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日蓮大聖人・池田大作

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よみがえるアショーカ  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  東洋の仏教徒にとって、アショーカ王は伝説的な存在であった。仏に沙の餅を供養した童子の話は、多くの人が子供のころ、一度ならず聞いた覚えがあるにちがいない。
 それは――釈尊が王舎城の郊外を、托鉢していたときのことである。二人の童子がいた。彼らは、ともに土いじりをして嬉々として遊びたわむれていた。
 二人は、遥か彼方から世尊が近づいてくるのに気がついた。仏の立派な姿を見て、子供心にも歓喜の念が湧いたのであろう。何かを供養したいと思ったが、食べるものも身につけるものも、供養できる品は何ひとつない。
 ときに闍耶じゃや(徳勝)童子は、心に念じたという。――「われ、まさに細沙をもって供養せん」と。すなわち徳勝童子は、手ずから沙の餅をつくって高く捧げ、世尊の鉢中に入れたのである。もう一人の毘闍耶びじゃや(無勝)童子は、そのとき、仏に合掌して随喜したといわれる。仏が沙の餅を、微笑しつつ受け取ったことは、いうまでもない。
 すると、側に付きしたがっていたアーナンダ(阿難)は、なぜ世尊が微笑したのか疑問に思った。――その質問に答えて、釈尊は、おおよそ次のように言ったという。
 「わたしが今、笑みを浮かべたのには、因縁があることを、阿難よ、まさに知りなさい。わが滅度百年の後において、この童子はパータリプトラで一方を統領する転輪王となるであろう。姓は孔雀、名は阿育である。正法をもって治め、また広く舎利を布き、八万四千の法塔を造って、無量の衆生を安楽にするであろう」
3  以上が経文に説かれた阿育王の因縁譚である。後に、マウリヤ王朝の第二代ビピンドゥサーラ(頻頭裟羅)王の子として、このときの徳勝童子は無憂むう、無勝童子は離憂りうという名で生まれたとされている。ここに「無憂」とあるのは、アショーカの意である。
 ところで、史上稀有の名君としてのアショーカ王の存在自体について、西欧の歴史家は、東洋の仏教徒が想像のうえで描いた伝説的人物であったろうとして、長いあいだ信用しなかった。彼らは、釈尊さえ伝説上の人物と見なしていたのである。
 しかし、一八三七年のことである。イギリス人ジェームス・プリンセプが、古代インドのプラーフミー文字で書かれた碑文の解読に成功した。碑文には、デーヴァーナンピヤ=ピヤダシ(神々の愛するピヤダシ=天愛喜見王)という名の王が登場し、いかにも理想的な王道政治が宣明されている。――西欧の歴史家たちも、思わず目を見はるほどの内容であった。
 だが、碑文に書かれたピヤダシなる王が、いったい誰のことなのか、なかなか判明しないまま長い歳月が経過した。そして一九一五年、南インドのマイソール州で発見されたマスキ岩碑には、デーヴァーナンピヤ=アショーカ(神々の愛するアショーカ=天愛阿育王)と、明確に刻印されていたのである。これによって、謎の人物ピヤダシとは、アショーカ王自身であったことが確認され、すぐれたこの王の存在は史的事実として、二十世紀の世界史上に華々しく蘇った。
 今日までに発見され、解読されたアショーカ王の碑文は、四十数種にものぼるという。その内容について、すでに私は『仏法・西と東』(後藤隆一共著、東洋哲学研究所)『私の仏教観』(第三文明社)などで若干の解説を加えたが、その後、塚本啓祥氏によって翻訳された『アショーカ王碑文』(第三文明社、レグルス文庫)から引用させて頂き、その業績を改めて確認しておきたい。
4  まず、アショーカ王の治世は、その内政面において顕著な特徴をみせている。有名な十四章摩崖法勅の第一章には、一切の生物の殺生、供儀を禁じて、仏法の不殺生戒の精神が生かされている。第二章では、天愛喜見王が人と家畜のために二種の寮院を建設し、薬草を栽培し、街路樹を植え、井戸や泉を掘るなど、多くの社会事業が興されたとしている。また、第八章によれば、従来の諸王によってなされた「娯楽の巡遊」を廃して、アショーカ王の即位十年からは「法の巡礼」が行われるようになったという。
 次に外交面では、摩崖まがい法勅の第十三章に宣言されている。天愛喜見王は、すべての隣邦人に平和使節を派遣し、武力による征服を廃して、法による征服を希望する。――この法勅を読んだ西欧の歴史家を驚嘆させたのは、そこに五人のギリシャ人王の名がしるされていたことである。
 当時のインド西北方には、紀元前三二六年に侵入したアレキサンダー大王の後継者たちが、なお勢力を保っていた。インド初の統一帝国であるマウリヤ朝の支配は、アショーカ王の時代、西北インドにまでおよんでいたが、彼は法勅の宣布にあたってギリシャ語やアラム語の碑文まで銘刻させたのである。さらには、より西方のシリア玉、エジプト王、マケドニア王、そして北アフリカのキュレネ玉、エペイロス王(あるいはコリントス王)にまで使節を派遣し、ダルマ(法)による政治を勧めたのであった。
 こうしてアショーカ王は、初めて西欧の歴史家によってその栄光の名を確認され、紀元前三世紀における東洋の開明君主として脚光を浴びることになったのである。『世界史概観』によって著名なH・G・ウェルズも「これまでに世界に現れた最も偉大な帝王の一人」として、アショーカ王の名を挙げざるをえなかった。
 ところで、いま引用した摩崖法勅の第十三章前半には、アショーカ王の一大回心として有名な告白がしるされている。
 「天愛喜見王の灌頂八年に、カリンガが征服された。十五万の人びとがそこから移送され、十万〔の人びと〕がそこで殺害され、また幾倍か〔の人びと〕が死亡した。それ以来、カリンガが征服された今、天愛の熱心な法の実修、法に対する愛慕、および法の教誠が、〔行なわれた〕。これはカリンガを征服した時の、天愛の悔恨である。なぜならば、征服されたことのない〔国が〕征服されれば、そこに人民の殺害、または死亡、または移送があり、これは天愛にとって、ひどく苦悩と感じ、悲痛と思われるからである」(前出、『アショーカ王碑文』)
 ここに、カリンガとあるのは、マガダ国の南方、今日のオリッサ地方にあった国である。アショーカ王が即位したとされる紀元前二六八年ごろは、まだマウリヤ王国の支配の外にあった。アショーカ王は即位八年に、大軍を率いてカリンガ国を攻め、多数の死者を出したことは、碑文にあるとおりである。彼はその惨状を見て、心底から悔恨の念をいだき、このときを期して「法の政治」へと転換した。まさに、キルケゴールふうに言えば、彼は″精神の大地震″を経験したのであろう。
5  仏教徒の伝承によっても、アショーカ王は最初「暴悪の阿育」と呼ばれている。彼の祖父にあたるチャンドラグプタ(旃那羅笈多)は、もとマガダ地方に君臨したナンダ王朝の一兵士であったという。その子ピンドゥサーラ王も十六人の王妃をもち、アショーカ王には百人以上もの異母兄弟がいたとされる。
 生まれながらにして凶暴なアショーカは、はじめ父王にも疎んじられ、遠ざけられていたが、彼は九十九人の兄弟を殺害して王位を手中にしたと伝えられる。もし、この話が本当なら、まさしく″暴悪″の一語に尽きよう。
 そのアショーカ王が仏教に帰依したのは、いつごろのことか――今まで発見された碑文のなかでは、明らかではない。ただし、摩崖法勅の第八章には、即位十年に釈尊成道の地を訪れ、以後「法の巡礼」が始められたとあるので、そのころには仏教徒になっていたであろう。また、小摩崖法勅の第一章には「二年半有余のあいだ、私は優婆塞(仏陀釈迦の信徒)であったが、一年のあいだは、熱心に精勤することはなかった。しかし、〔次の〕一年有余のあいだ、私は僧伽サンガに趣いて、熱心に精勤した」(前出)とある。
 したがって、アショーカ王が後に熱心な仏教徒となり、人びとから「法の阿育」と呼ばれるようになった伝承に間違いはない。ただ、さきほどみたカリンガの大虐殺を行ったときに、すでに仏教徒であったか否か――そこに学者のあいだでも、議論の分かれ目が見られるのである。
 そこで、以下は私の推測であるが、おそらくアショーカ王は、はじめのうち仏教徒から「暴悪の阿育」と呼ばれるほど悪事を重ねていたにちがいない。あるいは仏教徒を弾圧したこともあろう。
 アショーカ王の弾圧を受けて、仏教徒は堅く団結し、なかには死を賭して諌言する僧も出たと考えられる。――そうした経緯のうちには、仏教徒のあいだに伝わる徳勝童子の因縁譚を、アショーカ王自身が聞く機会もあったかもしれない。彼がその話を聞いたとすれば、それは即位八年のカリンガ征服よりも前のことであったと推定される。この世の地獄ともいうべき十万人の大虐殺を目の当たりにして、ついにアショーカの心事に巨大なる転換の時が訪れた。
 彼は以後、熱心な仏教者となって「法の阿育」として生きる決意を固める。――かつて釈尊が阿難に語ったように、われこそは孔雀王朝のアショーカ(無憂)であるとの自覚に立ったのであろうか。彼は自己の使命に目覚めることによって、一個の人間としても蘇生したのである。いわば、アショーカにとっての″人間革命″であった。
 即位十年から始まった「法の巡礼」は、釈尊にゆかりの地を訪ねて、休みなくつづけられた。ある碑文によると、彼は一年の大半を地方巡行に費やしている。ちなみに、彼は個人としては熱心な仏教徒であったが、王としてはあらゆる宗教を公平に扱った。政治においては、仏教の理念を基盤に、生命の尊重をあくまで貫いたものであった。それゆえにこそ、仏教徒のみならず、すべての臣民から名君として崇敬されるにいたったのであろう。
 今日、ほぼ全インドにわたって各地から発掘される仏塔には、無名の庶民の寄進になるものも多いと聞く。おそらくアショーカ王は、各地を巡行しながら人民のなかに分け入り、情熱をこめて法を説き、かつ王として正義を行ったと思われる。八万四千もの大小無数の仏塔こそ、そうしたアショーカの栄光の記念碑となったのである。
 ルンミンデーイーの小石柱法勅には、次のように銘刻されている。
 「天愛喜見王は、灌頂二十年に、自らここに来て崇敬した。ここで仏陀釈迦牟尼が生誕されたからである。それで石棚を設営せしめ、石住を建立せしめた。〔これは〕ここで世尊が生誕されたことを〔記念するためである〕。ルンビニー村は租税を免ぜられ、また、〔生産の〕八分の一のみを支払うものとせられる」(前出)
 この法勅によって、釈尊の生地ルンビニー村が確認されただけではない。長いあいだ釈尊の実在性に懐疑的であった西欧の学者たちも、このアショーカ王によって建てられた石柱を通して、間違いなく偉大な仏教の開祖が人類史上に生誕していた事実を、もはや認めざるをえなくなった。
 二千二百年以上も昔に銘刻された碑文は、今世紀に入ってアショーカ王を蘇らせた。そして、いまや世界宗教として注目される仏教の理念を、活きいきと語るものとなったのである。

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