Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命は限りなく躍動する  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
2  不変不滅の幸せ
 こうしてみると、少なくとも、人間誰しもが思い描く幸せとは、ともかく、自分の願いとか欲求とかが満たされたときに感ずる喜びであることは確かであっても、そこには、いろんな要素がからんで、一様には決められないことがわかる。
 欲望を容器にたとえられるとすれば、幸せとは満杯状態をいうことはわかっていても、その入れ物は、コップのように小さい場合もあれば、湖のように大きいかもしれない。そこには無数のケースがあって、そのいずれの場合にも、満たされないことが不幸であって、満たされていることが幸せなのである。
 だが、人間は、そうした“容器の大きさ”も、比較する知恵をもっているから、たとえ満杯であっても、それが他人と比べて小さいことがわかると、やはり、そこに不幸せを感ぜずにいられないであろう。
 こうした“幸せ”というものの、概念のあいまいさばかりでなく、実際に、人間が味わう“幸せ”のはかなさから、とくに若い人びとの間には、幸せということについての、一種のシラケたムードが広がっているようである。
 それだけに“幸せ”という問題について、いくら論じたところで、それ自体、ナンセンスだという議論も出てこよう。だいたい、概念としてとらえることがむずかしいうえに、かりに、明確に概念規定ができたとしても、幸せそのものの移ろいやすさとアイマイさにはなんの変わりもない。したがって、こういう議論は無意味だという反論にも、一理がある。
 だが、それにもかかわらず、あえて私がここに“幸せ”という問題を論ずるのは、そうした“幸せ”の空しさを知りつくしたうえで、そのシラケを越えて、崩れず、消えず、変質することもない真の幸福の把握へと迫った仏法の英知を、いささかなりともお伝えしたいからにほかならない。
 べつに私が威張っていう筋合いはまったくないわけだが、今、よく見かけるシラケ・ムードなど、なにも現代人の、いわゆるナウな生き方でも、なんでもない。仏教では、三千年近く前から、人間の求める俗な幸せというものが、いかに実体性のない、空しいものであるかを徹底的に追究していたのである。
 いわゆる“縁起”の思想がそれで、これは万象にあてはまる考え方であるが、すべてこの世に存在するものは、固定的な実体性をもったものは何もないのであって、一切が関係性の事象によって成り立っているにすぎないというのである。
 これは、奇しくも、物質をエネルギーが場においてとる一つの形態としてとらえる現代物理学の発想とも一致する。だが、それはともかく、幸福とは、自分の心の中にある欲求とそれを満たす物質的、環境的条件があって、その両者の合致によって生ずる満足感がもたらすものといえる。その意味で、たしかに幸せとは“縁起”観によってとらえられるものであって、固定できるような、実体性をもつものではない。
 しかも、そのように、確かさのないのが幸せであるとすれば、それに執着し、追い求めることは、愚かという以外にない。ひとたびは目的を達して、幸せを味わったとしても、必ず、束の間に消えるのであり、消えてしまったあとの空しい思いは、幸せのあとだけに、一層の苦しみを与えることとなる。
 ここから、そうした世俗の幸せには背を向け、ただ苦しみと悩みをなくすために、そのような苦悩を生ずるもとである欲望を捨てようとしたのが、いわゆる小乗仏教の修行だった。
 この行き方は、現実に存在するものや、自分の心のうちに起こってくる欲望や情念といったものにとらわれないという意味で、まさに、今日のシラケた生き方と、軌を一にしているといってよい。
 しかし、仏教は、このシラケ主義を究極の道と説いて終わったのではない。じつは、これは、出発点にすぎないのだ。一切が、はかなく、空しいことは、今さら言うまでもない、当然わかっていることとして、他のいかなる思想よりも徹底した立場をとりながら、なおかつ仏教は、不変不滅の幸せをめざして人びとに教えを説いていったのである。それは、仏教が初めて明かしたというより、人間社会に普遍的に見受けられる事象を、明確に摘出してみせたということでもある。
3  かけがえのない宝
 私のよく知っている人に、こんな夫婦がいた。
 四畳半一間の部屋を借りて住んでいたが、冬には羽織るコートとてなく、着のみ着のままの生活であった。食事は、みそ汁とご飯だけの貧しいものだったため、妻の頬もやつれていた。生まれたばかりの赤ん坊がいて、部屋の中は、おしめが所狭しとつりさげられていた。その子を、安い保育所へ預けて、妻は勤めに出かけ、夫は、作業服を着て、しかし学生として福岡大学へ通っていた。そして彼は、夜は睡眠時間をさいて夜警のアルバイトまでしていた。
 家から保育所、保育所から大学へ、合わせて八キロの道を、その夫は、歩き、ときには走って、毎日通った。節約したわずかなバス代が、赤ちゃんのミルク代となった。彼の年齢は、すでに三十三歳であった。腹をすかして泣く赤ん坊をあやすため、一晩中を、外で過ごすこともあった。彼自身、また、その妻も、栄養失調気味であった。そして彼の、たった一着の背広は、ことあるたびに質に入れられ、ほとんど手を通すこともなかった。
 このような男の生活を、はたして、人は、幸福と呼ぶであろうか。また、その妻の姿に、幸せを感ずるであろうか。一般的にながめるならば、中年にさしかかった一人の男の生活としては、まことに寂しく、みじめなものとして目に映ずるであろう。
 彼が、三十歳を過ぎた身で、また養うべき妻と子のある身で、大学生活を送っていたのには、一つの理由があった。それは、家の貧しさゆえに、彼の弟が、大学卒業をひかえて自殺してしまったことによる。長男として、八人の弟妹たちにかけた希望を実現させるために、懸命に働いていた彼にとって、この事件は、あまりにも大きな痛手であり、彼自身に生きることの意味を、ふたたび問いなおさせるものであった。
 彼の新しい出発のかげに、一人の友人がいた。その友人の支えによって、彼は、教育者として立つことに、自身の使命を見いだした。弟のような悲しい人生を人に歩ませたくないとの、強い気持ちからであった。彼の戦いは、入学試験を受けるところから始まり、入学後も先に述べたような苦闘がつづいていたのである。
 その彼の決心を心から応援した妻は、グチ一つこぼさず、不安と苦しみに耐えながらも、手を取りあって乗り越えていった。もちろん、今では二人でめざした目標は、見事にかなえられている。
 私は、彼らの内面に一歩立ち入ったとき、そこに、輝くばかりの太陽に照らされた、春の花咲く広野を見る思いがする。夫妻が、この苦しい時代を見事に乗り越えられたのも、前途にかかげた希望と、二人の間に、なにものにも崩れない強い愛情と、理解と信頼とがあったがゆえであろう。人生にとって、それこそが、かけがえのない宝である。その宝を、胸にいだきつつ送った彼らの日々は、真実、充実した幸せなものではなかったろうか。
 この例の反対側にあるのは、物質的、社会的に、なにひとつ不自由のない生活をしながら、それゆえにこそ、向上の意欲も、未来に希望もなく、倦怠のうちに堕落を重ねていく、デカダンな人生であろう。
 してみると、この次元でいう幸せとは、たんになにかの願望や欲求が満たされたときの、環境依存的な、刹那の幸せではなく、生きるということ自体の充実感にあることがわかろう。それは、このように“生きる”ということが持続的であるかぎり、そこに味わう“幸せ”もまた、同じだけ持続的であるということができる。
 そして、さらに、これは環境的条件に依存するのではなく、むしろ逆に、環境的条件に対抗していくところにあるのであるから、それ自体、主体的なものである。つまり、この種の幸せに対して、決定的な因子となっているのは、自己の外にある世界や物質的条件ではなく、自己の内にある希望であり、意志であり、愛である。
 この若い夫が、しようと思うなら正規の職業について、安定した生活を営むこともできたであろうに、大学に通い、アルバイトとして夜警までしたのは、一つには父親としての愛からであり、一つは、自身の未来にかかげた理想のためであった。
 今ある現実に甘んずるのでなく、また、自分一人の安穏を思うことにとどまるのでなく、人に対して心を開き、未来に対して心を向けたところに、この生命の緊張した充実感が生まれたのである。
4  確固たる自我があるか
 このように、主体的な生き方の設定によって生ずる緊張と充実──そこに初めて味わうことのできる幸せの道を、仏法は“四聖”という概念で表している。いわゆる声聞、縁覚、菩薩と、その究極の悟道の境地としての仏である。
 ただし、これをさらに厳密に分けると、声聞とは、学問や読書、あるいは、誰かの話によって、人生の真理の一分でも得ることによって味わう喜びと幸せである。縁覚とは、自ら現実の事象(自然界のそれであれ、人間社会のそれであれ)を機縁として、そこに一つの人生の真理を自ら悟ることによって得る幸せである。
 菩薩の道とは、自らの努力、苦労が、他の人の幸せのために貢献していることによって味わう、いわば無償の喜びである。先の例の父親を思うとき、さらには、教育によって社会の人びとのために貢献していこうという目的観は、この菩薩の精神に一脈通ずるものがあるといえよう。
 仏という境界は、非常に深遠なもので、そのすべてを言葉に言いつくせるものではない。ただ、そのごく一部をとっていえば、自己の生命の限りない躍動であり、そのこと自体によって味わう無限の喜びと幸せということになろうか。
 したがって、この喜び、幸せがあらわれるためには“自己の生命の限りない躍動”ということが、実感として覚知されなければならない。現実には、われわれ人間の生命は、さまざま人生の局面にあって、絶えず限界にぶつかり、挫折し、消沈を経験している。“限りない躍動”などと、言葉ではいえるが、実際に、そんなものがありうるのか、という反論も出てこよう。
 だが、ある、というのが仏教の教えである。それが、いかなるものであり、どのようにして知ることができるかは、仏法哲理と仏教教義の、専門的な論議になるので、ここでは触れない。ただ、自己の生命の確たる主体の樹立がそこにかかっており、先に述べた、声聞、縁覚、菩薩の持続的な幸せも、それがどれだけ持続されうるかは、この仏の境界を根本とするかどうかによって左右されることを、私としては言わずにいられない。
 なぜなら、すでに指摘したように、これらの“幸せ”が、欲求の充足という刹那の“幸せ”に比べて持続的であるのは、それが主体的に生きることにともなう充実感のせいである。この“生きる”主役は、言うまでもなく、自分の生命にほかならないが、その自分の生命としてとらえたものが、じつは頼りなく、はかないものだとなれば、しょせんは、すべて、束の間の夢にすぎなくなってしまう。
 ゆえに、まず、自分というものは、本当に、表面からみるとおりの、頼りなく、はかないものにすぎないのか、それとも、その奥に、永遠に崩れることも、変わることもない確固たる自我というものがあるのかという点を明確にし、もし、不変の実相があるとすれば、それをしっかり把握することから始めなければならない。
 人間の心の中には、さまざまな欲望や観念、衝動が渦巻いている。それらは、先天的にこの生命についてきたものもあれば、後天的に、人生の種々の体験を通じて、意識的、無意識的に形成されたものもある。ふだんは精神の深層部に沈んでいて、なんの作用も示さないが、なにかのことを機縁として、それが浮かび上がり、順調な人生の行路の前に、巨大な障害として立ちふさがることがある。
 松本清張氏の著作に『砂の器』という長編の推理小説がある。昭和四十九年の秋ごろに映画でも封切られたが、この小説の主人公である作曲家・和賀英良の半生は、傍目には幸せそうにみえながら、実際は、不幸であったという典型的な例といえよう。詳しく記憶しているわけではないが、粗筋は、ほぼ次のようである。
 和賀英良は少年のころ、ハンセン病の父親と流浪の行脚をつづけていた。どの町へ行っても石を投げつけられ追い払われるという不憫な親子連れであった。ところがある村で一人の親切な警官に会って引き取られ、父親は病院へ隔離されることになった。ところが、流浪の生活が身にしみついてしまったのであろうか、子供はまもなく警官の家を飛び出し、一人で、また流浪の旅を始めた。そして苦学を重ねながら音楽家としての階段を上りつめていった。資産家の後援会長の後押しで、いよいよ作曲家、指揮者としての華々しいデビューを飾ることになった。
 ところが、ここで彼の前に一人の人物が現れた。流浪の生活をしていたころに助けてくれた親切な警官である。このとき彼の心に去来したのは、自分の父が当時不治の病とされたハンセン病であることが、その警官の口から公になるのではないか、もし、そうなれば自分の音楽家としての将来に傷を残すことになるという思いであった。
 この思いに取りつかれた和賀英良は自分の恩人であり育ての親ともいうべき親切な警官を殺害するのである。この殺人の謎解きが『砂の器』のモチーフ(主題)だが、その点はさておき、和賀英良が、晴れの渡米をしようとする羽田空港に、和賀英良を捕らえるため警官がやってくる。小説はここで終わりとなる。
 さて、自分の作曲家としての才能が見事に開花し、それが多くの支持者、愛好家を得て、社会的にも認められるように成長を遂げた一人の人物が、なにゆえに恩人の警官を殺さなければならなかったのか。それは、自分の過去が明るみに出るという単純な理由からであった。
 客観的に考えるかぎり、少年期の放浪のこと、父親の病気のことが公になったとして、どうして現在の自分にマイナスになることがあろうか。むしろ、父親への愛、恩人への愛を持続していくことによって、本当はかえってその人間の真価というものが磨かれていくのである。だが、少年時代の暗い人生体験は彼の心の奥底に、抜きがたい強迫観念としてしみついていたのであろう。この本能的な恐怖から、和賀英良の心を支配していたのは、エゴイズムに凝りかたまった妄想である。そして、この妄想が彼をかりたて、彼を殺人という現実の不幸のなかに追い込んだのである。
 一見、誰がみても幸福そうに映る人間が、じつは、絶えず自らの地位保全のために強迫観念に取りつかれている実例は、世の中には数多い。その意味では『砂の器』のストーリーは小説のなかのフィクションにとどまらず、人間の弱さを描き出したものといえよう。
5  壁を破った大きな喜び
 この反対に、人間を挫折させる幾多の障害に、それこそ絶えまなく直面しながら、それらを見事に乗り越え、人間としての素晴らしい幸せを築きあげた例──これは私が実際に知っている例である──がある。
 それは、小児マヒで左足を完全に侵されながらも、逞しく生きてきた一人の女性の人生体験である。その人はこの大戦中に生まれ、三つの時に小児マヒにかかり、下半身がほとんど動かなくなってしまった。小学校に一年遅れて入学したころ、どうにか歩行が可能となったような状態であった。
 兄弟は六人で、家計は大変苦しく、父親の給料だけでは生計が立たず、母親も内職で手いっぱいだった。運動会や遠足の楽しい思い出も、体のハンディのゆえに、もつことができなかった。ただ小学校の修学旅行だけは、学校の先生が背負って連れていってくれた。
 彼女は、その後、無事高校を卒業すると、自ら職業安定所を通じて保育園の事務員の職をみつけてきた。しかし、その職場も、二カ月ほどで解雇された。理由は、事務の仕事ができても、使いはしりができないということにあった。自らを励ましつつ社会へ挑戦していった彼女にとって、これはどれほど大きな衝撃であったことだろうか。
 しかし彼女は、涙の底から立ち上がり、ふたたび人生に体当たりしていった。次に見つけたある会社で、彼女は五年半を勤めぬいた。この会社を退職したのは、ある貿易会社の課長である現在のご主人との結婚生活に入るためであった。
 彼女のこの半生を追ってみたときに、客観的な諸条件は、彼女の幸福な人生を保証していたとは、とてもいえない。──経済的にも、決して恵まれていたわけではない。特殊な才能をもっていたわけでもない。まして肉体的条件は、一人の人間を悲痛と暗澹の淵へ沈めるに十分なものであった。
 けれども彼女は生きぬいた。彼女には、常に明るさと、生きいきとした生命の躍動があった。「人生に、さまざまな障害があるのは当然である。苦しめば苦しむほど、その壁を破ったあとの喜びは大きい」と彼女は語るが、その言葉のなかに、厳しい条件にもなんらひるむことなく、生きぬいてきた人の、さわやかな汗を私は感ずる。
 その彼女の、精神の躍動の美しさは、彼女を知る多くの人の共感を呼び、さまざまな悩みをもつ人の支えとなった。また五年半勤めた職場を去るにあたっては、そこの誰もが彼女の退職を惜しんだという。
 もちろん、この半生、彼女が歩んだ日々が幸福であったとは、簡単に述べることはできないであろう。計り知れない悲しいこと、辛いこと、苦しいことがあったであろう。しかし、彼女の半生を、敗北のそれであったとみる人は誰もいまい。むしろ、私は、客観的には厳しすぎるほどの条件を、見事に乗り越える力をもっていた彼女は、その苦難あったがゆえに、より尊い自身をつくりあげていったと思うのである。まさしく彼女の言葉のごとく、苦しい壁を打ち破ったあとの大きな喜びを、彼女は、数多く味わってきたにちがいない。その意味からは、私は、彼女のなかに、真の人生の幸せをみるのである。
 こうして“幸せ”というものを、欲望や願いが満たされたときの、刹那的喜びでなく、生きること自体の充実感としてとらえるならば、それは、他人に対し、社会に対して要求すべきことではなく、まず、自己をみつめ、自分を変えることにこそ、鍵があることは明らかであろう。 そして、また、このようにして確立した自分のもっている力──才能や愛情──を、他の人びとの幸せのために、どのように役立てうるかという姿勢こそ大切である。
 自己の幸せを求めるということは、ある意味でいえば、本能的なものである。それを否定するつもりは毛頭ない。ただ、自己の幸せを求めて、常にまわりのものが自分に尽くしてくれることのみを要求する、その行き方が挫折の根源であるということである。
 それは、人間が物質的、肉体的満足だけによって幸せを得られる単純な生物でなく、高度に発達した精神機能を有していることによる。しかも、この精神機能の働きによって味わう幸せは、肉体的・物質的満足による幸せより、はるかに大きい比重を占めている。
 この精神的機能の面に得られる幸せとは、利己の生き方によるより、利他の生き方によって決定され、増幅されるのである。お説教じみたことを言うつもりはないが、そして、単純に“利他”だの“愛”だのといっても、そこにも挫折と行きづまりがあることは、すでに触れたとおりであるが、現代の社会にあって人間が人間らしさを取り戻す第一歩は、やはり、この点の再確認から踏み出さなければならないと、私は信じている。

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