Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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よみがえるアショーカ  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
5  仏教徒の伝承によっても、アショーカ王は最初「暴悪の阿育」と呼ばれている。彼の祖父にあたるチャンドラグプタ(旃那羅笈多)は、もとマガダ地方に君臨したナンダ王朝の一兵士であったという。その子ピンドゥサーラ王も十六人の王妃をもち、アショーカ王には百人以上もの異母兄弟がいたとされる。
 生まれながらにして凶暴なアショーカは、はじめ父王にも疎んじられ、遠ざけられていたが、彼は九十九人の兄弟を殺害して王位を手中にしたと伝えられる。もし、この話が本当なら、まさしく″暴悪″の一語に尽きよう。
 そのアショーカ王が仏教に帰依したのは、いつごろのことか――今まで発見された碑文のなかでは、明らかではない。ただし、摩崖法勅の第八章には、即位十年に釈尊成道の地を訪れ、以後「法の巡礼」が始められたとあるので、そのころには仏教徒になっていたであろう。また、小摩崖法勅の第一章には「二年半有余のあいだ、私は優婆塞(仏陀釈迦の信徒)であったが、一年のあいだは、熱心に精勤することはなかった。しかし、〔次の〕一年有余のあいだ、私は僧伽サンガに趣いて、熱心に精勤した」(前出)とある。
 したがって、アショーカ王が後に熱心な仏教徒となり、人びとから「法の阿育」と呼ばれるようになった伝承に間違いはない。ただ、さきほどみたカリンガの大虐殺を行ったときに、すでに仏教徒であったか否か――そこに学者のあいだでも、議論の分かれ目が見られるのである。
 そこで、以下は私の推測であるが、おそらくアショーカ王は、はじめのうち仏教徒から「暴悪の阿育」と呼ばれるほど悪事を重ねていたにちがいない。あるいは仏教徒を弾圧したこともあろう。
 アショーカ王の弾圧を受けて、仏教徒は堅く団結し、なかには死を賭して諌言する僧も出たと考えられる。――そうした経緯のうちには、仏教徒のあいだに伝わる徳勝童子の因縁譚を、アショーカ王自身が聞く機会もあったかもしれない。彼がその話を聞いたとすれば、それは即位八年のカリンガ征服よりも前のことであったと推定される。この世の地獄ともいうべき十万人の大虐殺を目の当たりにして、ついにアショーカの心事に巨大なる転換の時が訪れた。
 彼は以後、熱心な仏教者となって「法の阿育」として生きる決意を固める。――かつて釈尊が阿難に語ったように、われこそは孔雀王朝のアショーカ(無憂)であるとの自覚に立ったのであろうか。彼は自己の使命に目覚めることによって、一個の人間としても蘇生したのである。いわば、アショーカにとっての″人間革命″であった。
 即位十年から始まった「法の巡礼」は、釈尊にゆかりの地を訪ねて、休みなくつづけられた。ある碑文によると、彼は一年の大半を地方巡行に費やしている。ちなみに、彼は個人としては熱心な仏教徒であったが、王としてはあらゆる宗教を公平に扱った。政治においては、仏教の理念を基盤に、生命の尊重をあくまで貫いたものであった。それゆえにこそ、仏教徒のみならず、すべての臣民から名君として崇敬されるにいたったのであろう。
 今日、ほぼ全インドにわたって各地から発掘される仏塔には、無名の庶民の寄進になるものも多いと聞く。おそらくアショーカ王は、各地を巡行しながら人民のなかに分け入り、情熱をこめて法を説き、かつ王として正義を行ったと思われる。八万四千もの大小無数の仏塔こそ、そうしたアショーカの栄光の記念碑となったのである。
 ルンミンデーイーの小石柱法勅には、次のように銘刻されている。
 「天愛喜見王は、灌頂二十年に、自らここに来て崇敬した。ここで仏陀釈迦牟尼が生誕されたからである。それで石棚を設営せしめ、石住を建立せしめた。〔これは〕ここで世尊が生誕されたことを〔記念するためである〕。ルンビニー村は租税を免ぜられ、また、〔生産の〕八分の一のみを支払うものとせられる」(前出)
 この法勅によって、釈尊の生地ルンビニー村が確認されただけではない。長いあいだ釈尊の実在性に懐疑的であった西欧の学者たちも、このアショーカ王によって建てられた石柱を通して、間違いなく偉大な仏教の開祖が人類史上に生誕していた事実を、もはや認めざるをえなくなった。
 二千二百年以上も昔に銘刻された碑文は、今世紀に入ってアショーカ王を蘇らせた。そして、いまや世界宗教として注目される仏教の理念を、活きいきと語るものとなったのである。

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