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日蓮大聖人・池田大作

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建国の未来を担う中国の子供たち  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
2  後継者づくりは中国の最大関心事
 催しのなかには、自力更生でめざましい工業発展を遂げた大慶の模型や、人工衛星の模型があった。大慶の大工業地帯は先日、日本人ジャーナリストに公開され、各紙に報道されていた。それらの出し物を見て回る子供たちは、楽しみながら、それらを教科書として胸に刻んでいくのであった。
 私はふと考えた。日本に、こうした「国際児童節」のように児童三万五千人のために、大人たちが子供たちの自発の心をはぐくみつつ汗を流し、努力を払って子供の楽園をつくる試みがあるだろうか。こうした催しは、六月一日に中国全土で行われるとのこと。じつに尊い営為である。
 少数民族の民族衣装を着て踊る一団があった。赤いナプキンを頭にちょこんとかぶり、両耳に二つの輪をたらした、見るからに愛らしい出で立ち。頬に紅が塗られていた。こうした踊りで子供たちに少数民族の存在を無言のうちに教え、若い心に同じ中国人民としての存在を知らせる。李先念副首相も強調していたことだが、中国は決して大国主義に陥らないための教育を重視しているというが、その一端がうかがわれた。
 「父はアフリカへ」という歌も、すずやかな声で歌われていた。「お父さんはタンザニアへ行った。私も大きくなったら、お父さんのあとを継いで、革命の道を進む。お父さんがいなくても私は寂しくなんかない。お父さんは世界人民のために働いているのだから」。
 美しい響きの歌声に、透明な心の子供たちの、けなげな情がこもっていた。タンザニアは第三世界(発展途上国)の国である。そこへ技師として赴いた父を想い、自らの未来への決意とし、歌にしているのである。
 児童節は、楽しい催しであるとともに、輝く澄んだ瞳で、未来をしっかり見据える催しでもあった。
 北京第三十五中学を訪れて、まず目についたのは、校庭の大きな穴であった。生徒たちは、空襲に備えて千四百平方メートルもある地下教室を掘っている。この学校は四十クラス、二千百人の生徒、百五十人余りの教職員がいる。修学年限は、五年制で、その年間の授業内容を大別すると、八カ月間・文化教養、一カ月間・農業、一カ月間・工業、二カ月間・冬休みと夏休み、ということである。
 私は授業参観をしたが、そのさい、五年生(十六歳~十八歳)の生徒と懇談する機会を得た。私は、一人の凛々しい顔をした体格の立派な男生徒にこう聞いた。
 「あなたは毛主席に会ったらどうしますか」
 彼は、即座にきっぱり言った。「心が躍動し、必ず『毛主席万歳!』と言うと思います。そしてお話ししたいことは『私たちは、きっと毛主席の良き後継者になります。中国を絶対に変色させるようなことはありません。どうか安心してください』ということです」と。
 こうした答えは、中国では、別に驚くべきことではない。皆、じつに、自然に胸を張って答えるのである。
 新中国の後継者づくりは、現在の中国の指導者の最大の関心事であろう。それだけに教育が重視され、教育改革が強く叫ばれてきたのだが、新中国の未来を築いていく若い力がスクスクと伸びていることをひしひしと感じた。
 彼らには、日本のような入試地獄はない。卒業すると、大部分が農村や工場へ行く。そこで労働し、社会建設の第一線で汗を流すのである。農村に定住して、その発展のために一生を捧げる人間もいる。大学への希望者は、一、二年の労働体験を経て、地域の推薦で入学が認められる。ここにも、一貫して、人民大衆に奉仕し、大衆のなかで生きていくという教育目標が鮮明に示されている。このような目的に沿って、工場もあり、ここではトラクターの部品が製造されていた。
3  「身体、学習、工作」が三つの重点
 外国語教育は、この学校では、英語とロシア語で、その割合は前者が六割、後者が四割ということである。他の学校では、日本語、フランス語、アラビア語なども教えられているようである。一年生から三年生までは週四時間、四、五年は週三時間。そしてたとえば英語の授業では授業は全部、英語で行われ、まずヒアリング(聴く力)を第一にしている。それから話す力、読む力、書く力の向上をめざしている。
 また、何のために外国語を学ぶのかということが明確である。それは外国の人びとから、よりよく学ぶこと、友好を深めることができること、あるいは自国の経済建設、文化交流に貢献できるという話だった。この外国との友好ということは、北京市のみではなかった。
 西安の街では、私たち一行の車を見つけて、子供たちがさっと駆け寄り、拍手し、手を振るのであった。親しみを込めた友情の心づくしである。外国の友人を大切にするという教育が、子供たちに徹底されているためであろう。
 この古都の綿紡績工場を訪れ、その折、労働者のアパートで一家族と懇談していた。しばしの語らいのあと、そのアパートを出ると、私は、近所の大勢の子供たちに囲まれ、もみくちゃにされてしまった。そこには作為はなかった。自然に、あとからあとから子供たちが集まってくる。拍手、握手。「池田のおじさん、今日は!」かわいい手と、かわいい顔々……。私は、思わず、子供たちの頭をなで、ほおずりをしてしまった。
 「将来の中国の立派な人になってください」私は真心から子供たちに言った。 「さあ! みんな一緒においで、写真をとろう」──たくさんの子供たちが、私とともにカメラにおさまった。こうした光景は、杭州でも上海でもいたる所で見られたのである。
 私たちは、上海市の「少年宮」を訪れた。ここは、盧湾区にある七十五の小学校の児童四万人のために設けられた課外活動センターである。七歳から十三歳までの少年少女が、各学校から選ばれて集まってくる。希望者が多くて、とても少年宮一カ所では無理なので、それぞれの町には“少年の家”がある、ということであった。
 「熱烈歓迎」の拍手のなか、私たちは、少年宮の小さな住人たちに迎えられ、そのなかへ入った。私の案内者は、エクボのかわいい少女とリボンがよく似合う少女の二人。二人が「よく知っているおじさん」という感じで、すーっと私の両手をとり、歓待の準備ができた部屋へと案内してくれた。私の子供は三人とも男の子ばかりで、しかも次男、三男はコロコロと太った熊さんのような息子たちなので、私をエスコートしてくれる二人の少女と歩きながら、娘ができたようで楽しかった。
 歓待の席では、さわやかな声でなされる少年宮の目的、設立経過の説明を聞いた。そこには、先生に言いふくめられて、お義理でするようなギゴチなさはまったくなく、一つ一つの所作は「外国人とは、友好を結ぶもの」という常識、習慣にまで昇華されているように見うけられた。
 子供たちは、誇りと喜びに満ちあふれていた。学校外の課外活動として、体を鍛え、科学知識を伸ばし、「人民に奉仕する」精神を学ぶために「身体、学習、工作」ということに重点がおかれている、ということである。この三つの“重点”の順序について、ちょっとしたエピソードがあった。
 一行の一人が、確かめる意味で「学習好、身体好、工作好」と繰り返したところ、一人の少年が「それは、順番がちがう」と指摘し、「身体好、学習好、工作好」と訂正を求めるのであった。私は、日本の「よく学び、よく遊べ」という、まず「学」がきて、次に「遊」がくる言葉の順と比べて、少年宮の子らが第一に「身体」、第二に「学習」という考え方で育てられていることに、ハッと胸を打たれる思いがした。実際、現代中国の若芽の世代は、引きしまった身体で、いかにも健康といえよう。グラウンドには、遊びやスポーツの諸設備が整えられ、打ち興じる子供たちは、弾んでおり、わが家の庭のようにはしゃいでいた。
 私も、輪投げの仲間入りをさせてもらった。妻も、バドミントンを楽しんでいたようだが、うまいとはとても……。少々、蒸し暑い日であったが、子供たちが入れ代わり立ち代わり、おしぼりを持ってきてくれて、恐縮したしだいである。
4  未来を生活の場にはぐくんでいる国
 グラウンドの周りには塀沿いに「練武場」という名の五体を鍛える場が築かれていた。手すりのない木の吊り橋を渡り、飛び石状になった木の切り株の上を跳びはね、滑車にぶらさがって腕を鍛え、スリルを味わう。子らが楽しみながら鋭敏な運動神経を養い、体力をつくれるように、細やかな配慮がなされていた。
 教室には「花火遊び」「五目並べ」「自転車競走場」「模型飛行機・ラジオ製作室」「卓球場」「音楽教室」「ダンス練習場」等々があり、未来を担う子らが、体力を養い、知恵をつけ、その心身の全体を触発するようになかなかうまく工夫がなされている。
 中国伝統の“胡弓”の合奏を聞かせてもらった。ひとくちに胡弓といっても、大胡、低胡、二胡、楊琴、琵琶など何種類もあり、それらの大小さまざまな胡弓を使って、子供たちが京劇の一部の歌を弾いたり、解放軍の歌を奏でる。アコーディオンあり、笛の見事な二重奏あり、また「私たちは共産主義の跡継ぎである」という歌の合唱ありで、にぎやかであった。 小さなことであっても、それを必ず将来の現実目標と連結させ、目的観をはっきりさせる──これが、中国の教育であるといえよう。そのためにも「老・壮・青」の先輩から解放前の話とか、勤労の話を聞き、学習するという。“古参労働者”を招いて“旧社会”の苦しみを知る、といったふうに……。
 グラウンドの中央の塀近くに、一人の少女の彫像が立っていた。これは、解放前に、地主に首を斬られて殺された少女の記念像である。劉胡蘭という名で、当時十五歳であったという。地主の脅迫に屈しないで「私は共産主義を信じます!」と自らの信念を貫いて倒れていった若い革命英雄の物語を聞かされた。その彫像の台座には「生的偉大、死的光栄」(生は偉大であり、死もまた光栄に包まれている)との毛沢東主席の句が刻まれていた。
 私は、今、隣の国では、徹底した思想教育が幼児のころからあらゆる機会をとおして行われていることを目の当たりにした。この点、一面では、このように少年の時代から完全な思想教育で、いわば“純粋培養”された世代がどのように育っていくか、ということについては一抹の杞憂を感ずる人がいるであろうことも予測される。だが、一方、現在の中国の指導者たちが、未来に確実な路線を敷いておきたいとの強い熱情の発露であることも身にしみてわかったつもりである。
 ともかく、今、中国は“解放後世代”に、彼らの先人たちがいかにして血と涙と汗で解放を勝ち取ったかという歴史的事実を伝え、その革命の精神を世々代々まで連続させ、深化・発展させていくかに心を砕いているように思われる。新しい国を自力更生で建国するために、その次代の担い手である少年少女の教育に、全魂を注いでおり、その作業には、必死なものが感じられる。
 私は、少年宮の先生方は、すべて専任教師であると聞き、少年宮での子供に関する把握と小学校との連携はどうなっているかと聞いてみた。「連携は、密接にされている」ということだった。むしろ、小学校の教師が少年宮での行動を聞きにくるほど熱心であるとか。半年に一度は、定期的に少年宮に父兄、教師を招待して発表会を行うという。
 少年宮は、文芸、科学技術、音楽、舞踊などへの子供たちの個性を全人格的に伸ばし、まったく違う小学校の生徒たちが、短期間でサークル活動において、団体行動を身につけていく場であろう。子供たちが、少年宮で学んだことは、所属の小学校の生徒たちに、子供たちの手によって“再講義”されるわけだ。
5  教育というものの重大さを知悉し、子供の未来にかぎりない期待をかけ、それを現実の生活の場にはぐくんでいる国を、私は自分の目で見た。
 上海にある曹楊新村の幼稚園で、私はかわいらしい幼児たちの踊りの輪に入った。もみじのような手に手をとり、体を小さくすぼめた。見よう見まねで輪を回りながら、私はふとアメリカ、またペルーの子供たちを想い起こしていた。
 いずこの国にも、少年少女たちの瞳が輝いていた。澄みきった青空のように、一点の曇りもなかった。青い瞳、黒い瞳、茶色の瞳……。瞳には国境はない。この瞳の世界を、いよいよ現実のものにしなければならないことをしみじみと感ぜずにはいられない。

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