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日蓮大聖人・池田大作

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私が会った忘れ得ぬ女性  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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1  ペルーの土となって
 私も齢四十の半ばを過ぎて、これまでお目にかかった多くの女性の人びとを想うとき、忘れがたくまた懐かしい人が年々歳々、その数を増してきたことに気づく。私という一使命を果たすことに人生のすべてを賭けてきた人間にとって、想い浮かぶ忘れ得ぬ多くの女性のことを書いていったら、それこそ何巻もの書物になることだろう。
 年齢的にいっても幼児から少女、青春の乙女たち、ミセスから老女にいたるまであらゆる年齢層にわたっている。またその人たちの属する社会的分野にいたっては、一国を代表する要人から、学者、外交官、弁護士、教育者、芸能人、市井にあって地味な人生を見事に生きぬいて豊かな老境を迎えた数多くの平凡な主婦たちといったぐあいに、実にさまざまであるが、いずれも一人の女性として私の敬愛する人びとであることに変わりはない。
 また人種的にいっても、近年は欧米人から、南米やアフリカの原住民も多い。アジアでも中国をはじめ、ジャワ、ベトナム、マレーシア、ビルマ(編注・現ミャンマー)、インドとすべての人種にわたっている。私には人種差別はないのである。
 昭和四十九年は三度、国外に赴いた。帰国しても外国の人びとにお目にかかる機会が、昨今は多くなった。それで遠い国にいる懐かしい女性たちが、今ごろどうしているかと、ふと遙かに思いを馳せることもしばしばである。
2  昭和四十九年の三月、私はペルーを訪問した。日本人移住者がブラジルに次いで二番目に多い国である。首都・リマは緑の公園都市といってよいが、そのリマで私は一人の日本婦人、というより今はペルー人のキシモトさんという婦人に会った。彼女は日系二世でスペイン語、日本語ともに堪能である。
 五日間のリマ滞在で彼女とはずっと一緒だった。リマ市のご好意で名誉市民の称号をいただいたが、そのさいも同行してくれた。
 私のペルー訪問はNSPと同地のサンマルコス大学の招聘によるもので、NSP主催の文化祭等に招かれて出席した。
 私の妻も一緒だったが、妻が心から感心して「キシモトさんはペルーの幸せのために本当に苦労しているんですね」と言った。私も早くから気がついていたのだが、妻は私たちがリマを訪れて以来、キシモト夫人の質素な、清楚な服装が一度も変わっていないことを、私にひそかに話した。
 経済的に困窮しているわけではない。彼女は生活を控えめにして、ご主人ともども残ったお金をすべてペルーでの文化運動に投じているのであった。その不断の労苦が実ったのであろう。文化祭は大成功で、リマ市の全面的な後援をうけ、いくつかの社会団体から再演の要請があったほどである。
 パーティーや日本人会などの会合に同席するキシモトさんの姿は、嬉々として、なんのかげりもなかった。女性ならば服装を気にするのが常である。彼女はキチンとした身のこなしと生命の輝きで、美しく装っていた。「ペルーの土となって」と彼女が言う言葉を幾度となく聞いた。まったくそのとおりの人生で、私は感動して帰ったのである。
 海外での日本人の激しい経済活動がよく非難の対象となる。そのさい、必ず聞かれるのは日本人だけの閉鎖社会をつくっていることである。彼女にはそれがない。むしろペルーの人のほうに友だちが多く、インディオの人たちとも明日のペルーへと笑顔の交際をつづけているのであった。
 私はそんな姿に、視野を家庭から社会へと広げ、そこの社会とのかかわりにおいて自己を見つめ、自己の生き方を選択する美しい女性像をはっきり見た。彼女こそ私にとっては忘れ得ぬ女性の一人となったのである。
 女性の幸福をはかる尺度のように思われがちないわゆる生活の裕福さは、彼女にはないかもしれない。しかし平々凡々とみえる彼女の歩みのなかには、言うにいわれぬにじみでる心の豊かさ、温かさと気高さがたたえられていた。
 キシモトさんの逞しい二人の息子も、そんな母を誇りにしているにちがいない。子供に譲るべきなんの財産も名誉もない。しかし夫婦が懸命に人生を生き、歩んだその道を、子供たちが知り、そんな両親を最大の誇りに思えるような生涯でありたい──とつくづく思うのである。
3  信念の女性二人      
 女性の本当の美しさというものは、表情の奥にある心の深さにあるといわれる。心の深さとは、その人のひたむきな信念に由来するようである。女性の美しさもそのような生活姿勢にあると、私は思う。
 昭和四十九年の十月であった。中国中央楽団がNHKの招きで来日したが、訪日の団長である林麗ウンさんと語らいのひとときをもつことができた。林さんとは昭和四十九年六月の私の訪中のさいに会っており、約半年ぶりの再会であった。
 林さんは台湾で生まれたが六歳の時に来日し、十九歳まで神戸で育った。日本の高校を卒業してまもなく、昭和二十七年、彼女は単身、船で中国に渡った。新生の祖国の建設を担おうとの強い信念からである。
 北京大学へ入学し、やがて政府の要請で通訳として中国人民対外文化協会で働くようになり、現在、党中央委員、中日友好協会理事である。
 再会の席で話は弾んだが、彼女は中央楽団のこんなエピソードを語ってくれた。楽団員の公演活動はホールの華やかな舞台だけではない。農村に入って農民とともに農作業を行い、夜は公演する。これは中国の知識人、芸術家共通の、いわゆる“下放”という労働参加であり、大衆人民に学ぶために積極的に行われている。
 さて農村の公演活動で上品で優雅な西洋の古典を演奏したという。ところが反応はない。そこで革命意識を高揚する曲や庶民的な民族伝統の曲を演奏したところ、反応は大きかった──と。
 彼女は決して西洋のクラシック音楽を否定していたわけではない。私が感心したのは、そのように自ら農作業に汗を流し、大衆の一員として大衆の反応を確かめつつ、演奏活動を行っていることだ。そして、大衆が理解し、共鳴するものこそ、真に生きた芸術だとする気概である。
 私は彼女と語りつつ、心の底にある強い信念を見た思いであった。十九歳で新中国に渡り、祖国の建設に打ち込んできた真骨頂、これが彼女の信念ある口調を生んでいるのであった。
 信念といえば、ソ連を訪問したさいに会った対外友好文化団体連合会の議長ニナ・ポポワ女史のことも忘れがたい。
 女性として革命後の幾星霜を経たソ連を担う党中央委員でもあるが、気骨に満ちた、それでいて柔軟な雰囲気のなかに、優しく、厳しい母親を感じさせた。その彼女の血を流れるものも、 自らの主義主張に生きぬいた誇りであり、 自負であろう。「ファシズムを滅ぼさないかぎり、その国の文化は滅びる」との彼女の言にはまったく同感であった。独ソ戦でドイツ・ナチズムの脅威にさらされ、何百万の尊い犠牲者を出した痛恨の経験から、彼女はそう言うのだった。そこに万国共通の婦人の願いを感じたものである。
 ある意味で男性は国家権力の権化になりやすいが、女性は世界主義者であるのかもしれない。「平和」という彼岸の理想を此岸にもたらすには、女性の力が不可欠であることは確かである。この平和主義者に信念の灯をともしたとき、新しい連帯の舞台が開けるであろうとも考えてみた。
4  レジスタンス闘士の妻
 花の都パリといわれるが、春のこの古都は、緑萌え、花が咲き、街路樹のマロニエの枝々には鮮やかな葉が生い茂り、ヨーロッパの風情を旅人に感じさせてくれる。
 私は、幾度となくパリを訪れたが、歴史と文化の堆積した石畳を歩くとき、この都会に漂う「詩と絵と歌」を呼吸せずにはいられない。パリは、世界の都市のなかでも、好きな町の一つである。
 パリ郊外のソー市は、静かな住宅地域で、心落ち着くところで、この地を、私は、訪ねることがある。現在は、広大な緑と水の公園になって市民の憩いのオアシスになっているかつての城館など、昔が今に生かされ、個性的な住宅街とよく調和し、美しさがあふれている。冬の到来に、並木の木々は身を縮め、人々がコートの襟を立てて、コツコツと石の道を散策している姿が目に浮かぶ。
 私は、数年前、ここで、一人のフランス婦人に会った。白髪で、眼鏡の奥には知的な光が輝き、もう七十歳を越しておられるようであるが、声は若々しく、元気濶達な方である。ある青年が「今のまま溌剌さをつづけて、百歳を越え、二十一世紀までも長生きしてください」と挨拶したところ、この婦人はきわめて心外といったふうに「私は二百歳まで生きるんですからね……」と返事したので、ビックリするとともに、その意気軒昂な姿に大いに安心した、と述懐していた。
 この方は、名をフロランス・ウストン・ブラウンさんといい、フランス社会ではいわゆる名門と呼ばれる外交官の家に生まれ、若き日、パリ大学ソルボンヌ校で哲学を学んだ才媛。今も、フランス語保存委員会のメンバーであり、興に乗ると夜を徹して明け方まで文学作品を読み耽り、感動のあまり、裸足で庭に飛び出し、空を仰ぎ、暁闇のなかの星と一人で語りあうなど、人生の年輪を刻み、いよいよ知識欲盛んな“パリジェンヌ”である。
 ご主人は、新聞の編集長をされるなど言論界でご健筆をふるっておられたそうであるが、第二次世界大戦のさい、ナチス・ドイツ軍の占領下にあったフランスで対独レジスタンス運動を果敢につづけ、不幸にもゲシュタポに捕らえられ、虐殺された。その殉難の抵抗者としてご主人の名は、冬季オリンピックが開催されたことのあるグルノーブルの街路名に残されているという。
 一般的にフランス人は、一人ひとりの個性が強いというか自我が確立しているというのか、なかなか団体行動とか組織行動をとることは苦手であり、それが長所でもあり、短所にもなるといえよう。
 しかし、この個性の強さは、いったん個々の抵抗運動などになると、フランスのレジスタンスほど恐ろしいものはない、という定説があるほど徹底したものになる。レジスタンスという言葉自体、フランス語が日本語化したものである。ウストンさんのご主人も、世界に冠たるフランス・レジスタンスの英雄であったのであろう。
 レジスタンスの闘士として銃殺された犠牲者は三万人に達し、ドイツの収容所へ送られた十五万のうち、戦後、生きて帰国した人は四万人に満たない。初めは組織らしいものもなにもなく出発した抵抗運動に、自発的に自らの決断で参加することは勇気のいることであったにちがいない。斬死、銃殺刑、強制収容所の死などが待ちうける危険のなか、「明日の母国の平和」をめざし、戦い死んでいった勇士たちの純粋な行為は輝くが、その流された尊い血と深い傷跡は、一朝一夕に癒えるものではない。とくに、犠牲者の肉親にあっては、傷跡はいよいよ鮮やかになり、歳月の経過もなかなかその痕跡をぬぐいさってはくれない。
 ウストン夫人も最愛の夫を戦争という悲劇のなかに失った殉難者の一人であり、悲しみと痛みに打ちひしがれた日々があったのであろう。が、自由とヒューマニズム、そして平和を求めて倒れたご主人の遺志を継ぐかのように「老いてますます元気」といった姿勢で、学び、働き、社会活動をしているようだ。「夫は戦争が二度と起こらないよう、自分は犠牲になる、と言っていました。私は夫が最後まで叫びつづけた真の平和を確立するため少しでも役立つ生涯を送っていきたい」と──。
 戦後は、サンジェルマン・デ・プレ付近で画廊を経営し、なにか独創的な企画はないものかと考え、芭蕉の俳句を題材にして十二人のパリ在住日本人画家に制作を依頼するなど、日本への関心も深い。また、古代キリスト教には東洋の仏教の影響が深く刻印されているとして西伝仏教に興味をいだき、研究をしておられるようだ。拙著・小説『人間革命』のフランス語版の翻訳にあたっても、全魂を込めて当たってくださっており、昭和四十九年秋も第八巻の手書きの原稿を送ってきてくださった。
 日本へも三度ほど来ているが、いつも若々しく快活なその姿からは「生涯学習」という言葉そのものを実践しているようで、気持ちがよい。思索に疲れたときなどは、パリのセーヌ河畔の散歩道を、女子学生のように歩いておられるのではないか、と思わせてくれる。長寿を祈りたい。
5  忘れ得ぬ女性ということで書いてきたところ、外国の女性像ばかりを書いてしまった。別に意図があったわけではない。
 何度も繰り返すようになるが、市井の一庶民が自己を充実させつつ生きる姿ほど、人の胸を真に打つものはない。私は無数の日本の女性にも、そうした姿を見てきている。他人のために、社会のために働く姿は、よし平凡であろうが、あるべき未来を呼びあう前奏となるものだ。
 私自身、平凡な海苔屋の息子であった。今も、平凡な光の下にあることを欲している。自分なりに常に精いっぱいに生き、生命を燃焼させて悔いのない道を歩むことが、平凡のなかに美しい輝きを放つことと信じたい。女性よ美しくあれ! という言葉を、私はそういう意味で使いたい。

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