Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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社会の波に溺れぬ子を育てるために  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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4  息子たちへの自立の教え
 私の三人の息子たちへの教育は、と言われても、多忙なため人に言えるような家庭教育のできなかった、よくない親かもしれない。しかし、狭い家の中をタンクのように駆けまわっていた三人の腕白軍団も、いつのまにか長男が二十四歳、次男が二十二歳、三男が十九歳となってしまった。
 それぞれ性格は違い、長男はどちらかといえば理智的、次男は明朗快活である。三男はといえば、二人の兄貴の圧力や干渉をうまく逃げて、賢明にわが道を見いだし何事にも凝り性になっているようだ。小学生時代から天体観測に凝ってしまい、今もって天空の綺麗な小笠原へ友だちと出かけたりしている。彼はまた漁師の血をひいたのか海が好きであり、大学で外洋帆走部に入って、休みごとに油壷へクラブ活動で行ってしまう。そんなわけで顔を合わせる機会もめったにない。昨年の五月の朝のことであった。波浪の激しい日であったが、訓練のためヨットで海へ乗り出した。ところが石廊崎の沖合で突風が吹きよせヨットは転覆してしまった。助けにくるべきモーターボートも途中でエンジン故障で動かなくなってしまった。やっとのことで通りかかった船に救助されたとのことである。その間、友を励ましながら──。ところが家へ帰ってきても何事もなかったかのように泰然自若としていた。その晩、妻が、少々風邪気味のようであるから薬でも飲んだらと言って──すべての事情がわかったのである。
 私はそんなことはつゆしらず、あとで妻に聞いた。私は驚くというより、青年のひたむきな情熱を感じていた。妻は心配しながらも一言、「せせこましい所で遊ばれるよりも、大海原で鍛えてもらったほうがいいわ」と言っていた。私も人の親である。ほっとした安堵の心をいだいたのは自然の情というものである。とともに、彼も、一人の独立した人格として育っていたことを、ほほえましくも思った。
 私は子供を一方的に上から見つめることをしなかった。子供に私を見ることも要求しなかった。私が遙かに見つめ、めざしている社会正義という方向だけは押しつけではなく自然のうちに子供にも凝視してほしいと願っただけである。私の教育といえば、これぐらいのものかもしれない。お互いが向き合った家庭ではなかったかもしれない。しかし遙かな山脈を共に眺望しゆく家族を願って生きた。私の歩く道の前を子供たちが歩き、彼らの子供たちが、またその前を歩く。人間のたゆみない建設の黄金道が、そこに拓かれるように思うのである。
 私は子供の教育に、重要な観点が抜けているように思う。それは何のために教育するかということである。私は教育の根本テーマとして「自立させるための教育」を訴えたい。
 子供は親の所有物ではない。一個の人格である。まだ力のない人格である。力がないがゆえに「だから守る」のである。一個の人格であるがゆえに「だから自立させる」のである。
 教育の「育」とは育てることである。春、種を植える。育つのは種であり、草木自体である。人間は雑草を取り除き、肥料を与える。その肥料を大地から吸い取るのは草木である。育てるというのは、草木に自立させるために周囲から守るのである。したがって、教育の「教」も、自立を教えるものであって然るべきと思えてならない。
 子供を自立させる教育に目的をおくと、教育方法もおのずと定まってくるのではなかろうか。一時「スパルタ教育」か「放任主義」かと、教育法が話題になったことがあった。両説とも大変説得力があって世論を二分した観があったが、これらは「手段」が論じられたのであって、目的と勘違いした人があったように見受けられたのは残念であった。
 目的はあくまで自立にある。自立させるために、ある場合は厳しく訓練する必要があろうし、あるときは放任することも大切であろう。どちらかというと、子供が物心つくまでは厳しく躾け、大きくなるにしたがって自主性に任せていくのがよいのではないかと思う。
 ところが、往々にしてこれが逆に行われている場合があるようだ。小さい時は甘やかすだけ甘やかして、したい放題にさせる。大きくなって慌てて言うことをきかせようとするが、もう後の祭りである。これでは子供の自立心は養われない。子供は小さくとも、吸収の度は大きい。大人の何年間かの成長の分を、一日、一カ月、一年で獲得してしまう。しかも、それまでに余分のものが植えつけられていないゆえに、ぬぐうこともむずかしい。
 幼時は何にでも興味をもつ。それは無差別である。ところがそれに親がさまざまに反応する。熱心に聞いてやったり無関心であったり、勧めたり制止したりする。そこで子供の脳の中で「選択」が行われる。そして制止された部分は、発達を抑制されるのである。子供の個性はこうして形成されていく。もちろん子供自体にも遺伝的な特性はあろうが、親が子に与える影響は計り知れず大きい。
 子供が自立するためには、力をもたなければならない。それは知識の力であったり、技術であったりする。その力をもたせるためには、才能を伸ばす努力が必要になってくる。もちろん万全に、とはいかないであろう。しかし、そのための最善の努力はなされねばならない。すなわち、子供の生命を揺さぶり、才能の芽を掘り起こし、太陽の下で育てるためには、日々新たな、興味に富んだ環境を子供に与え、そこで自力で歩ませていくべきであると主張したい。
 「自立」を骨格とした教育にあっては「躾」の意味も変わってくると思う。「あれをしては叱られる」「こうしてはいけない」という躾のみであってはなるまい。前向きに「こうすることが正しいこと」という教え方も必要になってくる。たとえば 子供が他人に迷惑をかけたら、叱るだけではならない。ちゃんと迷惑をかけた人のところへ自分で行って謝ってこさせる──このぐらい自分の良心にしたがって行動する子供へと成長させることが期待されてもよいのではなかろうか。
 正月の風習の話が、教育論にまで跳躍してしまった。しかし正月は年の初め、子供は人生の始まりである。何事にも出発を大切にする気持ちは忘れたくないものである。
 今年も、時節がくれば、各地でさまざまな祭りや伝統行事がもたれるであろう。怖い鬼や福の神などにすかされたり、おだてられたりして勤勉さを得るのではなく、わが信念の命ずるところによって精進する社会、人の目をうかがうのでなく、人に尽くしていく社会。大人も子供もそうした正月を祝ってこそ、真実の祝日となるのではなかろうか。

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