふれさせて、指揮台の上で激しい身振りを展開した。
 演奏が終わったとき、聴衆の怒濤のような喝采と熱狂的な感激の嵐で、劇場は揺らぐがごとくであったという。だが、この感動の渦巻きも彼には全く聞こえず、聴衆に背を向けて突っ立っていた。演奏者の一人が彼を促して後ろへ向け、初めて聴衆の熱狂を理解したのである。
 これは百五十年前の一人の人間の生涯である。しかし彼の曲が今なお、激しく私たちの胸中の共鳴盤を叩いてくれている。
 ともあれ、真剣な生命の波動というものが、どこまで民衆に感応するかという永遠の真理を、今日の私たちに示しているように思う。この感応の妙こそ、芸術の到達すべき究極の境地であり、さらには人間の極致の世界ではないだろうか。

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