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日蓮大聖人・池田大作

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主婦よ“開かれた女性”たれ  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  隣人の新しい連帯感を呼びさます“人間の広場”を
 日本人は「まつり」が好きです。これは宗教的行事として、また観光事業として受け取られていますが、もっと素朴なところにその発生源を求めてもいいのではないでしょうか。
 秋の穫り入れまで、夜を日についで働き、生活を楽しむ余裕などなかった農民が、収穫を祝って一つところに集まり、神社や寺など「公共の場」で祭りが行われたのではないかと思うのです。
 年に一度、あるいは数度しか宴会のたぐいのものを行えなかった庶民の貧しさを表徴しているともいえますし、それだけ村落のなかでのつながりを大切にしていたのだともいえそうです。
 地域の連帯を、日本人がこのようにして永年つちかってきた意識が祭りであり、近年、団地などでも新しい形で共同の“人間の広場”がもたれるようになってきたのも、連帯感を呼びさます活動であろうと思います。
 そこから、隣人同士の交流や新たな意識の変革がもたらされるきっかけとなるなら、その意義は大きいといわざるをえません。
 また、それが年に一度の「集会」に終わるのでなく、日常化していったら、さらにそれがたんなる「お祭り騒ぎ」だけでなく、真剣な意見の交換にまで発展していったとすれば、素晴らしいことであり、その主役は、なんといっても主婦の皆さんに課せられるものだと思うのです。
 私はつねづね、女性は家庭に閉じこもるべきでないという考えをもち、人びとに訴えてきました。すべての女性が職業をもつべきであるということではありません。家事も繁多であり、育児、家庭教育ほど大事なこともありません。
 しかし、だからといって、社会との接触を断ち、目を内に向けてばかりいて地域に考えを及ぼそうとしないならば、女性の意識の向上とか変革とかは永久にないのではないかと思えるのです。
 主婦の一日の平均テレビ視聴時間が、約五時間だと聞いたことがあります。私は驚きの念を禁じえませんでした。電気器具が普及し、家事にさかれる時間が短縮されても、それだけの時間がテレビに移っただけであれば、女性が「街に出る」ことを自ら閉ざしていることになるからです。主婦が昼間、テレビの前に釘づけになり、夕方は夕方で、学校から帰った子供たちがじっとテレビに見入っている──そうした光景を想像すると、私の心はいささか暗くなります。
 テレビを見て悪いというのではありません。社会への関心をもつきっかけになれば、それはそれで意味があります。しかし、五時間のうち二時間でも三時間でも削って、外へ出るという習慣をつけたならば、テレビを見て感じたことを両隣の人と話し合ったならば、そしてその問題意識を、自分の身のまわりの社会にあてはめてみるならば、どれだけ自分自身の意識変革になり、地域向上に役立つことか。私にはそんな思いがふとよぎります。
 地域社会とかかわっていく活動というと、どうしても尻込みしがちになります。家庭や自分をなげうって活動しなければならないと思ったり、政治運動や、大規模な社会運動をしなければならないと考えるからではないでしょうか。しかし、私はそれは大きな誤りであると思うのです。
 社会へ貢献するということは、自らを犠牲にすることと引き換えであるとする考え方が、今まで根強くあったことは確かです。過去の幾多の先覚者がそうでしたし、ときには生命を失うことすらもありました。このことは非常に美しい響きをもっています。自らをなげうって他に尽くす──この考え方が、この美しい言葉が、しかし、社会への貢献ということを、このうえなく困難なものにし、少数の人たちだけで進められるという結果をもたらしているのではないでしょうか。
3  他人を笑えば自分も笑われる因果関係
 人間は本来、利己的なものです。それは生きるための本能がしからしめるといってもいいでしょう。それをなくせといっても、とてもできることではない。大切なことは「自らをよくすることが全体をよくすることであり、全体に貢献することが、自らを守ることである」という思想でありたいと、私は思うのです。
 これは当たり前のことです。しかし、この当たり前のことが大切なのではないでしょうか。社会と切り離してわが家庭があるのではなく、わが家の快活な団欒なくして、社会への貢献は絶対にないはずです。利己的であってもならないし、犠牲に偏してもならないということなのです。
 仏教には、自分のとった行為は、必ず回りまわって自分のところへ戻ってくるという思想があります。因果応報などという原理もそうです。近年、公害が頻発して、自然科学の世界では、この考え方が裏付けされています。
 大海に捨てるのだから影響はないだろうと思って投棄した汚染物質が、植物性プランクトン、動物性プランクトン、小魚、大きな魚と汚染していき、結局は人間の体内に戻ってくる。大気汚染もそうであり、河川もその例外ではありません。自然は「輪」であり「連鎖」であることが、生態学の発達とともに、明らかにされてきたわけです。
 自然界だけではない。この社会も、人間の連鎖によって構成されているはずです。とするならば、いくら塀を作り、壁で仕切っていても「輪」であることには変わりはない。自分一人ぐらいは、と思って社会に汚染物質をタレ流せば、必ず自分のところに戻ってくるのは明らかなことです。
 仏教の教えのなかに「善戒を笑う人は国土の民となり王難にあう」ということがあります。わかりやすく言えば、立派な社会人であり、社会に貢献しているような人を笑えば、社会から守られなくなり、爪はじきにされるということです。
 単純な因果関係のようですが、ここには、社会と個人との密接な関係を示し、自らの行動の影響の大きさを教えています。
 食物という目に見えるものを追究して、連鎖をなしている自然界が明らかになってきました。精神の世界、社会生活という、目に見えにくい分野にあっても、連鎖は厳としてあり、ある意味では公害以上に大きな影響を及ぼしていることを、私たちは知らねばなりません。
 社会は複雑であり、単純な割り切りかたはできません。しかし、たとえば、一人の人が他人を軽蔑したとする。笑われた人は怒るでしょうし、相手の悪口を言うこともある。そうした行為がめぐりめぐって、結局は、自分がまわりの人からバカにされるようなことにもなりかねません。
 利己主義に走る人が充満してくれば、苦しむのは、しょせん自分です。逆に、人を尊敬する人は、いつのまにか人から尊敬されるようになり、社会全体にそうした風潮を生んでいくことにもなるでしょう。
 このことは、他に貢献することの大切さを教えていることにおいては、自らを犠牲にする思想と変わりはないように思うかもしれません。しかし、決定的に違うのは、それが自分自身を大事にすることに通じると教えている点です。
 社会に目を向けるという行為は、子供の教育という面においても、大きな影響をもたらすはずです。私の知人は、毎日、子供に世界情勢から話して聞かせると言っておりました。さすがだと私は思いました。
 そういう教育から生まれる人間の未来を、頼もしく思い、なかんずく家庭教育の柱たる主婦に、そうした発想をもってほしいと、切実に願わずにはいられません。
 婦人が、社会へ積極的に取り組んでいけば、家庭内における話題も自然と豊富になり、また今までひとりよがりで考えていた家庭の運営を、客観的に見直すこともできる。逆に、社会自体も、健全な家庭を基盤とした着実な運動があってこそ、大きく発展していくはずだと私は思っております。
4  一日に一時間でも二時間でも社会とかかわりをもとう
 先にも述べたとおり、社会活動といっても、一日の大半を使って、一切をなげうってする活動を私は主張しているのではありません。一時間でも二時間でも、社会とかかわっていく行為が最も望ましいことであると思う。早い話、百分の一の人が十時間、忙しく動きまわるよりも、すべての人が十分間だけでも参加すれば、そのほうが効果が大であることは言うまでもないでしょう。
 それはたんに物理的な量の問題だけではありません。さまざまな立場の人が集いよって、語りあい、歩むことが尊いのです。そこからは偏った、あるいは日常生活の感覚から遠く離れた思想は出てこないであろうからです。
 一部の人だけで進める運動は、偏頗な、また急進的な結論に走る恐れがある。ある人たちにとっていいことのようであっても、他の人にとっては困ることであることが少なくありません。それを防ぐには、多くの人が参加し、遅いようではあっても、着実な歩みをつづけることが必要であろうと私は思います。
 一人の人が、週一回、二時間だけ、そうした活動をしたとする。一年間で百時間を超える社会活動をしたことになる。これは日本の社会運動の歴史にもかつてなかったことであると同時に、一人ひとりにとっても、かぎりない充実をもたらすことになることは疑いありません。
 私は、社会運動の肝要は、頂点を高くすることにあるのではなく、裾野を広げることにあると考え、それを訴えつづけているのです。いや、裾野を広げることが、そのまま頂点を高めることに、自然のうちになるであろうことを強く信じているのです。
 私はかつて、まず挨拶をすることから始めようと言ったことがあります。私は今、この年、大いに外を歩き、大いに語る婦人であってほしいと願っています。テレビを見ている時間を少し削るだけで事は足りるのです。婦人解放といい、地位の向上といっても、体制の変革だけに終わってはならない。意識の向上が先決であり、そのための活動として、このような身近なところから始めることだと、私は思っています。
 笑顔を浮かべて儀礼的な挨拶をすることが近所づきあいではないはずです。たんに優しい言葉をかけることが隣人愛なのではない。明るく、積極的に意見交換をしてほしいのです。そうした接触があって、問題意識も生まれてくるし、わが身を振り返ることもできるのではないでしょうか。またそこに、真実の隣人愛に満ちた連帯感が生じるであろうと、私は信じています。
 この一年、社会はますます厳しい情勢となるでしょう。こういうときに最も要求されるのは、自分の住む社会をよくしていこうという市民全体の努力です。政治の不正、教育の歪み、経済の不合理を鋭く見抜き、それらを許さない連帯、そして利己に走り、厚い鉄の扉の中に逃げ込もうとする消極性を打ち破る姿勢こそ、いちばん大切な宝としなければなりません。地域社会にその波を起こしていける力こそ、婦人が担っていると、私はあえて言いたいのです。 ──少々、要望ばかりになってしまったようです。しかし、女性は自己の悲哀を制覇する強さをもつゆえに、世界を制覇する力をも担っていると訴えたかったのです。家庭の太陽である婦人が、社会の太陽となったとき、真実の人間世紀の新年が始まるにちがいない。私の希望は、今、とめどもなく広がっていきます。

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