Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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社会の波に溺れぬ子を育てるために  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  トルストイがイワンに託した夢
 正月というものは、何回迎えてもよいものだ。老若男女、境遇の違いなどによって、それぞれに感じ方も異なってこようが、華やいだなかにも、なにか心が引き締まり、感慨を新たにさせられる。とくに、無心にはしゃぎまわっている子供たちの姿を眺めていると、この一年が、子らにとってよい年であれ──と祈らずにはいられない。
 親子そろって、にぎやかな街なかへ繰り出すもよし、一家団欒の花を咲かせるのもよいだろう。テレビの新春番組も、各チャンネルが出し物を競っているはずである。ところで私は、こうして一家がくつろいでいるときに、共どもに語り合うことのできる民話などがあったらと、ふと思ったりするのである。たとえば『イワンのばか』(中村白葉訳、岩波文庫)──。トルストイの名作だが、こんな物語が各家庭で語られるようになれば、それだけで、ぎすぎすした今の世の中も、ずいぶん潤いのあるものになると思う。──不朽の名著は、今なお新鮮な魅力で私たちに語りかけてくるなにものかがある。
 ご存じの方も多かろう。イワンは、ある国の裕福な農家の、三人兄弟の末弟。下に一人、生まれつき口のきけない妹がいる。長兄セミョーンは軍人である。彼は貴婦人と結婚し、常に武力に頼り、支配欲満々である。次兄タラースは“ほてい腹”で金銭には目がない。事あるごとにひと稼ぎをねらっている。それに対しイワンは、いつもボロを身にまとい、妹と一緒に、黙々と野良仕事に精を出す以外に能がない。
 物語は、一人の老悪魔と三人の小悪魔が三兄弟を仲たがいさせ、破滅に追い込もうとさまざまに術策をめぐらすことから展開していく。ユーモアたっぷりの興趣と、素朴な教訓が連なるなか、二人の兄は、ついに悪魔の奸計にひっかかって破滅してしまうのだが、イワンだけは違う。悪魔が頭をふりしぼって考えだす、どんな権力の魔力も、金銭の魅惑も、彼には歯が立たず、悪魔の方が結局、“三十六計”を決めこむしかない。そして“ばかのイワン”が、最後の勝利を収めるのである。
 イワンは“ばか”である。愚直ひとすじに働きつづける。といって、二宮金次郎のごとき刻苦勉励型ではない。どんなにペテンにかけられようと、恨み一ついだかず、「ああよしよし!」を口グセに、底抜けに大らかである。人を赦すことを生来の質としている。そして、なによりも忍耐強く、困難に直面しようとも、大地に足をふんばり、豆だらけの手から、鋤を放そうとしない。
 そこには、凡百の勧善懲悪物語を優に超えた人間像が、深く彫琢されている。
 ちょっとやそっとのことではへこたれそうにない、こうしたキャラクターは、わが国の伝統には、ほとんど見当たらないのではなかろうか。もとより“ばかのイワン”は、文明の華美や虚飾と戦った晩年のトルストイが託した夢である。しかし私は、そこには現代から失われつつある、大切なものが秘められているように思う。
 教育というものは、子供を社会の要求する一定の型にはめこみ、変に小回りのきく人間をつくりあげるのではなく、イワンのように、愚直なまでにわが道を歩みつづける“大きな度量”を、どう育てるかにあるとさえ、感じられてならない。
2  子供を不器用にさせる親の過保護
 最近の、子供の自殺、家出、ノイローゼの報道が、私の心を刺しつづけている。生命を失い、精神を失い、世界からの信頼を失ってきた日本は、今、わが子からの哀しい抵抗を受けて、未来さえも失おうとしている。大人の虚脱が子に暗雲を投げかけ、よりかかろうとした大人に身を躱されて、死に急ぐレミング(ネズミの一種で、ときどき大増殖して死の大行進をする)となったのであろうか。
 私が痛切に感じているのは、現代の子供の脆さである。ガラスのようだと思う。したたかさがない。いつ折れるかしれない弱さを感じるのである。社会が悪い、大人が悪いと自責することはできる。しかしそれだけで未来は生まれない。何が悪いのか、どう改めるかの苦しい一歩を始めねばならないのである。
 何が子供を弱くさせたのか。何が子供に逃避を教えるのか。その原因は何で、解決法は何か。この厳しい設問に、美辞麗句ではなく実感で、逃避でなく挑戦で答えるべき義務を現代の大人は課せられている。
 最近の子供は不器用になったと、ある教育者から聞いた。ハサミやナイフを使える子が少ないそうである。ナイフで鉛筆を削らなくとも、機械がしてくれる。ハサミで切ったりして物を作らなくても、完成品同様のプラモデルがある。
 手や足の代行をしてくれる便利さが、子供から道具を奪っていることも確かである。
 ところが、その教育者の言うのは、お母さんがそれらの道具を子供に持たせないのが大きな原因だというのである。怪我でもしたら大変だ、それしかなければ仕方がないが、ほかになんでもある、果物ならお母さんが皮をむいてあげる──というわけである。
 ナイフやハサミはたしかに危険であろう。しかし、子供を守ることと、なんでも母親がするということとは別のもののはずだ。果物の皮をむいたことのない子供を見ると、悲しさより腹立たしさが先に立つ──と、その教育者は親の過保護を嘆くことしきりであった。
 子供は生まれつき弱いのではないと思う。もちろん、他の動物のように、生まれた直後から一人立ちすることは無理であろう。だが実際に訓練によっては、生まれた直後の赤ん坊でも泳ぎだすと報告されている。いや、訓練なしでも本来泳ぐ力をもっているのだともいわれる。これは、事実として生まれたばかりの幼児さえ、十分な可能性を秘めていることを教えている。私は、決してそうせよと言っているのではない。あまりの過保護による依存性によって子供のなかにある可能性を抑え、力を奪って、人生の“水泳能力”を発揮できないようにさせてしまうことを恐れるのである。
 少々酷な言い方で恐縮だが、子供が不器用なのではなく、親が不器用にさせている面もある。もっとも、科学技術の発達が、人類総体を不器用にさせているのかもしれないが。
 今、手作りの道具をもつ人がどれだけいるであろうか。
3  転んでも一人で立ち上がらせる
 私が子供のころは、いつもどこかに生傷を負っていたような記憶がある。子供らしい遊びよりも、生業を手伝うことの多かった私ではあるが、いつも何かを作り、泥の中をはねまわり、あざや傷をつくる「子供の勲章」は、ほかの子供並みであった。自分たちで何かを作らなければならない時代の貧しさは、子供にも生活の勇気と知恵を与える教師であった。
 世のお母さん方、子供の勇気と知恵を引き出していくようにしてはどうか。ハサミやナイフの場合も、ある一定の年齢になれば、あえて使い方を教えてもよいのではないか。もちろん怪我をしないことに全注意力を傾けなくてはならないが……。それをせずに親が全面的に代行するのは、ある意味では愚かな過保護と言われてもしかたがあるまい。
 ハサミやナイフは小さな問題である。しかし、そこにすでに「依存」の芽生えがある。子供が小さな波をかぶることを恐れて、波から遠ざけたり、身代わりにかぶってやったりすると、その無防備な子供が大洋に出ても、ただ戦くばかりであろう。かくして大学受験や入社試験に母親が同伴することになる。この「半大人」が、大きな、避けることのできぬ、しかも他の人が代われぬ波を受けたらどうなるであろうか。子供の自殺を聞くたびに、私には泳げぬ子供が波に溺れて助けを呼んでいる声に聞こえてならないのである。
 子供には、自ら戦う力、生きる力をもたせなくてはならないのである。「可愛い子には旅をさせよ」という諺がある。昔は実際に旅をさせたそうである。子に旅をさせるのは、親としてこれほど不安なことはない。これほど寂しいこともあるまい。しかし、強いて旅をさせたのである。
 今の親に、子を旅させることができるであろうか。少なくとも、人生独立の脚力を日々、養っているであろうか。いつまでも親にすがっていてくれるように、朝に手の力を萎えさせ、夕に脚力を奪い、昼に太陽の赫々たる光をさえぎり、夜に寒風の厳しさをかばっていないであろうか。──こうして育てられた子が、ある日、太陽を見て外に出、自然の苛烈さに斃れるのである。宿題をする努力を教えず気ままに過ごさせた親に、夏休み明け宿題ができずに自殺した子への責任がないと、私には言うことはできない。
 子供が道で転んだとする。駆け寄って「おお、よしよし」と抱く親は下の親と言った人がいる。それなら知らん顔をして子供の力に任せる親のほうがよいという。たしかにそのとおりだろう。本当の親というものは、子供を心配しながらも、自分で立ち上がることを教える親ではなかろうか。私も以前、そのような場面に出くわしたことがある。そのとき面白いことに気がついた。転んだ子供は、痛いのであろう、泣きべそをかきそうになりながら親の顔を見るのである。しかし、そのときはまだ泣かないでいる。痛い、しかし泣いていいのかどうか、子供は周囲をうかがっているようでもあった。そのときに「よしよし、痛かったろう」とでも言おうものなら、たちまち火のついたように泣き出すにちがいない。しかし「強い子は泣いてはいけない」と言うと、けっこう泣かないものである。ひとくちに子供といっても千差万別であるから、一概には言えないが、こうした一面があることは確かである。
 一つの光景ではあったが、その瞬間の勝負が、まごうことなく子供の生命に刻印されると私には考えられた。小さなことであるかもしれない。しかし、決しておろそかにすることではない。瞬間の積み重ねに、子供の全人生があるからである。
4  息子たちへの自立の教え
 私の三人の息子たちへの教育は、と言われても、多忙なため人に言えるような家庭教育のできなかった、よくない親かもしれない。しかし、狭い家の中をタンクのように駆けまわっていた三人の腕白軍団も、いつのまにか長男が二十四歳、次男が二十二歳、三男が十九歳となってしまった。
 それぞれ性格は違い、長男はどちらかといえば理智的、次男は明朗快活である。三男はといえば、二人の兄貴の圧力や干渉をうまく逃げて、賢明にわが道を見いだし何事にも凝り性になっているようだ。小学生時代から天体観測に凝ってしまい、今もって天空の綺麗な小笠原へ友だちと出かけたりしている。彼はまた漁師の血をひいたのか海が好きであり、大学で外洋帆走部に入って、休みごとに油壷へクラブ活動で行ってしまう。そんなわけで顔を合わせる機会もめったにない。昨年の五月の朝のことであった。波浪の激しい日であったが、訓練のためヨットで海へ乗り出した。ところが石廊崎の沖合で突風が吹きよせヨットは転覆してしまった。助けにくるべきモーターボートも途中でエンジン故障で動かなくなってしまった。やっとのことで通りかかった船に救助されたとのことである。その間、友を励ましながら──。ところが家へ帰ってきても何事もなかったかのように泰然自若としていた。その晩、妻が、少々風邪気味のようであるから薬でも飲んだらと言って──すべての事情がわかったのである。
 私はそんなことはつゆしらず、あとで妻に聞いた。私は驚くというより、青年のひたむきな情熱を感じていた。妻は心配しながらも一言、「せせこましい所で遊ばれるよりも、大海原で鍛えてもらったほうがいいわ」と言っていた。私も人の親である。ほっとした安堵の心をいだいたのは自然の情というものである。とともに、彼も、一人の独立した人格として育っていたことを、ほほえましくも思った。
 私は子供を一方的に上から見つめることをしなかった。子供に私を見ることも要求しなかった。私が遙かに見つめ、めざしている社会正義という方向だけは押しつけではなく自然のうちに子供にも凝視してほしいと願っただけである。私の教育といえば、これぐらいのものかもしれない。お互いが向き合った家庭ではなかったかもしれない。しかし遙かな山脈を共に眺望しゆく家族を願って生きた。私の歩く道の前を子供たちが歩き、彼らの子供たちが、またその前を歩く。人間のたゆみない建設の黄金道が、そこに拓かれるように思うのである。
 私は子供の教育に、重要な観点が抜けているように思う。それは何のために教育するかということである。私は教育の根本テーマとして「自立させるための教育」を訴えたい。
 子供は親の所有物ではない。一個の人格である。まだ力のない人格である。力がないがゆえに「だから守る」のである。一個の人格であるがゆえに「だから自立させる」のである。
 教育の「育」とは育てることである。春、種を植える。育つのは種であり、草木自体である。人間は雑草を取り除き、肥料を与える。その肥料を大地から吸い取るのは草木である。育てるというのは、草木に自立させるために周囲から守るのである。したがって、教育の「教」も、自立を教えるものであって然るべきと思えてならない。
 子供を自立させる教育に目的をおくと、教育方法もおのずと定まってくるのではなかろうか。一時「スパルタ教育」か「放任主義」かと、教育法が話題になったことがあった。両説とも大変説得力があって世論を二分した観があったが、これらは「手段」が論じられたのであって、目的と勘違いした人があったように見受けられたのは残念であった。
 目的はあくまで自立にある。自立させるために、ある場合は厳しく訓練する必要があろうし、あるときは放任することも大切であろう。どちらかというと、子供が物心つくまでは厳しく躾け、大きくなるにしたがって自主性に任せていくのがよいのではないかと思う。
 ところが、往々にしてこれが逆に行われている場合があるようだ。小さい時は甘やかすだけ甘やかして、したい放題にさせる。大きくなって慌てて言うことをきかせようとするが、もう後の祭りである。これでは子供の自立心は養われない。子供は小さくとも、吸収の度は大きい。大人の何年間かの成長の分を、一日、一カ月、一年で獲得してしまう。しかも、それまでに余分のものが植えつけられていないゆえに、ぬぐうこともむずかしい。
 幼時は何にでも興味をもつ。それは無差別である。ところがそれに親がさまざまに反応する。熱心に聞いてやったり無関心であったり、勧めたり制止したりする。そこで子供の脳の中で「選択」が行われる。そして制止された部分は、発達を抑制されるのである。子供の個性はこうして形成されていく。もちろん子供自体にも遺伝的な特性はあろうが、親が子に与える影響は計り知れず大きい。
 子供が自立するためには、力をもたなければならない。それは知識の力であったり、技術であったりする。その力をもたせるためには、才能を伸ばす努力が必要になってくる。もちろん万全に、とはいかないであろう。しかし、そのための最善の努力はなされねばならない。すなわち、子供の生命を揺さぶり、才能の芽を掘り起こし、太陽の下で育てるためには、日々新たな、興味に富んだ環境を子供に与え、そこで自力で歩ませていくべきであると主張したい。
 「自立」を骨格とした教育にあっては「躾」の意味も変わってくると思う。「あれをしては叱られる」「こうしてはいけない」という躾のみであってはなるまい。前向きに「こうすることが正しいこと」という教え方も必要になってくる。たとえば 子供が他人に迷惑をかけたら、叱るだけではならない。ちゃんと迷惑をかけた人のところへ自分で行って謝ってこさせる──このぐらい自分の良心にしたがって行動する子供へと成長させることが期待されてもよいのではなかろうか。
 正月の風習の話が、教育論にまで跳躍してしまった。しかし正月は年の初め、子供は人生の始まりである。何事にも出発を大切にする気持ちは忘れたくないものである。
 今年も、時節がくれば、各地でさまざまな祭りや伝統行事がもたれるであろう。怖い鬼や福の神などにすかされたり、おだてられたりして勤勉さを得るのではなく、わが信念の命ずるところによって精進する社会、人の目をうかがうのでなく、人に尽くしていく社会。大人も子供もそうした正月を祝ってこそ、真実の祝日となるのではなかろうか。

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