Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ソ連の子供たちに未来の光を見て  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  未来をデッサンするものは教育
 モスクワの秋は駆け足でやってくる。樹木の濃い緑は、日一日と変化し、市民が憩う遊歩道に、枯れ葉が蝶のように軽やかに舞っていた。乳母車に子供を乗せて公園にやってくる母親たち。ベンチで、はしゃぎまわる子供たち。そんな光景は、世界のどこの国でも同じで、深まる秋とともに、詩情豊かな一幅の風景画を描きだしていた。
 私はいつもそんな光景を見ると、子供たちのなかに未来の海をみるのである。子供たちのなかに将来のすべてがある。その未来をデッサンするものは、教育である。今回の訪ソは、私なりに二十一世紀への教育に対する構想を練るうえで大いに参考になったし、示唆に富む有意義な話も、数多く聞くことができた。
 訪ソ四日目、私たちはモスクワ郊外レニングラード区にある、モスクワ682小・中学校を訪れた。ソ連は九月が新学期である。入学したばかりのおチビさんたちと会えることは、非常な楽しみであった。
 宿舎のロシアホテルから車で二十分。街路の並木は、黄葉の美しい秋の色に染めあげられ、窓外を流れる空気は涼しく、さわやかであった。
 682小・中学校の玄関にすべりこんだ車から一歩おりたつと、目の前に笑顔のかわいい少年少女が白、桃、赤、橙 色のグラジオラスを手にして、歓迎してくれた。
 こげ茶色のワンピースに純白のエプロンと白いリボンのよく似合う少女が、すっと進みでて、私に朱鷺色のグラジオラスの花束をプレゼントしてくれた。この服装は校外活動のピオネールの服装である。花は北国で最上の贈り物といわれるだけに、そこに込められた彼女たちの真心がうれしい。高く澄みきった秋空と同じく少年少女たちの心根もすがすがしく感じられる。
 私たちはL・P・バフテヨロワ校長先生はじめ生徒たちの案内で校内、授業風景を視察した。
 とくに私の興味をひいたのは、校舎の一角にある「国際友情クラブ」であった。これは子供たちの校外活動の一つとのことだが、小・中学校時代から国際性を身につける教育が重視されているわけである。
 このことは、私たちが、最後に子供たちに贈り物の品々を手渡したときに、より鮮明に理解できた。テープレコーダー、富士美術館主催の小・中学生絵画コンクール優秀作品と、ソ連への出発前に届けられた中学生の絵を生徒に贈呈したさい、彼らは、はきはきした口調で次のように返事をしたものである。
 「ソ連の子供全体への贈り物としていただきます」
 外国人からの贈り物、それはソ連との友好のしるしであり、国際的なものであるという意識が少年少女の言語動作に鮮やかに息づいている。
 また、入学してまもない小学一年生たちが、いじらしいぐらい精いっぱい胸を張って「日本の一年生の友人によろしくお伝えください」と張りのある声で言う。それは、このうえなくほほえましい印象として残っている。これも幼稚園からつづいている、国際感覚修得のための教育の成果なのであろう。
 地理教室では生徒の机一つ一つに、大きくはないが、精巧な地球儀が配置されている。教育には具体性が必要である。少年時代の胸の奥に焼き付いたものは、生涯の刻印となる。地球儀という立体の具象が、少年に平板な物の見方を防ぐことになる。また、この教室には、生徒が綴った日本の文化、歴史に関する、厚さ三センチの文集があったり、廊下には日本の絵葉書を張りあわせた“壁絵”が飾られたりしている。これも私たちへの歓待のしるしであろう。しかし、こうした実地の場で国際的な交際の感覚が身につけられていくことは確かである。
 これと関連するが、ソビエト連邦は十五の共和国から構成されている。ここの生徒たちは修学旅行でいろいろな共和国を訪ねて、多民族国家のあるべき方向、少数民族を大切にしなければならない理由、異文化の融合はいかにあるべきか、などというソ連の未来への継承者として必要欠くべからざる大きな問題にも、小さな見聞をとおして触れる機会が設けられている。
 校内の展示場には各共和国の穀物、地下資源などが図示されており、修学旅行までには、おのずと頭のなかに刻み付けられるにちがいない。
 教育省を訪ねたさい、ソ連の教育者たちはこう述べていた。
 「われわれにとって、最も簡単にできることは人間を尊重することである。しかし、このことは人によっては非常にむずかしいことでもある」
 たしかに人間が相互に心底から尊重しあうということは、一見簡単なことのように考えられるが、そこに利害得失がからんでくると、きわめて困難となってくる。だが、教育というものが着実な成果を収めていけば、相当のところまでは到達可能となるといえよう。
2  教育は学校、家庭、社会で
 その意味で、人格円満な、根っからの教育者であるF・G・パナチン第一副教育相との翌日の会見がきわめて重要なものとして思い起こされる。
 同副教育相は「人間形成はいつから始まり、その重要時期はいつからでしょうか」という私の質問に次のように答えた。
 赤ん坊がベッドに横たわるようになったら、すなわち人生の一年目から人間形成は始まると前置きして、小学校以前の教育の主眼点は「労働、道徳、美的教育」におかれていると語った。ついで、物静かにつづけた。
 「ソ連としては小学校入学期の教育にとくに力を入れています。国営の幼稚園には千百万人の園児が通っており、その教育の完成は『学校、家庭、社会』の三者によってなされるものです」
 「学校」で「教育」のすべてが行われるのではない。児童の重要な生活圏である家庭、社会も含めて健全なる教育が行われるところにこそ、真の人間教育が行われるものだと、つねづね、私は考えてきた。ソ連ではすでにそのことが国家方針として採用され、子供たちが未来の世紀を担うべく逞しく成長している姿を見るにつけ、意を強くするとともに、日本の現状と比較して焦りに似た気持ちをいだいたことも、いつわらざる心境である。
 さらに「理想的教師の第一条件」という問いに対しては、「教師が子供を愛することです」という返事が返ってきた。また、ソ連当局の「教育」を重視し、「教育」に賭ける情熱が、このうえなく感動的な答えとしてはねかえってきたのは、私が次のように述べたときであった。
 「少年と接するときには、私は少年といえども一個の人格として接する。少年のなかに大人を見、接します。この考え方についてはいかがでしょうか」
 「賛成です」パナチン第一副教育相は言下に答えた。「私たちは子供に訴えるときは、少年ではなく、大人として、一個の人格としてすでに教育の基礎があるものとして訴えます。少年期は私たちの過ぎ去った人生の履歴書のなかで一番、記憶に残る部分です。私個人としても愛を込めて少年を尊重しています。なお、教育というものは、教師だけが子供を愛するのではなく、全教育事業にたずさわる人びとが子供を愛し、しかもすべての国々の子供を愛さなければならない」。
 四角い、細い白ぶちの眼鏡をかけた温厚な紳士、パナチン氏の姿が、この時、私にとっては気高く感じられた。すべての人びとが、自国はもとより世界の子供のうえにまで愛情を注ごうという心の広さをもつならば、世界は明らかに理想の方向へ進むであろう。
 パナチン氏は当年五十九歳。その経歴は師範中学卒業後、三年間農村で教師を務め、高等師範大を卒業。農村、都会両地域で校長を経験、ソ連共産党中央委の党学校でも教鞭をとり、四十年以上の教育経験者だというから現在のポストは文字どおり適材適所といえる。 子供に大人の人格をみつめ、全教育従事者がすべての子供に愛情を注ぐ──このような教育姿勢と環境とは、必然的に温かく優れたものになっていくはずである。事実そのとおりと思われた。たとえばソ連では両親が労働に従事しているため、学校にはゆったりした食堂が完備している。
 下級生の一部は二時限終了後、軽い朝食をとったり、上級生、教師などもここを利用するという。また放課後、家庭に帰っても保護者がいない場合は、学校で食事をし、夕方まで教師が交代で面倒をみてくれ、宿題をすませたり、楽しく遊んだりして、日本でいう“カギっ子”の心配はなさそうだ。
 それに食堂の食事はきわめて安価である。たとえば、キュウリサラダが三カペイカ(十二円)、魚のスープが同じく三カペイカ、肉入りジャガイモが二十九カペイカ(百十六円)といったぐあいである。
 生徒数千八十人に対して教師数五十人であるから、単純計算では、生徒二十一人に一人の割で教師がいることになる。ここにも「教育」に力を投入されている一端がうかがえた。
 そのうえ、教師のマンネリ化を防ぎ、科学技術の発展に対応した教育ができるように、「教師の再教育」も行われている。これに対して、日本では異論のむきもあろうが、教師自身が絶えず向上、成長をめざし、教育に完全性を期すことは当然であろう。
 このような教育姿勢は、やはり子供に鋭く投影されている。未来からの語部ともいえる彼らのすがすがしい笑顔、豊かな国際感覚、逞しさ、快活さといったものは、ソ連の教育の大きな成果であると思った。
 最後に私は同校に別れを告げるにさいしてアルバムに記帳を求められ、こう記した。
 「日本人で初めておじゃましました。私たちは本当にうれしいです。私たちは仲良く美しい友情を結ぶことを誓います」
3  ピオネールという課外活動
 学校、家庭、社会が教育の三本柱である、という見方は、今や一般化している。その一つである社会には、その社会全体に子供たちをはぐくもうとする雰囲気が必要なことは、言うまでもない。ソ連の場合、そのことがピオネールという校外活動によくあらわれている。私は十日間の訪ソで、ぜひピオネール宮殿を訪ねてみたいと思っていたが、願いは実現した。モスクワ市内にあるガイダルス記念ピオネール宮殿を訪問したのである。
 宮殿を見学しながら、私はハッと胸をつかれるような場面に出合った。それは一階から二階に案内されているときだった。
 階段の踊り場の壁には、五枚の絵が小さな額に入って飾られていた。澄んだ瞳を輝かせた少年と少女、その肖像画がデッサンで描かれている。絵の一つ一つには、名前が付けられていた。第二次大戦で犠牲になったピオネール(共産主義少年団)のメンバーを偲ぶ悲しい絵である。額の中の絵がすずやかなだけに、よけいに戦争の痛ましさを感ぜざるをえなかった。
 戦争は、どこの国にとっても悲劇をもたらさないではおかないが、ソ連にとっても第二次大戦の惨禍はあまりにも大きかったようだ。残酷なむごい戦争であった。人口の十分の一にあたる二千万人の人びとが生命を失い、千七百余の都市や町、七万を超える村落が破壊された。
 とくに、国境に近いレニングラードの防衛戦は熾烈であった。ナチス・ドイツ軍に包囲され、九百日という長い篭城戦に耐えたが、四十万人を超える市民が餓死をするという惨状であった。当然、老人や子供は田舎に疎開させられる処置がとられていた。しかし、それにもかかわらず、あえて自らの意志で残り、愛する祖国の都市防衛戦に死を賭して戦いぬいたピオネールの少年少女も数多くいた。戦争が終わった時、市には一万五千人のピオネール員がいた。親や兄とともに勇敢に総力戦を戦いぬいたピオネールの子供たちは、暗い塹壕のなか、炸裂する砲弾のもとで、市民たちの希望の灯であり、未来の光であったろう。「君らがいたからだ!」「勝利は、君たちピオネールがもたらした!」。たしかに、少年たちは小さな平和の戦士であり、市民のアイドルであったにちがいない。モスクワの子らも同じであったであろうことは、この五枚の絵が物語っていた。ピオネールはそんな勇敢な平和の戦士をつくるところであってもらいたいものだ。
 さて、話は前後するが、私たちがピオネール宮殿を訪れると、茶色の制服に白いエプロンをした少女、白いシャツに黒ズボンの少年が、すずやかな声で迎えてくれた。ピオネールの象徴である赤いネッカチーフをした宮殿の小さな主人たちは、跳びはねるようにして歩く。私は、ふと、この六月に大の仲良しになった北京の少年宮の友だちの笑顔を思い浮かべた。あの中国のかわいい友人たちも、きっと今日も快活に未来に向かって学び、遊んでいるのだろう、と。少年の心には、大人がつくる拒絶の壁はない。北京もモスクワも東京も、少年少女にとっては、みんな仲の良い一つの同じ町なのだ。
 ピオネール宮殿は、子供たちの課外活動の場である。週に何回か、子供たちはこの宮殿に来て楽しいひとときを過ごしていく。ここには、いろいろなサークルがあった。誰でも好きなサークルに入れる。サッカー、体操、水球、ボクシングなどのスポーツはもとより、ロシア伝統の優雅なバレエ、音楽等々。広いグラウンド、大きな鏡が張られたバレエ教室、四季を通じて泳げるプール、コンサート・ホールも完備している。
 手芸のサークルもあり、子供たちが思い思いに洋服をつくり、裸の人形に着せる工夫を凝らす。マフラー、手袋、チョッキ、スカートなど、興のおもむくままにデザインしたり縫ったり裁断したりしていたが、その作品の一つ一つを見ても、冬の長いモスクワを想起させるものがあり、なかなか興味深く思った。
 やがてモスクワの街は、純白の厚い雪で全身を装う。ロシアの冬将軍は、長い間にわたってロシアの大地を占領する。子供たちの編み物に、手袋やマフラーが多いのも頷ける。
 子供たちが真心込めて作ってくれたお人形を贈られた。両手を広げて抱えるほどの大きな美しい人形で、私は、喜んで頂いた。ロシアの首都にちなんで「モス子」と命名し、日本の幼い友人たちにプレゼントすることを約した。
 「モス子」とは、少々、奇妙な名前のようであるが、日本の子らはこの人形を見るたびに、ジェット機で十時間も飛びつづけるほど遠く離れたモスクワの友を思い出して喜んでくれるのではなかろうか、と思ったからである。“小さな友情”は、必ずや未来に大きく実っていくにちがいない。人形をとおしてのほんのちょっとした出会いではあるが、このようなささやかな出会いの積み重ねによって、日本とソ連の子らが真の兄弟に、姉妹になることを願いたいのである。
4  日ソの子供たちの友情を祈る
 私は、アルバムに記帳を求められ、次のように記した。「二十一世紀の未来の天使の伸びのびとした成長を祈りながら、また日ソの子供たちが、やがて真実の兄弟となることを信じて、この宮殿の発展を心からお祈りします」。これは、私の正直な心であり、願望であった。
 私も、日本の小・中学生から託された絵画約八十点、ならびに鼓笛隊の少女からソ連の子供に届けるように頼まれた「銭太鼓」を贈った。皆、大いに喜んでくれた。そして、言うのであった。
 「ようこそ、ピオネールへ。必ず、日本のお友だちをここに連れてきてください」と。小さな友情は、いずれ、この両国の子らの成長と比例して、大きな大きな友情となって育っていくことであろう。
 「ピオネール」という言葉は英語の「パイオニア(開拓者)」という語に当たり、コムソモール(青年共産同盟)の手で一九二二年に創設された。その指導も、コムソモールの運営委員会によって行われている。ピオネールに入団できるのは広く選ばれた小・中学生で、幼い時代より共産主義的な人間になるように訓練される。身体を鍛えるとともに、政治教育も行われているようだった。共産主義者として団結し、指導しあっていくための教育である。
 ガイダルス記念ピオネール宮殿には、児童五千五百人、先生二百二十六人がいる、ということであった。また、無料で、優秀な作曲家、文学者、スポーツ・コーチらが子供たちの教育にあたっている。その数は、およそ百人にも及ぶ。これらの専門家の親切なかつ卓越した訓育を経て、少年や少女たちは育つ。無料で子供たちを教える人たちの表情がまぶしく映ったものである。
 ピオネール宮殿は、国家の付属機関になっているので、一切の費用は国家予算でまかなわれる。また一九一七年の革命以前のツァーの時代には、五人のうち四人まで文盲で、ロシアは「文盲の国」ともいわれていた。しかし、教育へ力を注いだ結果、今では七歳以上のソ連市民三人のうち一人が学んでいるようになったという。青少年の教育にソ連がきわめて大きな労力をさいていることが窺われた。
 実際、各国とも「武力の競争」ではなく「教育の競争」でも行えば、どんなにか、社会もより良くなるであろうか。前者は破壊と暴力により惨劇をもたらすが、後者は建設と創造により豊かな社会と幸福を呼び寄せる。どこの国でも、子供は大切にされるようではあるが、少なくとも福祉面においては日本よりはソ連のほうがずっと大切にされているように思われる。私はつねづね「文化」とは、武力、権力を用いず、民衆を導く運動と考えている。その意味で教育は文化の中枢を占めなければならない。
 サークル活動のなかで印象に残ったものの一つに体操があった。ちょうど十歳の女の子が、丸い輪のような体操器具を使って練習していたが、まさに見事というほかなかった。世界の女子体操のトップレベルは、今やハイティーン、ならびにローティーンの時代に移ったともいわれているが、このような少女時代から、恵まれた環境で練習をしていれば上達も早いのであろう。オリンピックなどで、ソ連の女子体操チームが小さな妖精たちを輩出し、金メダルをたくさん獲得するのも道理である。
 私は子供たちと語り、一緒に行動することが好きだ。いろんなゲームもあり、ホッケーが盛んなこの国らしく、おもちゃのホッケー・ゲームもあった。子供たちを相手についつい熱を入れ、案内してくださったB・D・モゲルマン所長から「もう時間ですから……」と督促される始末であったが、楽しかった。
 モスクワの街が暮れなずむころ、私たちは、ピオネール宮殿に別れを告げることになった。多くの子供たちが、建物の外まで出てきて送ってくれるのである。
 「ダスビダーニャ!(さようなら!)」という澄んだ声を耳にしながら、私は車中の人となった。遠ざかる車にいつまでも手を振りつづけてくれる小さなモスクワの友人たちを、私は生涯忘れることはないであろう。
 ピオネール宮殿には、学校、家庭、社会の三つを併せもったような雰囲気があった。こうした宮殿やピオネールの家は各地区、各町にある。私にはこうした施設を日常的に誰もが使える環境がうらやましかった。教育には、どんなに費用をかけてもかけすぎることはない。残念ながら日本は大人たちが現在を楽しむことに夢中で、子供たちの未来を楽しむ社会全体の雰囲気が、やや欠けているように思われてならなかった。同時に小さな偉大な可能性の光が、全人類的に結ばれる時、やがて迎える二十一世紀は、生命の光の露に満ちた世紀となるであろうとの感慨にふけっていたのである。

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