Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

子供に教える“現代の勇気”  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
4  子供は親の延長ではない
 子供が両親を乗り越えて立派な人間に成長してくれることを願わない人はないであろう。その純なる子供への期待が、ともすれば親のエゴを満足させることに陥っている場合が見受けられるのは遺憾である。
 親が成し遂げられなかったことを子供にさせたいと思うのは人情であろう。それは親なればこその温かき思いである。だが、子供の生命に内包する可能性を温かく見守り、これを育てることを怠るとき、それは悲劇となる。学歴偏重の教育ママや、成人しても“精神的離乳”を果たせない子供などは、親の過度の期待が生みだした悪い事例である。
 それは子供を愛していると思いながら、じつは親のエゴを子供に投影した姿であろう。親のエゴとは、結局、親が成し遂げられなかった過去の幻影にすぎない。
 これまで、子供を未来に生きさせようとして、親の過去に戻す結果になっていることはなかったであろうか。過保護、愛情なきスパルタ教育の両者に共通するものは、子供への愛という美名に隠れた親の利己心である。
 たとえ、表面的には親子の愛に彩られているようであっても、その愛は、他者を犠牲にして成立する偏愛にすぎない。偏愛は、子供の心にエゴを植えつけ、やがては親への反発になってかえってくるにちがいない。
 子供は親の延長ではなく、新しい発芽なのである。新しい発芽には新しい大地が必要である。そして、その大地とは、子供はわが子にとどまるものではなく、社会の子であり、人類の子であるとの発想に立つところにあるように思える。
 この発想の大地に立って、わが子を見る親の心は、純なる子供の生命に触れて、子供の閉じた魂を、開かれた魂へと変えていくにちがいない。その開かれた魂は、おのずから、社会の人たちへの、また自然、宇宙への温かい心情を養っていくであろう。さらに、万物への感謝の念をはぐくみ、自らの生命を支えるものの真実の姿に目を開いていくことであろう。
 子供に教える“現代の勇気”をめぐって、思いつくままに所感を述べてきたが、そろそろ結論に近づいたようだ。
 まず親たちが、自信と勇気を取り戻すことであろう。教育(education)とは、
 その語源(ラテン語のe^duca^tio)からも明らかなように、子供の生命に内在す
 る可能性を引き出すことにある。
 知識を教えこむことが教育であるとの偏見から解放され、海をも容れる大きな心で子供の生命に対して畏敬の念をもって接するなかに、しだいに子供の可能性を開発することができるように思う。
 仏法に「仏は子なり衆生は親なり」との教えがある。これは通常の考え方を打ち破ったものであるが、仏ですら子の立場で、衆生である親に仕え、接して初めて、衆生を導くことができるとの教えとも考えられよう。
 これを応用するとき、両親が子に対して、さながら子であるかのように、謙虚に仕え、学ぶ姿勢で接するとき、あらゆる可能性に満ちた子供の生命の傾向性を、素直にありのままに認識することができるにちがいない。そして、この態度こそ生への畏敬の念をいだいた人のとるべき行いといえよう。
 善悪の判断、物事に立ち向かう勇気、不正を憎み、打ち破る正義感など、今日の子供に教えなければならない、もろもろの精神的な価値は、口で言うより、まず両親が、家庭のなかや隣近所との付き合いにおいて、行動で示したいものである。
 口で百万言訴えるよりも、隣人を大切にする母親の優しい態度が、友人を温かく迎えるなにげない父親のしぐさが、どれほど子供の心に大きな糧となるか計り知れない。
 このように考えてくると、一見、子供に教えているようであって、結局、親自身が教えられていることになってくるのである。子供を教育する道は親自身の自己完成の道程と重なっていることに気づくのではなかろうか。
 イソップの「かにの母親」は、じつは現代の両親の姿なのである。

1
4