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日蓮大聖人・池田大作

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女性こそやさしい平和の闘士  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  パンと塩をどうぞ
 料理にはその国の民族の伝統、習慣、歴史が色濃くにじみでていて味わいがある──。このことは海外を旅するとき、いつも感ずる私の率直な実感であるが、ソ連の場合も例外ではなかった。
 昭和四十九年九月、訪ソ二日目、私たちはモスクワ大学のご招待で、百年の伝統をもつロシア料理の店スラビヤンスキー・バザールで本場の料理を心ゆくまで堪能させていただいた。二階建ての料理店のたたずまいには、古風な奥床しさと、素朴な田園の趣がそこはかとなくただよっていた。
 ホフロフ総長夫妻(モスクワ大学)の案内で店に入ると、白いブラウスに真紅のチョッキを身につけた、等身大よりやや大きい人形が、手に「パンと塩」をもって私たちを迎えてくれた。電動式であろうか、前後に身体をゆすりながら「パンと塩をどうぞ」と話しかけてくる様子が面白い。
 焼きたてのパンと塩を持って一家の主婦が客を戸外に出迎えるというロシアの風習は、その家にとって最も大切な客をもてなす農村特有の儀式である、と私は聞いていたので、思わずほほえんだ。
 かつて農民が農奴と呼ばれ虐げられていた時代、そのもっと前の苦難の時代、土を耕す人びとにとって、パンは命の糧であり、汗と涙の結晶であった。一片のパンは、ときには屈辱をもって、または死をもって購った大切なものであったにちがいない。その一番大事なものを主婦が白いタオルにのせて、客を出迎える。そこにロシア農民の底知れぬ温かさ、友愛、純朴さといったものを感ぜざるをえない。
 もちろん、ソ連が社会主義国家になって五十九年、このような歓迎の儀式は、農村の一部にしか残っていないとのことであったが、はからずもその雰囲気にひたることができて、興味深く感じた。
 やがて私たちは二階の個室に通され、夕食会の席についた。家庭的なくつろぎの漂う部屋の四周はタイガの原木であろうか、その樹皮をはいで磨きをかけた丸太でできており、中央には木目が浮き出ていて、どっしりした長テーブルがしつらえてあった。
 私の席のはす向かいには、赤レンガに白い化粧漆喰をほどこしたペチカの火が燃えているさまが再現されており、三角胴のロシア伝統の楽器バラライカが飾られ、時代がかった角灯もある。
 ここには文豪トルストイ、チェホフ、作曲家チャイコフスキー、声楽家シャリアピンなども訪れており、文学談議と妙なるメロディーが、今もふと聞こえてきそうな気がして心が和んだ。
 夕食会は例によってアルコール度の強いウオツカで始まる。まず私がホフロフ総長の健康とモスクワ大学の発展を願って乾杯の音頭をとれば、すかさず総長が返礼の杯を返してくる。
 ほとんど酒の飲めない私にとって、乾杯の儀式はむしろ苦手の部類に属するのだが、日ソ友好のために、と杯を重ねるはめになった。私たちがロシア語で「ダ・ドナー(底まで)!」と叫ぶと、「カンパイ!」と総長たちが日本語で応える。なんとも愉快なムードで夕食会は進んでいく。
 とくに美味であったのは、ポフリョープカという“壷入りスープ”と、キノコ鍋、アイスクリームなどであった。これらは十七世紀以来の典型的ロシア料理だが“壷入りスープ”には庶民の味が込められているらしい。総長たちは料理の一品一品について親切に説明してくださるのだが、それによると、昔、壷入りスープは今の「赤の広場」のバザールに集まってくる庶民が、極寒の冬に少しでも暖をとろうと“屋台”で売り出されたという。モスクワ川を自然の堀にしてできた木製の城壁が、クレムリンの発祥で、そこからモスクワの街が広がっていった。そしてクレムリン前の「赤の広場」は庶民の賑わう広場となった。足をドシンドシン踏みならしながら、このスープで暖をとる光景を、私はほほえましく思い浮かべていたのである。
 スープの中には、ニンジン、タマネギ、ジャガイモなどが油っこく煮込まれていて、冷めないように入れられた壷からこれをすすると、体の芯から温かくなってきて、寒さしのぎには最高であったとか。そこに生活に根ざした庶民の知恵がキラリと光っている。この素晴らしい料理の“発明者”も、料理を残し、継承させ、無数の人びとと同じくいずこともなく人間の歴史という大河の彼方に沈潜していったのであろう。しかし、歴史の回転軸は、ときには一人の、あるときは数多くの庶民の英知の集積であるという、見えざる真実も忘れてはならないことを、私は“壷入りスープ”に舌つづみを打ちながら想い起こしていた。
 ところで、このような素晴らしい庶民の英知に、私は「教育」の分野でも遭遇して感銘を深くした。それはソ連の指導者、大人たちが、子供を大切にし、未来建設の旗手として遇するさまは、本でも読み、話にも聞いていたが、ここまで熟慮していたのか、という現実であった。
 ソ連の新設の小・中学校は、交通量の激しい大きな道路を横断せずに、通学できるように設計されているというのである。たとえば、学校は人口の集中している大団地のすぐそばに建設するという原則が貫かれている。
 私の脳裏には、日本の小学生たちが黄色い帽子をかぶって、必死の思いで横断歩道を渡っている光景や、満員電車の中でランドセルを背負った小さな子供たちが出口に向かって泣きベソをかきながら、大人をかきわけている様子が、なまなましく浮かんできた。
 たしかにソ連と日本とでは、社会制度の相違もあって「教育」を同じ次元で論じられない面もある。しかし、教育というものは、一世代、二世代以上先のことを考えなければならないという視点は、いずこも共通なものであろう。とすれば、産業、交通の発展を予測し、未来の子供たちの生命の安全に万全の配慮をとっているという一点においては、大いに学ばねばなるまい。
2  怖くてやさしいお母さん!
 ロシア料理を語り、「教育」について触れるとき、ロシア料理の「味」を継承してきたのは家庭の主婦であり、現代ソ連の「教育」の大半を支えているのが女性である事実に思いをいたすならば、最後にどうしてもソ連の女性像について述べておかなければなるまい。
 周知のようにソ連の労働者の約半数は女性で占められている。しかし、なぜ女性が男性と同等に働くようになったかという理由を追求していくと、そこには「戦争」という人間の業にも似た忌まわしい悲劇が横たわっている。
 第二次世界大戦でソ連が失った同胞は約二千万人といわれる。そのほとんどが働き盛りの青壮年であろう。新しい社会主義社会建設途上にあるソ連にとっては大きな痛手であった。戦争中、ソ連の女性は、戦場に送り出した夫、兄弟などの肉親のあとをついで働いた。ところが、戦い終わったあとも、戦死した肉親をもつ妻や母は引きつづき、涙をかみしめて働かなければならなかった。
 ちょうど、日本のあの戦争未亡人たちの悲劇が、同じころ、ソ連でも、より大規模に進行していたのである。戦争の最大の被害者、それはいずこの国にあっても、女性であり、いたいけな子供たちであることに変わりはない。
 その意味で、ソ連対外友好文化交流団体連合会(ソ連対文連)のN・V・ポポワ議長の経験に根ざした、女性独特の発言は注目すべき鋭さがあった。
 「古来、詩人も歌っているように、最も平和を願い、守りぬくものは女性です。したがって国家間、人間同士が危険な緊張関係にある時、女性は孫、曾孫たちが永久に戦争の犠牲にならないように願うべきです」と。また「ファシズムを絶滅しないかぎり、その国の文化は滅びる」という主張も、正しいと思う。さらにファシズムは人類の敵である。してみれば、それは一国の問題ではない。ファシズムの魔手は、人類文化さえ破壊に導くのである。
 さながら「平和の闘士」といった感じを受けるこのポポワ女史は、一九五三年レーニン平和賞に輝いており、六十代半ばにしてソ連対文連議長のほか、共産党中央委員、ソ連最高会議議員、同外交委員会委員の重責にあり、ソ連婦人を代表する典型的な一人である。
 半面、ポポワ女史には家庭婦人の優しさのあることも、よく理解できた。それというのも、彼女が一行のなかの私の妻ともう一人の婦人に「今度来られた時は、私の家と、家庭、孫をぜひ見に来てほしい」と誘っていたからである。その話しぶりには、ほのぼのとした世界共通の、あの母親の慈愛が込められているな、と私は直感した。「怖くてやさしいお母さん!」モスクワを離れる日が近づいた時、私は女史に対して、こう親愛の情を込めて呼びかけた。平和を守り、子供たちのためなら、一歩もひかない強靱な精神の意志は、“畏敬”を感じさせることさえあろう。ポポワ女史のもとには、ソ連対文連の友好運動参加者として約五千万人が活動しており、これはソ連人口の五分の一に匹敵する。
 その「やさしさ」とは、二千万の同胞を戦争で亡くした悲しみを乗り越え、「孫、曾孫の幸せ」の建設に残りの人生をかける“ロシアの母”の海をも容れる広大な生命空間を、私はさしたつもりである。
 女性の深い慈しみと愛は、自らの子や孫を慈しむように、人類の未来へ向けられなければならない。
 元初から女性は、平和を本能的に求めていた。戦場に送るわが子を見て涙する母を、不毛の対立に苦悩する母を、二度と出してはなるまい。
 ロシアの広漠とした大地は、戦火のはざまで何万、何十万人もの母の熱き涙をしみこませながら、平和の時の到来を、静かに、地の底深く呼吸させながら、待っているようだった。

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