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日蓮大聖人・池田大作

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私の青春時代/妻との出会い  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
2  互いに共通の目標を見つめて
 さて、私のことであるが、妻が結婚の対象者として、私の胸に意識されはじめたのは、昭和二十六年の夏ごろであったと思う。しかし、初めて会ったのは、それよりはるか数年前のことであった……。
 私は、戦時中、家の近くにあった東京・蒲田の新潟鉄工所で働いていた。油と汗にまみれた銃後の毎日であり、また、軍事教練に明けくれる日々でもあった。そんななかでも、時間を探して、読書をすることが唯一の楽しみであった。そしてまた、自分が読んだ本の感想などを、気心の合った友人と語りあうことが楽しかった。
 工場に中学生の勤労動員があり、荏原中学から大勢の中学生たちがきていたが、そのなかに白木という学生がいた。彼も私たちの読書グループの一員であった。やがて戦争も終わり、私たちはバラバラになった。それで互いに行方も知ることなく、数年が過ぎ去った。
 敗戦の焼け野原となった混乱の東京で、私はさまざまな思想的遍歴の末、私の終生の恩師となった戸田城聖創価学会第二代会長に巡り会い、信仰者としての道を歩みはじめた。そしてやがて、当時、西神田にあった創価学会の小さな本部で、戸田二代会長が自ら担当して行われていた法華経の講義にも通うようになった。狭い部屋での講義であったが、真剣に仏法を求める人びとで、会場はいつも埋めつくされていた。
 そんなある日、私は、ふと隣に座っている一人の青年の顔を見て、おやっと思った。あの青年ではないか。戦時中、新潟鉄工所で一緒に働き、ともに読書を楽しんだあの中学生の友人たちのなかの一人、白木君ではないかと思った。講義が終わり、私は挨拶をしようと思ったが、彼は気づかない。そのうちに私をどこかで見たことがあるようで、思い出せないでいるような妙な顔をした。その日はそのまま別れた。
 それから一週間が過ぎた。彼は、こんどは思い出した。まったくの偶然の再会であった。話は弾んだ。私は、彼の家が、戦前から創価学会員であることを知って驚いた。奇縁である。講義が終わり、一緒に神田から国電に乗り、いろいろと立ち話をつづけていると、彼はふと隣の吊り革をつかんでいるセーラー服の女子高校生をさし示して「妹です」と紹介した。私は「ああ、そうですか」と会釈して、そのまま話をつづけていった。
 この数年後、私は彼女と結婚することになったのであるが、前にも述べたように、その時は、まさかそのような運命が待っていようとは、夢にも思わなかったのである。なにしろ、私も若かったし、彼女は、まだ高校生であったのであるから……。ただ、感じのいいお嬢さんといった印象であった。
 数年の歳月が経て、私は恩師の戸田先生の会社で働き、また創価学会の一員として座談会や各種の会合に出るようになる。そんなとき、彼女と顔を合わせる機会があった。彼女は、高校を卒業して、銀座にある銀行に勤めるようになっていた。昭和二十六年、この年の五月三日には、戸田先生が第二代会長に就任し、創価学会も本格的な再建の緒につきはじめる。低迷をつづけていた事業のほうも軌道に乗りはじめていた。このような諸状況もあって、私自身も、結婚ということを考えるようになっていた。それまでは、正直いって、文字どおり生きるか死ぬかといった苦闘がつづく毎日であり、とても、結婚などといったことを考える余裕はなかったといってよい。
 七月のある日であった。私は、会合が行われることになっていた彼女の家へ駆けつけた。やや、時間が早かったこともあって、部屋には、彼女だけがいた。外は雨が降り、雷が鳴っていた。沈黙が支配する部屋で彼女と対座する私の胸の内にも“雷”が鳴ったのだろう。私は、近くにあったワラ半紙に、思わず詩を書いた。
3   吾が心 嵐に向かいつつ
  吾が心 高鳴りぬ
  嵐に高鳴るか 吾が心よ
  あらず 秘めやかに高鳴るを知りぬ
  ああ 吾が心
  汝の胸に 泉を見たり
  汝の胸に 花咲くを願いたり
  …………
4  彼女が、その半紙を広げようとしたとき、私は「あとで……」と押しとどめた。彼女は、ハンドバッグにしまってくれた。それから、手紙の交換が始まる。会合の帰り道など、多摩川の堤を二人で歩いた。川風にのって、赤トンボがゆっくりと飛び交う。矢口の渡しからは、渡し船が岸を離れ、清らかな水の流れを横切る。将来のことを語り合った。人生のことを話し合った。信仰ということを確かめあった。
 結婚とは、互いの目を見つめあうということではなく、互いに共通の目標を見つめて協力して歩むことだ、といわれているが、至言と思う。いかなる逆境になろうとも、互いに励ましあって、生きぬいていきたいと、語り合った。浮わついた心はなかったといってよい。戸田先生は、私たちの心を聞かれ、双方の親への了解をとってくださった。
 昭和二十七年五月三日、私たちは、中野の寺院で結婚式をあげた。列席者は五十人にも満たない簡素な式であった。私は二十四歳、妻は二十歳になったばかりであった。三十歳まで体がもたないのではと、私自身も周囲の人びとも危惧した時もあったが、どうやら今日まで人生を全うしえた。この結婚、そして家庭が、私自身を支える一つの柱だったことは、今になって確かだったということができる。
5  青春の燃焼を生涯持続させて
 私の青春もまた、息吹にあふれていた、といっても、それは、厳しい冬のような、苦闘のなかにあった。いわば、寒風のなかを天空に舞いあがる凧に似ていたかもしれない。
 正月といえば、少年の日の凧揚げを思い出すのは毎年のことである。今はすっかり埋めたてられたが、大森の海岸で、日が暮れるまで寒風のなかを凧揚げに興じたものであった。一本の糸を操って凧を揚げるという、なんでもない遊びのようだが、凧と糸との微妙なあの反応には、人知れぬ楽しい妙味があった。
 現在、ある雑誌の企画で作家の井上靖さんと往復書簡を交わしているが、井上さんが凧揚げから、次のような感想を書いておられた。
 「今自分はもう凧を揚げるために、凍てついた広場にも、田園にも出掛けて行くことはない。揚げるべき凧も持っていない。しかし、何かを揚げなければならない、そんな思いがやって来る。凧に似たものを、高く揚がるものを、烈風の中に舞い、奔り、狂うものを、高く揚げなければならぬと思う」──。
 “生涯青春”について意見を交わした折の、井上さんの記述である。“何かを揚げなければならない”との思い──人生にこれが失われたならば、その人生はいかに無味乾燥なものとなるであろうか。少年の日にほおを赤らめて、冷たさに手をしびれさせながら、一心に凧を操ったあの一途さを失いたくない。揚げるべき凧、それは名誉とか地位とかをいうのではさらさらない。人生のかえがたい目標、自分らしく己の生涯を燃焼させきる仕事とでもいったらよいであろうか。少なくとも糸の切れた凧が、空をさまようようには、私はなりたくない。
 その意味からいえば、私は、私の苦闘の青春時代を感謝している。恩師の経営する事業が傾き、社員が次々と戸田社長のもとを去っていったころのことであった。ある日、先生と二人でタクシーを拾い、神田から皇居のお堀端にさしかかった。車窓から松の緑が鮮やかであった。珍しく雪が降る日で、雪の白さに、松の緑が浮きたって見えた。
 その時、私は当時の心境そのままに“松のように人の心も変わらないでもらいたい”という意味の句を詠んだ。私自身、連日の激しい仕事で、体重が五十キロを割るという最悪の状態にあった。一人去り、二人去りしていくなかで、苦闘はつづいていた。雪が降ろうと、雨の日であろうと、晴れの日であろうと、松は四季をとおしてみずみずしい緑を失わない。“マツ”という名も、霜雪を待って、なおその色を変えないということに由来しているという。その厳冬に耐えるところから、古来、竹、梅と並んで“歳寒三友”の一つに数えられている。
 いかに状況が厳しくなろうとも、人の心はうつろうとも、青春の燃焼を生涯持続させていける人でありたい。私のそんな願いが、今もなお胸中には息づいているのである。

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