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日蓮大聖人・池田大作

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私の青春時代/妻との出会い  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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5  青春の燃焼を生涯持続させて
 私の青春もまた、息吹にあふれていた、といっても、それは、厳しい冬のような、苦闘のなかにあった。いわば、寒風のなかを天空に舞いあがる凧に似ていたかもしれない。
 正月といえば、少年の日の凧揚げを思い出すのは毎年のことである。今はすっかり埋めたてられたが、大森の海岸で、日が暮れるまで寒風のなかを凧揚げに興じたものであった。一本の糸を操って凧を揚げるという、なんでもない遊びのようだが、凧と糸との微妙なあの反応には、人知れぬ楽しい妙味があった。
 現在、ある雑誌の企画で作家の井上靖さんと往復書簡を交わしているが、井上さんが凧揚げから、次のような感想を書いておられた。
 「今自分はもう凧を揚げるために、凍てついた広場にも、田園にも出掛けて行くことはない。揚げるべき凧も持っていない。しかし、何かを揚げなければならない、そんな思いがやって来る。凧に似たものを、高く揚がるものを、烈風の中に舞い、奔り、狂うものを、高く揚げなければならぬと思う」──。
 “生涯青春”について意見を交わした折の、井上さんの記述である。“何かを揚げなければならない”との思い──人生にこれが失われたならば、その人生はいかに無味乾燥なものとなるであろうか。少年の日にほおを赤らめて、冷たさに手をしびれさせながら、一心に凧を操ったあの一途さを失いたくない。揚げるべき凧、それは名誉とか地位とかをいうのではさらさらない。人生のかえがたい目標、自分らしく己の生涯を燃焼させきる仕事とでもいったらよいであろうか。少なくとも糸の切れた凧が、空をさまようようには、私はなりたくない。
 その意味からいえば、私は、私の苦闘の青春時代を感謝している。恩師の経営する事業が傾き、社員が次々と戸田社長のもとを去っていったころのことであった。ある日、先生と二人でタクシーを拾い、神田から皇居のお堀端にさしかかった。車窓から松の緑が鮮やかであった。珍しく雪が降る日で、雪の白さに、松の緑が浮きたって見えた。
 その時、私は当時の心境そのままに“松のように人の心も変わらないでもらいたい”という意味の句を詠んだ。私自身、連日の激しい仕事で、体重が五十キロを割るという最悪の状態にあった。一人去り、二人去りしていくなかで、苦闘はつづいていた。雪が降ろうと、雨の日であろうと、晴れの日であろうと、松は四季をとおしてみずみずしい緑を失わない。“マツ”という名も、霜雪を待って、なおその色を変えないということに由来しているという。その厳冬に耐えるところから、古来、竹、梅と並んで“歳寒三友”の一つに数えられている。
 いかに状況が厳しくなろうとも、人の心はうつろうとも、青春の燃焼を生涯持続させていける人でありたい。私のそんな願いが、今もなお胸中には息づいているのである。

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