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日蓮大聖人・池田大作

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子供は母の背に学ぶ  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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6  ヒューマニズムに根ざした母性愛こそ真の母性愛
 本来、母には善い母と悪い母などといった区別はない。どの母も慈愛の腕をもち、勇気のふところを有していよう。大切なことは母の境涯の広さである。自分の子供に注ぐ愛と同じ眼で、他者の子供を見られる母親が増えたとき、世界はどれほど平和になることか。その意味で、インドで古来から出産の女神とされている鬼子母神の逸話は、示唆に富んでいるように思う。
 日本でも鬼子母神の風習は受け継がれているようだが、もともとこの鬼子母神の性質は凶暴で、人の子供を取っては食うのを常としていた。彼女には五百人の子がいたとされている。
 釈尊は他人の子供を次々と食べる鬼子母神をさとすために一計を案じ、末子の賓伽羅を隠した。彼女は半狂乱になってわが子をさがし、困り果てたすえに釈尊をたずねる。
 「鬼子母神よ、あなたは五百人の子供のうち、たった一人の子供がいなくなっても、そのように嘆き悲しんでいるではないか。そんな親の心を知るあなたが、どうして他人の子供を次々とさらうのか。わずか二人か三人しかいない子供を連れ去られた親の悲しみは、もっと大きいはずだ」──この釈尊の話に鬼子母神は悔い改めるという話である。
 仏法とは、このように人間の生き方を教えるものだが、わが子しか可愛がらない母でも、わが子への愛をひろく普遍させることによって、盲目的な愛から脱皮できるのである。現代には鬼子母神的生命の母親をみかけるが、狭量な愛情は子供にとって決してプラスにはならない。
 わが子の自慢話に興ずる母親は、私の最も嫌いなタイプの母親像である。これを否定したのが鬼子母神の逸話である。
 願わくは、海より深いといわれる母性愛がそうした盲愛のみで終わってほしくない。人間をあまねく平等に愛するヒューマニズムが根っこにある母性愛こそ、真の母性愛といえるのではなかろうか。その広大な慈悲の心があってこそ、子供は親の感化をうけて立派に成長するし、親も子を育てていくなかに自らも成長し、人生の生きる道を獲得することができると思われる。
 ある著名な女子大学の創立者は、女子教育の目標として①人間として②女性として③母性として、立派な人間を育成することを掲げている。
 ここで第一番に「人間として」という目標があげられている点に、私は注目したい。女性や母親である以前に、まず人間として立派に成長することは、人間の一生における生涯の指標であるはずだ。
 もちろん、女性として、母親として生きるのとまったく違ったところに、人間として生きる道があるわけではなく、人生すべてを貫く根底的なものとして「人間として生きる」ということがある。たとえ子供を独立させたり、夫と死別するようなことがあろうと、「人間」としての生き方が確立していれば、不幸に泣くことはあるまい。
 ともあれ、夫のため、子供のため、近隣のために、自分らしく、誠実に精いっぱいの努力をして生きてきた女性の一生は、平凡であっても尊く美しい。自らの育てあげた子供たちが、社会に羽ばたき、社会に貢献する人生を送っているという事実は、母にとって、これにまさる幸福はあるまい。
 私の母はもうこの世にはいない。だが、風雪に身をさらしながら子供を健康に育てあげ、社会に送り出した。この平凡な母の一生は、やはり勝利の人生といえるのではないかと、心ひそかに思っている。

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