Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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平凡に生き抜くことのなかにある非凡さ  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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4  日常のなかに見いだす信念が生き方の美しさを決める
 私の書架に、新田次郎の『芙蓉の人』(文藝春秋)がある。富士山山頂で、高度気象観測に成功し、日本気象観測史に名前を刻んだ野中到氏の夫人のことが描かれている。当時、まだ東京の高台からは、富士山がくっきりと見えていた。富士は澄みきった青空に、白い芙蓉の花を冠したように白雪をいだいて、屹立していた。
 その時には、まだ自分が、その富士の山頂で雪との格闘を味わわなければならないとは、夢にも思っていなかった。女の美徳は耐えること、夫がいかなる道に進もうと、柔順に従うことこそが、女性の道であると信じる明治、大正の典型的な女性であった。
 だが、夫人の胸の内には、夫婦とはいったい何か、女性の真の生き方は、という問いが常に去来していった。それはときには耐えがたい悲しみでさえあった。
 厳冬期の気象観測に生命を燃やし、情熱をかける夫の前に、夫人の心は、子供を育て、家庭を守ることのみで、癒やされるものではなかった。夫人は長女を祖母に預け、富士登頂を決行するにいたる。夏ならいさしらず、極寒の冬である。
 長期間の山頂滞在で二人は重症の高山病に罹っていた。救出された二人の下山を待っていたのは、長女の死であった。
 私は芙蓉の人の生き方の是非を、ここで論ずるつもりは毛頭ない。『人形の家』のノラの日本版のような解釈もしたくない。ただ、芙蓉の人の心情が惻々と伝わってくることだけは確かだ。
 彼女は自分の賭けるものを発見したのかもしれない。信念に対する生き方というものが、じつに小気味よいほどに溢れている。初々しい清冽な情熱を秘めた、生きるということへの、純粋な気持ちが、伝わってくるようである。
 夫への愛の証と人は言うかもしれない。しかし、私は、彼女が夫の観測の仕事をとおして知った、一つの信念に徹するという憧れに賭けたのではないかと思えてならないのだ。彼女の生き方の美しさが、読者に、静かに深く、語りかけるのは、そのあたりに秘密があるとみる。ちょうど、華岡青洲とともにその妻が、医学に賭けていたように。
 一人の女性の生き方を、その内包する生命でとらえるとき、不思議なほどの輝きが増すものである。人は献身を讃え、愛を誇張するかもしれないが、私は女性ならではの、人間らしさの表れだと思っている。
 私は全女性がいつまでも若々しく、瑞々しい純粋な人間の生き方を、身近な生活のなかに、見いだしてもらいたいと切望している。
 人生には坂あり、谷あり、波浪ありである。そこから敗北の裏街道へと進む人もある。また、それらを真っ向から乗り越えて燦々たる太陽を浴びて内実の美しさを湛える人もいる。それは足元にある日常生活のなかに、慧眼と聡明さをもって、人生の究極を見つめ、生涯を何かに賭けるという自分らしき信念があるかどうかにかかっていると、私は考えたいのだ。

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