Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

世代の温かな交流を通して知恵の体得を  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
2  ある文豪は、結婚にゴールインした当初の新鮮さと、ある種のとまどいとを、「湖上をすべる小舟の滑らかな、幸福な進み方に見惚れていた人が、その後、自分でその小舟に乗って感ずるような、そんな気持ち」と述べている。私は、非常に巧みな譬えであると思う。
 結婚前は、誰しも幸福な家庭を築こうとの夢をもっている。しかしそれは、湖上を滑らかにすべる小舟を眺めているようなものである。いざ小舟に乗ってこぎだしてみると、オールの使い方ひとつとってみても、相当の熟練を要する。しかも湖面は、いつも鏡のように、とはいかない。風あり、雨あり、嵐ありである。舟行の場合ならば、困難な危険を感じたら引き返してしまえばよいのだが、実際の人生では、そうはいかない。離婚はお互いを傷つける。
 正月早々縁起でもない、と言われるかもしれない。しかし、事実、最近の離婚率の増加は、統計的にも明らかにされている。加えて、その約半数が結婚五年未満の若いカップルであるという点が、私にはいささか気になる。
 もとより、人さまざまな理由のあることであろう。私は、全面的にそれを否定しようとするのではない。ただ、近ごろの離婚の原因で目立つ“性格の不一致”などという項目を目にすると、どうしても危惧の念が先に立ってしまう。いったい、どれだけ真剣に、二人で家庭の建設に取り組んだのだろうかと──。
3  二人だけの世界に閉じこもることの危険
 昨年の秋、ある雑誌で、ぽっくり寺が非常に繁盛しているという記事を読んだことがある。断るまでもなく、ぽっくり寺とは、老後を人に厄介をかけずに、ある日“ぽっくり”と、安楽に死にたいという願をかける寺のことである。
 その記事は、奈良県斑鳩にある全国的に有名な寺に例をとっていたが、それによると、ぽっくり寺詣でをする人たちの層が最近、急激に変わってきているという。以前はかなりの年配のお年寄りが多かった。ところが最近は、もっと若い層、それも四十代、五十代の中年の婦人が多い。数の増加ぶりも相当なもので、数年前までは、バスによる参拝者は年にせいぜい四、五回だったが、今は、一日に十台近くがやってくることもあるという。
 さらに問題なのは、その理由である。もう老い先の短いお年寄りたちは、たとえば「大事にしてくれる嫁にこれ以上世話をかけたくない」などと心中を語るのが常であった。それが今では「誰の世話にもなりたくない」と話す中年の女性が増えているというのである。
 私はこの話を読んで、いささか暗然としてしまった。四十代、五十代といえば、女性の本当の地についた生き方が花開く時期のはずである。十代、二十代が、“若さ”という、それだけで十分魅力のある年代であるとすれば、それは、いわば人格の深さと美しさの開花する年代である。
 その人たちの心が「誰の世話にもなりたくない」という、暗く、寂しい響きに覆われているとすれば、じつに痛ましいことである。
 私ども夫婦も同じ世代だからよくわかるのだが、今、四十代、五十代を迎えている人は、青春の一時期に敗戦という暗いニュースを聞いた。そして戦後の、価値観が一挙に逆転し、なにもないなかで必死になって生きてきた人たちである。進んでは高度成長社会の担い手でもあった。女性の陰の支えも大変な労苦であったはずである。その結果、なぜか、そうした暗い後半生を余儀なくされているのである。いわゆるニュー・ファミリーの世代の大多数は、この年代の父母のもとに育てられてきたのであろう。私はそこに、親子の断絶ということが、想像以上に深い亀裂を生じていることを感ぜざるをえない。 「大事にしてくれる嫁にこれ以上世話をかけたくない」「誰の世話にもなりたくない」──。この二つの言葉の落差は甚だ大きい。前者には、そこにどんな悲劇的な事情が潜んでいようとも、そこには人間的な息づきと哀歓、情感がある。後者にはそれがない。断絶という語も及ばぬほどの非人間的な孤独感と寂寥感、死へのいざないさえ聞こえてくるようだ。どうしてこのような暗転がもたらされたのかを、私は、ニュー・ファミリーの世代の人びとに真剣に考えていただきたいと思う。
 もとよりこうした症状は、社会のすべてではなかろう。またその責任を、若い世代にのみ押しつけるのも酷である。医学の発展にともなう寿命の延びということも一因であろう。それに、なによりも現代社会を侵している混迷、沈滞のムードである。そうした社会をつくりあげてしまったのが、ほかならぬ大人たちであることも事実かもしれない。
 しかし私は、なにごとにつけても、これからだと思っている。俚諺に「闇が深ければ深いほど暁は近い」とあるように、どんなに社会に暗雲がたれこめていようとも、そのはるか上空には、必ず太陽の陽光が、赫々と輝いているものだ。
 要はわれわれがそれを信じ、暗雲を払うために、どう忍耐と努力の挑戦をしていくかにかかっているといえまいか。それを率先してなしゆく者こそ青年、なかでもこれから社会の中堅層に進出してゆくニュー・ファミリーの世代の人たちにほかならない。そこには、私の世代とは異質な、明るさ、屈託なさの一面があり、私はそこに大きな期待を寄せてもいる。ゆえに自然、注文も多くなってくるのである。
 挑戦といっても、なにも戦時中の“滅私奉公”や、戦後の“モーレツ社員”的な生き方を推奨しているのではない。家庭という次元にかぎっていえば、それが常に開かれた家庭であってほしいということである。
 人間は、一人で生きることはできない。横にみれば社会や自然、大宇宙と交流しながら生きている。人体の血液の循環ひとつ取り上げてみても、潮の干満と密接に繋りあっていることは、よく知られている。また縦にこれをみれば、われわれの生活は、歴史や伝統に深く棹さしながら営まれている。もしそこから切断されたならば、砂をかむような味けなさが残るだけである。そうした縦横二つの大きな流れが相交錯し、絶妙なバランスを保つところに、日々の充実もあるといえるであろう。
 私が、若いカップルを眺めながら、つねづね感じているのは、その流れを切断してしまう危険性はないかということである。言葉遣いからして、友だち同士のようにフランクなさまを見ていると、ほほえましさを感ずるのだが、半面、二人だけの世界に閉じこもっていはしまいか、という危惧である。
 やや苦言めいてしまったが、ぽっくり寺詣でをする婦人たちの背後に、閉ざされた若者たち二人の世界から排斥され、どうしても入り込んでいけぬ疎外感が、長く尾を引いていなければ幸いである。
4  世代の交流を通して伝統や人間同士の繋りを
 私の手元に、一通の手紙がある。北海道に住む一婦人からのものである。私は昨年、恩師が若いころを過ごされた思い出の地である北海道の厚田村を訪れ、数々の思い出を刻むことができた。その時、その一婦人と邂逅し、しばし雑談を交わしたのだが、当時の印象と、その後の近況を伝えてきたものである。
 なかに、こんなことが述べられていた。主婦の身ともなれば、冬に備えてジャガイモや玉ネギ、人参を陽にあてて“むろ”にしまったり、数々の漬け物を作ったり忙しい時期である。彼女の住んでいる地域でも、年配の婦人が、若い主婦たちに、漬け物の漬け方や“冬がこい”を教えたり、なかなかの活躍だそうだ。その返礼でもあるまいが、逆にヤング・ミセスたちは、年配者がともすれば敬遠しがちな、新しい知識や情報の類を、伝達するのだそうである。
 私は読みすすむうちに、老婦人がタスキ掛けなどして、かくしゃくと指揮している姿が目に浮かんだりして、頬のゆるむのを抑えることができなかった。
 私はこの話には、非常に大切な教訓が含まれていると思う。それは、庶民の大地に深く根ざしている伝統や習慣のなかには、書物による知識などではどうしても伝えることのできない、なにものかがあるということである。それを学ぶには、じかに接触しつつ、あたかも温かい体温が伝わるかのようにして学ぶしかないのである。世代の交流のなかで生きてのみ知ることのできる知恵といってよい。
 私は極論すれば、知識にしてもそうだと思う。マスプロ教育の弊害が指摘されて久しいが、その最大の欠陥は、体温のないことであろう。昔の寺子屋教育などによくみられた、教師の経験と人格をとおして伝わってくる、あの体温である。“手作り”の感触である。知識といっても、その温かさによってのみ肉化され、生きるうえでの知恵となって昇華されてくるにちがいない。
 もちろん一婦人の手紙には、そこまで記されてはいないが、私は彼女が、皺も多く、おそらくかさかさしていたであろう老婦人の手から、かけがえのない人生の知恵を、肌で学んでいるものと信じている。
 時代が変われば、それにともなって夫婦のあり方が変わるのは当然である。しかし、絶対に変わってはならないものもあるはずだ。私はその最たるものこそ、夫と妻、親と子という、人間同士を結ぶ、目に見えない家庭の“紐帯”だと考える。この紐帯は、社会との間にプッツリと切れているのではない。さらに個と家庭と社会とを結ぶ横糸と、歴史の伝統という縦糸とに繋っているのである。
 二人だけの、向き合った人間関係というものは、どうしてもこのような生きた伝統や人間同士の繋りから、自分たちの世界を切り離してしまいがちである。一時的には“優雅”で、人間関係の煩わしさから逃れることのできる気楽さもあるかもしれない。しかし、そうした一時の安穏は、決して長つづきするものではない。
 親子の問題にしても、親の干渉からいくら逃れたところで、子供が生まれ成長してくれば今度は自分の問題である。紐帯を強め、広げていこうとする努力のないところでは、ちょっとしたつまずきが、徐々に心の中に重苦しい沈澱物を残しつづけ、いつかは取り返しのつかぬ重大な亀裂を生じてしまう場合が多い。 夫婦の亀裂、親子の亀裂──。私は、離婚率の増加や、ぽっくり寺の繁盛という現象が、これと無関係とは思えない。生命の奥深いところでの紐帯。それが切れはじめたところに“家庭の崩壊”という、現代日本の社会が抱えている大問題が象徴されているように、思えてならないのである。
 だからといって私は、親と子が一緒に住むべきだなどと、短絡的に申し上げているのではない。住宅事情などもからみ、個々の事情は千差万別である。私が苦言めいたことを口にするのは、人間が生きていく社会全般にあって風波はつきものだからである。社会というものは、古い世代と新しい世代、古い生き方と新しい生き方、伝統と革新、権利と義務、自己主張と自己放棄等が出合い、交錯し、一つのバランスと秩序を形成している。風波は必然である。それは避けて避けとおせるものでは、決してないのである。
 もし、万事に避けようとする安易な姿勢で臨んだならば、二人の乗った舟は、小さな波を受けただけで、たちまち転覆してしまう。
 若さはみるみる色あせ、希望を失い、愚痴と不満の泥沼のなかで、惨めな敗残の姿をさらしていってしまうにちがいない。私は、とくに若い人たちは断じてそうあってほしくないと、常に念じている。
5  真の幸福は身近な生活のなかにある
 そのためにも私は、幸福というものは、華美や虚飾の世界にはないということを、申し上げておきたい。そこには、キラキラしたジュラルミンのような冷たさはあっても、愛情や、体温のぬくもりはない。
 私は、若いころに読んだプーシキンの傑作、『オネーギン』を思い出す。ご存じのようにこの小説は、貴族社会の華やかさの裏に隠された倦怠、知的空虚さを鋭くえぐりだしたものである。主人公オネーギンは、その申し子のような青年。彼は、退屈をまぎらすために遊楽三昧の生活を送っている。そうした彼に田舎娘タチヤーナの心は、一気に魅せられてしまう。激しく燃えあがる恋心──。しかしオネーギンにとって、純な乙女心なども、一時のなぐさみものでしかない。表面では兄のように、自分は彼女に値しないとさとすものの、その言葉の裏には冷酷さがにじみでている。タチヤーナの愛は実らず、オネーギンは去る。失意の彼女は不本意な結婚をする。
 ストーリーの紹介は別にして、のちにいまだ独り身の主人公オネーギンが、社交界の女王のごとく振る舞うタチヤーナに会う場面がある。タチヤーナ、今、N公爵夫人は、愛の復元を迫るオネーギンに涙を流しつつ語る。
 「私にとってはこんな花やかさも、いまわしい上流社会の虚飾も、社交界の渦のなかでの成功も、流行の邸宅も夜会も、何の値打ちがありましょう? 私は今すぐにでも、こんな仮装舞踏会のような衣裳や、こんな輝きや騒々しさや息苦しさを、一と棚の書物と、あれはてた庭と、貧弱なあの住居と、はじめて私が、オネーギン様、あなたにお目にかかったあの場所と、今では十字架と木の枝が可哀そうな私の乳母を見おろしているあのつつましいお墓と、喜んで取り変えたいと思います。……仕合せは目の前にありましたのに、手を伸ばせば届くほど近くに……」(池田健太郎訳、岩波文庫)
 私は、この最後の一句が忘れられない。そのとおりだと思う。真の幸福はどこか他の世界にあるのではなく、身近にある。当面する困難を避けて、夢を追うような幻の人生であってはなるまい。一日一日を着実に、地道に生きぬいていくところに、幸福の実像は必ず輝くはずである。そのためにも、夫婦で互いに助け合い、足もとを固めていくことが喜びとなるようになってほしい。
 ニュー・ファミリー誕生の席へ、私もしばしば招待を受けることがある。忙しくて時間がとれず、ほとんど電報などで勘弁してもらっているのだが、時々、揮毫等をしてささやかな贈り物としている場合もある。そのさい、若いカップルの将来を念じつつ“二人桜”とよく記すことにしている。小さな桜の苗も自らを伸ばし花を咲かせる。そのように、マイホームの小さな殻に閉じこもることなく、家庭という社会の最小単位を足場に、二人で力を合わせて困難を乗り越え、桜花の爛漫と咲きほこるような、勝利の人生を歩んでほしいとの、心からの思いを込めたものである。
6  生命から湧き出る知恵で子供を育てぬく自信を
 時が経ち、ニュー・ファミリーの最大の関心事は「教育」となるであろう。
 現代の若い母親たちは、子供の教育に自信を失っているといわれている。必ずしもそうとばかりはいえまいが、それが一方では「過保護教育」となり、他方「母性喪失」という現象を生み出す一因であることも事実である。多発する幼児殺し事件が生んだ“赤ちゃん受難時代”などという言葉が口にされる現状を見るとき、“母”というものを原点に立ち返って考え直す必要を痛感する。 私が訴えたいことは、日本の若い母親たちに、自分が生きぬいてきた人生のなかでつかんだ知恵、──それが素朴と言われてもいい、いちずと言われてもいい、とにかく自分の全生命から湧き出る知恵で子供を育てぬく自信と勇気を取り戻してほしいということである。
 ここに私の知るN婦人の体験がある。看護婦だった彼女はある医師と結ばれた。悲劇はその直後おとずれる。眼底出血で失明。生まれたばかりの男の子を抱えての離婚となった。それこそ文字どおりの闇の人生の始まりといってよい。
 そのなかで彼女は信仰を求めた。三年後、わずかに回復した視力で懸命な人生への挑戦が開始された。看護婦として生計を立てる彼女は、わが子を預けるところもなく、レントゲン室に寝かせては仕事をしたこともあるという。
 貧しく苦しい生活は十数年つづいた。子供に好きなオモチャを買い与えてやれないつらさ、立派な勉強部屋も与えてやれない悲しみ──子供に心でわびながらも、ときに厳しく、ときにやさしく生命からふりしぼる愛を注ぎながらわが子を成人させたのである。
 その子が、やがて難関の司法試験をパスし、法曹界へ巣立つと聞いたとき、私はN婦人の勝利の凱歌を聞く思いがした。加えて私を感動させたのは、その子供が綴った「母に捧ぐ」と題する一詩であった。公開することなど意識にもなく書き綴ったものだから文の巧拙はともかく、そこから匂いたつような心情が胸を打つ。ご家族の了承を得て、その一部を引用してみたい。
 「お母さん あなたはなんてやさしい人なんでしょう お母さん あなたはなんと厳しい人なんでしょう(中略)行き詰ったときには負けてはだめよと励ましてくれ やりとげたときには涙を流して喜んでくれたお母さん 時にはケンカをした事もあった あんなヤツの顔も見たくない! と思ったこともあった でも僕にとってはかけがえのないただ一人のお母さん でも僕にはやることがあります いつか巣立たなければならない時も来るでしょう その時はニッコリと笑って見送って下さい 僕はどこへ行ってもあなたのことを常に考えていると信じて下さい そしていつかは二人で 一緒に世界を歩きましょう その時まで どうか長生きして下さい 百歳までも生きて下さい そのことを願いつつ 今は耐えて耐えてがんばります 見ていて下さい お母さん」
 母は子に何も買い与えられなかったかもしれない。しかし子は母から多くのものを学んだ。必死に生きることがどんなに尊いものかを子は知ったのではなかろうか。
 たしかにN婦人は、ニュー・ファミリーを構成する人たちより、一世代前の母親像かもしれない。しかしそこには、世代を超えて訴えてくるなにものかがある。私は、現在の若い人たちも、これからの長い人生を風雪に耐え、幾重もの年輪を刻みつつ、自ら振り返って「がんばった」と満足できるような悔いなき人生を送っていかれるよう、望んでやまない。

1
2