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日蓮大聖人・池田大作

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夫婦の溝は自分の心の中の亀裂から生じる…  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  夫婦の愛情を物語るものとして以前、興味深く読んだ小説がある。それはオー・ヘンリーの『賢者の贈りもの』(大久保康雄訳、新潮文庫)である。読まれた方には重複となるかもしれないが、そのあらすじを簡単に述べてみたい。
 家具つきで週八ドルという貸家に住む貧しいデラとジムの若夫婦が主人公である。クリスマス・イブの日、二人は愛の深さを込める贈り物を考える。妻のデラが考えたものは、夫のジムが父祖伝来のものとして自慢している金時計につける鎖であった。しかし、それは二十一ドルもする。手元にはわずか一ドル八十七セントしかない。悩みぬいたデラは、膝の下まで届く、長く美しい鳶色の髪を売る決意をした。髪が女の生命というのは東西を超えた女性の心理なのかもしれない。
 ともかく、身を切る思いで売った髪と引き換えに手にしたプラチナの鎖を持ち、デラは胸はずませながら夫の帰りを待つ。帰宅したジムは顔色を失った。彼がデラのために持ち帰った贈り物は、妻の美しい髪をすくためのべっ甲の櫛であったのだ。
 「私の髪はとても伸びが早いのよ」そう言って差しのべたデラの手にはプラチナの時計鎖が光った。ジムは長椅子にごろっと横になり、微笑しながら言う。「もう、クリスマス・プレゼントは片づけてしばらくしまっておこうよ。立派すぎて今すぐ使うのはもったいないからさ。ぼくは君にやる櫛を買う金をつくるのに時計を売っちゃったんだ」。
 心温まる思いやりと、しみじみとしたペーソスが織りなすこの短編小説は、贈り物に込められた夫婦の愛の深さを心憎いまでに教えてくれる。 互いが大切にしていたものを、ともに手放し、やっとの思いで買い求めた贈り物──それが相手に届いたときには、もはや「プラチナの鎖」につなぐべき「金時計」はなく、「べっ甲の櫛」を飾るべき「長く美しい鳶色の髪」もない。いわば、この贈り物は、どちらも役に立たない。現代の、ドライな若夫婦なら、あるいは言うかもしれない。「前もって贈り物を互いに確かめておけば、そんなムダをしないですんだのに――」と。たしかに、そうにはちがいない。が、このストーリーには、そうした打算や合理性を超えたところに、本当の夫婦の愛の美しさがあり、それを確かめあったことが、じつはかけがえのない“贈り物”であり、その意味で「賢者の贈り物」にふさわしい、との思いが込められている。――愛の無償性とでもいえようか。
3  忘れられないベロニカ夫人のこと
 私は、筆をとっている間に、ふと、アーノルド・J・トインビー博士夫妻の面影が浮かんできた。博士は今は故人となられたが、ベロニカ夫人は、イギリスのヨーク市内に独り住まいされ、年齢は八十三、四歳に達しておられることと思う。一九七二年、そして翌七三年のいずれも陽春の五月に、博士のロンドンの自宅を訪ね、それぞれ五日間ほど対談する機会があった。
 私たちは午前十時から対話を始めるのを常とした。博士の書斎のすぐ隣にある居間で、私たちは窓を背にソファに腰をおろし、語りあった。
 晴天の五月の陽気は、この小さな居間に多少の暑気をこもらせることがある。すると、やや離れて別の椅子に座っているベロニカ夫人が立ち上がり、窓を開けはなってくれるのだった。付近にホーランド・パークという大きな公園があるせいか、朝の清麗な空気に乗って小鳥のさえずりが窓外からよく聞こえる。まったく静かな雰囲気のなかで、私たちの真剣な語らいがつづいた。
 一時間ほど対話が進むと、夫人は席を立ち日本の玉露茶をいれて運んでくれた。これで緊張がほぐされる。お茶をすすりながら、和やかな歓談のひとときが生み出されていく。夫人は対談の間じゅう、ほとんど身動きもせず、しかし柔和な表情を崩すことなく、話の展開に耳を傾けていた。ほんの時折、博士にアドバイスすることがあった。しかし、決して出すぎず、きわめて控え目であり、むしろ寡黙なほどだった。それでいて陰気な影は少しも感じられない。質素な身なりに、インテリジェンスを深く内に包み、なんともいえぬ気品をただよわせていた。
 私は、ベロニカ夫人のことについて、その若き日のこと、結婚のいきさつ、仕事ぶりなど、博士から幾分か伺ってはいたが、詳しくお尋ねすることはなかった。それでも延べ十日ほども夫妻と一緒の時間を過ごすとなると、やはり知るところ、感ずるところが少なくないのは当然であろう。
 そんな結論としていえるのは、あれほど知力の衰えを知らず、人類への警辞を川の流れるように豊富によどみなく語り書き遺した博士の晩年も、夫人の献身的な助力なくしてはありえなかったであろうということである。
 私との対話のときにも、すでに補聴器の助けを必要としていた博士だったが、それよりだいぶ以前から聴力は衰えていたことだろうと思う。夫人は、博士の“耳代わり”となった。博士に聴きとりにくいものは、代わりに聴いて、伝えてあげる。それに、たんなる“耳代わり”ではなく、適切な助言を与えることが、より大切な務めであったようだ。
 いや、それ以上に、博士は、夫人なしでは天寿を全うすることさえむずかしかったと思われる。博士は七十歳代に心臓発作を起こし、もはや再起不能といわれたが、夫人の献身的な看病で回復した、と自ら語っておられる。夫人の看病が、精神的な活力を博士に注ぎ込んだのであろう。
 夫人はケンブリッジ大学出身で、当時まだ珍しい、同大学の女性学士第一号だったそうである。チャタム・ハウス(王立国際問題研究所)での博士の歴史研究の作業を助け、研究材料を収集したり、新聞を読んで聞かせたり、タイプを打ったりされていた。また、博士が仕事でチャタム・ハウスへ行く以外は、家庭にいるときも、公園などで散歩するときも、常に二人一緒に行動されていた。朝の食事も二人で用意し、博士が調理したり皿を洗ったりすることがあって、これが良い健康法の一つだったということであった。──私は、わずかな日数ではあったが、さまざまな人生の軌跡を描きながらも、互いに、心と心を結びながら生きつづけた人間のもつ深さと、輝きを垣間見たような思いにひたったものである。
4  愛は深い絆につちかわれた運命共有の力
 ひとくちに夫婦の愛情といっても、形は千差万別であろう。はた目には“亭主関白”のように見えても、それでいて不思議な和合の姿を示している場合もある。逆に“かかあ天下”のようでありながら、琴瑟相和しているケースも少なくない。また、常に起居を共にしていれば、愛情が通いあうというものでもないようである。忙しい夫婦が、年に一度か二度、時間の合い間を縫って外で食事をしてきた思い出を大切にしている話などを耳にすると、思わずほほえみが浮かんでくるものだ。
 形ではない。私はいつも思うのだが、長い間、苦楽の道程を共にしてきた夫婦の間には、なにものも断ち切ることのできない、深い絆がつちかわれているものだ。それは、若い夫婦にみられるような、直接的な愛情ではない。というよりも、愛情という言葉では覆いつくすことのできない、深く広い運命共有の力である。私はそうした老夫婦を、何十組となく見てきているが、そこには、なんともいえぬ満ち足りた雰囲気がかもしだされている。後悔もなければ不満もない。老いの繰り言なども、その人たちには無縁である。決して恵まれた境遇にあったとはいえない人も多いのに、表情に陰がない。人生の坂を共に歩みぬいてきた人のみもつ、悠々たる自足の感情が、やがては迫りくるであろう別離の時をも包み込んでしまっているのである。
5  以前、森鴎外の『じいさんばあさん』(『鴎外全集』第十六巻、岩波書店)という小品を読んだことがある。なかなかの佳編なのでご存じの方も多いと思うが、ざっと次のようなストーリーである。
 江戸末期、麻布竜土町のある屋敷に、一人のじいさんがやってきて隠居所に入る。屋敷の主の兄にあたるそうで、髪は真っ白であったが、人品いやしからず、腰など少しも曲がっていない。二、三日すると、そこへばあさんがやってきて同居する。これも白髪を小さな丸まげに結って、じいさんに劣らず品格がいい。ばあさんがやってきてからは、二人の食べるものを、まるで子供のままごとのようにこしらえる。仲のよいこと無類で、近所の人たちは、あれが若い男女ならばとても見てはいられまいとか、夫婦ではなく兄妹だろうとか噂しあう。二人の起居を描き出す鴎外の筆は簡潔にして意を尽くし、余すところがない。
 「二人の生活はいかにも隠居らしい、気楽な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打って拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、其隙には爺いさんの傍に来て団扇であおぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである」
 じいさんの名は“美濃部伊織”七十二歳、ばあさんはその妻“るん”七十一歳。二人には、じつは過去があった。それぞれ三十歳、二十九歳の時、当時でいえば晩婚で所帯をもち、一子をもうけるのだが、るんがまだ妊娠中に京都に出向していた伊織が刃傷沙汰をおこす。刀好きの彼が、よい古刀を発見して、借金までして手に入れた披露の席でのことであった。
 伊織は配所に送られ、るんは夫の母と嬰児を抱え、女手一つで生きることを余儀なくされる。やがて姑は世を去り、一人息子も相次いで他界するのだが、るんはひたすら夫を信じて逞しく生きつづける。その間三十七星霜。伊織の赦免を聞いたるんは、故郷の安房から喜んで出てきて、三十数年ぶりの再会となるのである。
 鴎外はこのなかで、余計な心理描写などは、なにひとつしていない。また三十七年間の苦労話めいたものも皆無である。それだけに、再会後の老夫婦の仲むつまじさが、いっそう際立ってくるのである。
 伊織の身にもるんの身にも、激浪に次ぐ激浪が襲いかかってきたことは想像にあまりある。それらに耐えぬき愚痴や恨みに足をすくわれぬことを掟としてきた者のみのもつ満足の晩年――。文豪の筆は、さすがに見事である。
6  なにも風波がないのが幸福だろうか?
 幸福をしみじみと実感するということは、ちょうど普段は太陽の有り難さがわからなくとも、長い間地下に潜ったりした果てに地上に出て太陽の偉大なる恩恵をしみじみと味わうのと共通するものがある。
 固定、安定してなにも風波がないのが幸福かというと、決してそうではない。波乱と苦悩に遭い、それらを夫婦で共に乗り越えたという喜びの共有が、二つの心を固く結びつけるのである。
 新婚からあたかも「慣性の法則」に従ったようななんの変哲もない生活は、幸福のようであって、むしろ不幸である場合が多い。大事なことは、なにかの波乱に直面した時に、愚痴めいたり、互いに非難しあったりしないよう心がけることである。
 左右を向いていがみあったり、後ろを向いて愚痴をこぼすのではなく、苦境のなかにあって常に前を向き、自分には何をすることができるか、をまず考えていくことが賢明な生き方であろう。
 社会のさまざまな悲劇や家庭の亀裂、親子の断絶――それは、じつは自分の心の中の亀裂から生じてくることを忘れてはならない。
 また、私は人生にはすがすがしい笑いがなくてはならないと思っている。さわやかな笑いは、まさしく“家庭の太陽”である。また人の喜びを心から喜んであげられるゆとりがほしい。そうした生き方のなかに一日一日すがすがしいなにものかが残っていくものである。人間のウラばかりを見ていこうとする生き方は、しょせん、ぎすぎすした暗い陰鬱な世界を広げるばかりであり、自身の敗北につながっていく。
 人間は感情の動物である。常に心は動いている。その微妙なニュアンスのなかに人間の現実がある。したがって、身近なところの小さなことを無視してはならないと思う。ささやかななかにも真心ある心づかいが、自分を取り巻く世界を一変させるのである。
 たとえば疲れきって帰ってくる夫にとって最大の喜びは、なんともいえぬ心の憩いである。この憩いの場を提供してあげられる妻の賢明さが大切であると思う。また子供にとって大切なのは、親の姿が鏡のごとくそのまま映しだされるということである。わが子をわが子と思わず、社会の子と思って、むしろ一個の尊い社会人を育てているのだという自覚に立つべきではなかろうか。
 そのためにも、相手のできるだけ良い点を見いだす努力をしてあげることである。人間というのは、いったんこうと決めると、それが手カセ、足カセとなって一方的な思考におちいってしまい、そこからなかなか抜けられないものである。いわゆる“きめつけ”である。決定的破綻というものは、意外とこの“きめつけ”から始まる場合が多い。これを克服するためには、常に自分の側から相手を見るのではなく、相手側から自分を客観視してみることを習慣化していく努力とゆとりと幅の広さとが必要なのではないだろうか。
 結局、大事なことは、常に自分を内なる我執と嫉妬と憎悪と戦う方向にもっていくよう努力する以外にない。それは同時に、どんな人間にも長所と短所があることをわきまえることになるからである。
7  生命の充実感のみが幸、不幸の尺度
 最後に、私の恩師戸田城聖先生が昭和十三年にある親戚の方に送られた手紙の一節を紹介させていただきたい。
 それは「人生は不幸なものではない。居る所、住む所、食う物、きる物に関係なく人生を楽しむことが出来る。人生の法則を知るならば、人生は幸福なのだ。何事も感情的であるな。何事も畏れるな。何事も理性的、理智的であれ。そして、大きな純愛を土台とした感情に生きなくてはならぬ」というものである。
 恩師が三十八歳の時、まだ戦前の時代の書簡である。すでに牧口常三郎初代会長とともに信仰の道に入っていた戸田先生は「人生は不幸なものではない」との揺るぎない確信をもたれていた。この不抜の信念は、戦時中、軍部政府に弾圧されて二年間の獄中生活をくぐりぬけた時も、なお変わることはなかったのである。それは、なによりも「人生の法則」を胸中の奥深くに据えていたことによる。この法則とは、言うまでもなく仏法への信仰である。しかし、信仰のいかんにかかわらず、ここには人生のうえでの重要な示唆があると思えてならない。 「居る所、住む所、食う物、きる物に関係なく人生を楽しむことが出来る」──現代の人びとのなかには、衣食住を中心とする物質的な幸福や瞬間的な享楽を追い求めている傾向が強い。しかし、恩師にとっては、それらは外的条件にすぎなかったといってよい。ただ、生命の充実感のみが幸、不幸の尺度であることを、恩師は深い信仰のうえから達観されていたのである。
 私は、人生の極意とは、このあたりにあるのだと信じている。どんな外界の風波にも動揺することなく、人間を愛し、人生を愛し、いかなる苦境にあっても天空に向かって信念の叫びをやめなかった恩師の偉大な「純愛」の生涯は、混迷の世相に生きぬこうとする人びとにとって、根本的な指標になるとさえ、私は思っている。
 今後ともに風波の高まりゆくであろう日本の社会を生きゆく主婦の皆さん方が、勇気をもち、聡明なる英知をフル回転させつつ、盤石な人生、幸せな家庭を築かれることを心から祈りたい。

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