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日蓮大聖人・池田大作

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教育の場は身近にある  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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1  生命と生命が交流する虚飾なき子供の世界
 私は子供が大好きである。家の近くに数か所の遊園地があり、毎日子供たちのにぎやかな遊び場となっている。昼下がり、西日が差しはじめるころから、待ちかねたように、付近の少年少女が集まってくる。たぶん、学校での勉学から解放された“自由”の喜びで、はちきれんばかりのエネルギーを爆発させたいのだろう。溌剌とした“子供の王国”が数時間つづく。 ときたま私は、仕事の手をしばし休めて、未来の使者たちの遊び場に出かける。──現代の遊び場は、私たちの少年時代とだいぶ様相を異にしているが、歓声とにぎにぎしさは同じである。
 コンクリート製の円筒が並んでいたり、円錐形をしたコンクリートの山が造られており、その山にはいくつもの空洞が通っている。同じすべり台でも、くるくる回りながらすべりおりる工夫がほどこされていて、見ていて楽しい。
 子供たちは、私たちの年代からみれば、いわば前衛的な施設を巧みにこなして、彼らなりの夢の世界を現出する。コンクリートの壁を、びっくりするほど真剣な表情でよじ登る幼い子もいれば、円筒の中から、高揚した顔を、ちょっぴりのぞかせている少女もいる。少しばかり高すぎるすべり台の上で立ちすくんでいる幼児を、さかんに励ます少年のグループ。年少の男の子が、仲間たちに促され、勇気を奮い起こして、一気にすべりおりると、腕白仲間の歓声がどっと沸く……。 子供たちの世界──そこには世の大人たちが巧みにとりつくろっている虚飾はなく、子供らの生命と生命のありのままの交流が織りなされていて、とてもすがすがしい。虚像のむなしさを拒否した実像の世界とでもいえようか。自由に伸びのびと、互いのいつわりのない心を投げ合いながら、未来を志向する瞳の世界は、晴れやかな色彩である。
 私は、子供たちと触れ合うとき、いつも希望にあふれた未来からの潮騒を聞くような思いにひたる。
2  自由と放縦の違いが体得できる遊びの場
 子供たちは子供たちだけで、うんと思いきり遊ばすがよい。そこは身近な子供たち自身の教育の場であろう。彼らなりのルールがあり、助け合いがあり、励ましがある。遊びながら泣きだす弱虫も、やがて遊びのなかで笑顔を取り戻す。腕白いちずの少年も、たわむれつつ、いたわりの心の重要さを発見していくにちがいない。
 よく現代には教育の場が少なくなったという議論を聞くが、身近な遊びの場こそ教育の場であることを、世の父母たちはもう一度見直したいものである。勉強のために家に閉じこもっている子供が、決して得ることのできないなにものかが、子供たちだけの遊び場にはあろう。
 学童期は、冒険心と知識欲が充満し、はちきれんばかりのエネルギーを実感する期間である。また友人との協調性を培う貴重な一時期ともいえよう。創造的な遊びをとおして、少年少女の生命は、未来を開く“内なる宝”を自ら磨きあげていく。
 この時期には、父母、とくに母は、決して子供を自分の手もとにひきつけておかず、遊びの世界に送り出したいものだ。
 オランダの有名な歴史家であり哲学者でもあったホイジンガは、遊びを定義して「遊びは自発的な行為もしくは業務であって、それはあるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的をもち、緊張と歓喜の感情に満たされ……」(『ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳、河出書房新社)と述べている。遊びの意味をよくつかんだ言葉であろう。
 遊びを媒介にした仲間集団には、子供たちなりの規約もあれば、遊びのルールも成立しているものだ。両親にも決して明かさない密約を取り交わす場合もあろう。少年たちは、家庭や学校とは違って、対等な立場で付き合い、責任を分担し、ルールを確立していく。自由に振る舞いながら、そこには、義務づけられた規則が脈打っている。その規則は、互いに取り交わし、自発的に受け入れたものにほかならないだろう。 「自由には義務という保証人が必要だ。それがなければ、単なるわがままとなる」──というロシアの文豪ツルゲーネフの至言は、腕白集団にも息づいている。親が余分な心配をする必要はまったくないであろう。
 遊びのなかでは、自らに課せられた義務、責任を果たさず、わがままな自己主張を押しとおすと、その子は結局、仲間はずれにされてしまう。このことは大人の幼き日の思い出に鮮明であろう。子供たちは遊びつつ、自由と放縦の違いを無意識のうちに、いわばからだで覚えていくのである。
3  独り立ちに必要な遊び
 こうして子供たちは仲間ともみあいつつ、社会生活を営むための基本的な事項を、自然のうちに身につけていく。子供は子供なりに創造力、計画性、自主性を養っていけるのである。体力が鍛えられるのは、もちろんである。
 よく見かける光景だが、遊んでいるわが子が仲間はずれになっているからと気をもみ、泣いているからと心配する母親がいる。家に無理やり連れかえる親もいようが、そのことが、知らずしらずのうちにわが子を過保護にし、弱々しくしていることを知るべきだと思う。
 遊びの天地が広がるにつれて、少年少女は未知の領域へと飛翔していく、独り立ちの始まりである。子供たちの遊びの空間が広がるにつれ、精神空間も広がっていくであろう。初めて見る街角や家並みは、さながら子供にとっては波うつ大海の果てに広がる未知の大陸、緑なす山脈、風が鳴りわたる草原ではあるまいか。
 世界を旅しての感慨の一つは、子供たちの遊ぶ様子は万国共通であるということだ。少年少女の澄んだ心には、国境もなければ、民族の相違もない。こっちが子供の心になれば、言葉が話せなくとも飛び込んでいける場である。それだけに、汚れを知らぬ純粋な精神に接するときには、誠意しかないと思っている。
4  親の態度が最大の家庭でのしつけ
 逃げ足の速い冬の日が、とっぷりと暮れるころ、ひたいに汗し、ほっぺに泥をぬりつけた子らが、父母の待つ家庭へと散っていく。私は彼らの瞳を追い、薄れゆく小さな影をたどりつつ、子供たちにとって身近な教育の場のもう一つは、やはり家庭だなとしみじみ思ったものである。
 最近、しつけに関する心理学の著作をひもとくうちに、私は私なりに次のような結論に傾いている。それは、悪いくせがつくもの、人の迷惑になるもの、健康に悪いものだけは、厳しくしつける必要がある、ということだ。もちろん、できるかぎり子供のすることはおおらかに見守り、自由に伸びのびと育てるべきことに変わりはない。ただ、言うべきことは言い、しつけ方のポイントも、常に一貫して変わらず、反復して教えなければならないであろう。うそを平気でつく、などということは、悪いくせの最たるものである。「うそはつくな」と繰り返し教える母の言葉は、たとえ平凡であっても、子供の心にいつまでも生きつづける。
 また世の母が苦労を重ねた生活体験から得た知恵は、たとえ平凡な言葉で表現されていたとしても、貴重な教訓を子供の未来に宿すものだ。
 私自身のことだが、生来、私は体が強くなかった。母の気づかいは、なによりも、私の健康であったろう。栄養学の知識など持ちあわせたわけではなかろうが、小魚をいつも食卓にのせた母の口ぐせは「骨までよくかんで食べなさい」ということだった。どこの母も口にする言葉だろうが、理にかなった生活の知恵といえる。
 それと私が室内で読書にふけってばかりいると「外で元気いっぱい遊んできなさい」と、ときにやかましいほど言われた。今思うと、新鮮な大気と降りそそぐ太陽のもとへと健康を思って促してくれたのであろう。最近は激務の連続でも、どうやらそれらをこなしていけるようになったが、多忙の日々に健康を感謝する折など、ふと、今は亡き母の気づかいを想い起こすのである。
 「ありがとう」「おはよう」と言えない子供が増えているなどとよく聞く。これもしつけの問題であるが、しつけといっても変に堅苦しくとらえる必要はまったくない。親が明るく礼儀正しく振る舞うことが、最大のしつけとなる。早い話が、家庭内で「おはよう」が飛び交う家庭であればよいのである。両親の言動をもって幼児期にしつけたものは、成長とともに子供の行動の骨格となっていくのである。改めて家庭でのしつけを考えなおしたいものである。
5  大自然も重要な教育の場
 次に身近な教育の場といえば、なんといっても大自然そのものである。北風とたわむれる少年の鋭敏な皮膚は、日一日と高くなる日差しのなかで、自然の律動を感じとっていくものだ。湖水のように澄みきった少女の瞳は、冬の立ち枯れた雑草の間に、初々しい顔をのぞかせる若草の芽に、生きとし生けるもののたくましい胎動を見逃さないであろう。
 私が少年時代を過ごした羽田近辺は、以前は豊かな自然が広がっていた。そこを舞台に織りなされる四季変転のリズムに、私は小さな胸をとどろかせながら育った。光る海と紺碧の空、緑の萌える田園は、かけがえのない友であった。地方出身の都会の人が描くあのふるさとのイメージである。
 寒風にのせる凧あげ。早春の陽光を浴びつつの野原での駆けっこ。夏の照りかえる日差しのなかでのセミとり。紅葉したモミジの下での虫とのたわむれ……。幼き日の思い出には、必ず自然が背景にあって鮮明な色彩感を与えている。私にとって自然は、なにものにもかえがたい“教師”の役割を果たしてくれたような気がする。
 フランスの思想家ボルテールの言だが、まさに「自然は人間の施す教育以上の影響力をそのうちにいだいている」のである。大自然の美を感受する心、生あるものへの親しみの感情、荘厳な天地のドラマへの畏敬の念、人間と自然の調和……これらを豊かにはぐくむのも、人生のこの時期が一番であろう。
 情緒、情操の形成といえば、すぐさま音楽や絵画、踊りなど稽古ごとを引き合いに出す人もいるだろうが、生きた自然との生命の交流はたんなる技術的な教育の枠をはるかに超えていると、私はひそかに確信している。
 より豊潤な情緒の源泉は、四季のドラマを演ずる大宇宙そのもののなかに息づいている。子供たちは、もともと動物や植物が大好きで、山や川へ本然的な情愛を覚えている。そうした生来の心が、セミやカブトムシの昆虫や桜や柿との接触を通じて、見事な情操として花開いていくのである。
 ある少年は、草の葉のそよぎに、妙なる音律を聞くだろう。富士と桜に魅せられた少女の胸には、その美を表現する詩と絵画への眼が養われることだろう。夜空を飾る星の輝きを仰ぎみる子供の心には、宇宙の限りない奥深さと美への憧憬が大いなる夢をもって広がっていこう。
 子供たちは自然との無邪気なたわむれをとおして、自らの情感を豊かにしつつ、なによりも生きとし生けるものの真実の姿を、その生命に焼き付け、生命の鼓動を尊んでいくことであろう。
 身近な一本の草も、大地と陽光と水滴に連なり、一匹の小動物も雑草と空気と無数の微生物がささえている。山々に降る雪は、春を待って川をくだり、平野を緑にうるおし、大海に流れ込む。蒸発した海水は夏空にまきおこる入道雲に変化し、ふたたび大地へ雨となって降る。
 そしてまた、地球の自転と公転には、あのまばゆいばかりの太陽と月と星々とが互いに関連している事実を、大自然のふところで初めて実感するであろう。
6  人間らしさをはぐくむ教育は父母の役割
 少年は大自然の恩恵に感謝しつつ、万物をはぐくむ宇宙生命への畏敬の念を深くし、天地に律動する“生命の糸”を見いだした喜びにひたると思う。文明は、これら少年の心に宿る貴重なものを、まったく無視しつつ今日の危機を迎えるに至ったといってよい。自然は人間にとって征服の対象であり、利用すべきものであるという不遜な価値観を転換させてくれるものも大自然の深いかいなである。
 残念なことに、大人たちのつくった現代の都会生活は、少年から大宇宙に憩い、自然と遊ぶという生得の権利を、いよいよ決定的に奪おうとしているようだ。すでに大都会では、自然は破壊しつくされ、子供たちの日々の生活は大地から離れてしまった感がある。
 しかし大地を離れた教育は、真に人間らしさをはぐくみはしない。私は、子供たちに物を大切にする心、生命の尊厳にうなずく心を期待するならば、まずなによりも雄大な自然美に感動し、宇宙の律動を教えてあげるような優しくも厳粛な父であり、母であってほしいと願わずにはおれないのである。
 都会の片すみでひっそりと咲く雑草に心をとめ、強風でスモッグが吹きはらわれたひとときの夜空に夢を語り、窓辺にまぎれこんだ小動物にあいさつを交わすような美しい母の心があれば、どんな都会に住もうとも、幼子を母なる自然へとおもむかせると思う。
 休日のピクニックもよい。公園での水遊びもよい。植物の栽培、小動物の飼育でもよいだろう。工夫をこらして、子供たちに自然に親しむ場を与えれば、それがなによりの身近な教育の場となろう。 生あるものとともに生きる文明のあり方──その苦難の道を開くところにしか、もはや人類が生きつづけ、輝く未来創造を可能にする方途はない。私たちは、宇宙生命の妙なる鼓動に触れ、自然との“応対”を身につけた若者の成育を待って、自然略奪と物質浪費の文明からたもとを分かち、新たな大自然との共存の道を探りたいと思う。
 種々思いつくままに書き綴ってきたが、幼子をもつ父と母の視点の置き方によっては、いくらでも身近に貴重な教育の場があるものだ。
 子供たちの瞳がいつも希望に満ちて輝きつづける世界のために、次代のために、父と母は重要な役割を担っているのである。

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