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日蓮大聖人・池田大作

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子供に教える“現代の勇気”  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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1  現代の子供たちは夢を失ったのか
 いつも感ずることだが、新年の静寂と落ち着きには万物創造の秘めやかな鼓動が脈打っているように思う。新年にかぎらず、いつ、いかなるところにおいても、創造の鼓動を奏でているわけであるが、ことに年明けの静澄さには、かたわらにその響きを聞くような親近感がある。だからこそ、私は新年の雰囲気がこよなく好きなのである。
 多くの人が経験することであろうが、静かな新生の息吹に包まれて、いつか夢心地にひたっていると、人の心には期せずして、幼き日の思い出が鮮やかに浮かび上がってくる。
 私の心にも、ふと父母の姿、緑なす田園に繰り広げられた兄たちとのたわむれ、散りゆく花の吹雪のもとでの、ふくよかな笑みをたたえた女性教師との出会いなど、数々の追憶の場面が蘇ってくる。喜怒哀楽の情緒を含んだ数々のシーンが、胡蝶の舞いのように現れてくる。
 多くの人が新年の静寂に身をひたすとき、幼き日の思い出が脳裏を駆けめぐるところに、新年と子供との深い結びつきをみる。
 まさしく、子供は未来からの使者であり、未来を創造していく担い手である。新年は新生の象徴でもあろう。凧あげや羽子つきに興じ、はしゃいでいる元気いっぱいの叫び声を耳にして、彼らが自由な世界に遊び、満喫してくれることを望むのは、私一人ではあるまい。もう二度とは帰ってこない幼少時代、それゆえに、大人になってからの胸奥に明暗の彩りをくっきりと残す大切な時期、だからこそ、私たちは、子供の世界をより大きく広々とした空間にしてやりたいと願わずにはいられない。
 ところで、私たちの思いとは別に、現実はますます子供を窮屈な空間に閉じこめている。いつか私の目にとまったT新聞の記事によると、驚いたことに、最近の子供たちの楽しみは、お金を貯めることにあるらしい。
 これは、ある児童調査研究所が調査した結果の報告であるが、東京都内の小学校五年生の平均貯金額は三万七千円であり、さらに十万円以上の貯金を保有しているものが、約一割もいたそうである。これだけの結果ならば現代っ子のちゃっかりぶりを表す例証にすぎないけれども“何のために貯金をするのか”という問いに対する子供たちの答えは、私たち大人を驚かすに値するものである。
 とくに、子供なら飛びつきがちなプラモデルや、人形を買うためではないらしく、将来の人生において、お金がいるから貯金するのであり、それ以外にこれといった目標がないというのが、子供たちの答えであったそうだ。
 私は、この調査結果に衝撃を感じ、一瞬、悲しい気持ちに沈んだ。現代の子供たちは夢を喪ってしまったのではないかと痛感したからである。
 もっとも、この調査は限られた少人数を対象に行われたものであり、これをもって、現代っ子全体がそうだとは断定しがたい。しかし、それにしても、今日の児童たちの一断面を浮き彫りにしていることは確かではなかろうか。お金でもって、人生を計量していく現実的な考え方が、純粋で未来性に富んだ子供にまで及んでいる風潮に寒々としたものを感ずる。
 少し前までは、お金を貯めるにしても、そこに子供らしい夢の世界が無限に広がり、小さな胸を希望と喜びにふくらませていたものである。少なくとも、貯金の目的は、あくまで子供心に欲しい、手に入れたいと願う“ものを獲得すること”にあった。そのかぎりでは貯金はより大きな目的のための手段であったといえる。お金を貯めることは、人格形成にとって、目的を達成するという一歩高い次元で成長につながっていた。
 しかし貯金自体が目的になってくると、もはや守銭奴である。これは悲しいことである。
2  子供は親の後ろ姿を見て育つ
 いま、貯金の例をあげたが、背景となっているものは、もっと普遍的で一般的な問題といえよう。現代の子供たちが“もの”を金銭的にしかとらえない、何に向かっても気力がない、あるいは感動がない、などといった声をよく大人たちから聞かされる。そのとおりだとすれば、貯金の例はそれが集約的に表れたものであろう。
 しかしながら、はたして、私たち大人は子供をそのように非難できるであろうか。私は大人の責任を追及したくなってくる。
 イソップ物語のなかに「蟹とその母」(『イソップ寓話集』山本光雄訳、岩波文庫)という面白い寓話がある。
 「かにのお母さんがその息子に『横這いをしてはいけませんよ、また脇腹をじめじめした岩にこすりつけてはなりませんよ。』∧と言いました∨。と、その息子は『お母さん、教えていらっしゃるあなたがまっすぐ歩いてください、そしたらあなたを見てそうなりたいと思うでしょう。』」と答えたという話である。
 この寓話は教育の根本をよくついていると思う。わが国にもある“子供は親の後ろ姿を見て育つ”という格言と同じことがらを指摘している。
 現代っ子が、お金で一切の価値判断をする傾向が強いということは、そのまま親の生き方や社会のあり方が金銭第一主義であることを雄弁に物語っているのではなかろうか。
 たとえば、主婦たちがきらびやかな色彩で飾られた食品にひかれて買いつづけ、色彩のなかに発ガン物質があるとの指摘で事の重大さに驚き、初めて食品の価値は味にあることに気づくといった出来事にも、最近の親の考え方が表れている。
 さらに、同じ商品であっても、安い値段のときにはあまり売れなかったのが、値段を高くしたらよく売れたという経済の常識では考えられない話のなかにも、現代人の判断の基準がどこにあるかがよく出ている。
 この二つの話は、今日の大人たち、そして社会のあり方を鮮やかに映しだしている。すなわち、ものの価値や尊さをその本源において見ようとせずに、表面的に金銭的にとらえていく傾向である。かけがえのない価値を見ようとする努力を放棄して、安易に金銭的なバロメーターで価値を計っていく、親の生き方、社会の考え方が純粋な子供の心に影を落とさないわけがないのである。
 「使い捨て時代」という標語に踊らされて親たちが浅はかな振る舞いにわれを忘れなかったであろうか。
 ものが使えなくなれば、すぐに買いかえるのではなく、工夫して上手に使う知恵がかつての親にはあった。私の脳裏に鮮明に残っている母の姿──私が靴下にあけた穴を、いろいろな布をあてがいながら、最も目立たぬように工夫して縫ってくれた──を思うとき、親は無言のうちに、尊いなにものかを行為で子供に教えているのである。
 一切の価値を金銭的なバロメーターで計っていくという考え方の裏には、じつは精神の荒廃がそれだけ進んでいる事実のあることを、私たちは知らなければならない。金銭は、人間が手っ取りばやく物事を判断する尺度である。むずかしいことはなにもない。金で一切がわかる。こんな容易なことはない。宇宙も、自然も、人間も、そしてそれらが微妙に織りなす複雑なこの人生も、すべて金銭で計量する。
 こうした考え方からは“人間らしく生きる”という、金銭の尺度では計れない大事な問題がまったく抜け落ちていく。正義、勇気、道徳、他人を慈しむ心などの精神的な宝が金銭の前から姿を消さざるをえない。
 現代っ子に、物事に立ち向かう勇気や、感動がなくなっているのも、ひとえに、今日の社会から、金銭より大きな精神的な価値が見失われてきた結果にすぎない。
 言い換えれば、親の姿のなかに、物事に立ち向かう勇気や感動がなくなってきたことを子供が正直に証明してくれているのである。親がお金をもつことが善であり、もたないことが悪であるといった単純な価値観を、家庭のなかで、父母の対話や行動において、知らずしらずのうちに子供に示してこなかったかと反省したいものである。
3  幼い生命に畏敬の念をいだく親に
 そこで、私は現代っ子をもつ親に対して、勇気ある積極的な子供を育てるために、次のようなことを提唱したい。
 まず親が発想の転換を行い、“人間にとって、最も大事なものは何か”を真剣になって、ともどもに考えていく習慣をつけることである。
 それは、子供たちに、宇宙、自然、生命の不思議さと尊さとを教えていくことであろう。いや、教えるというより、親自身が、夜空に輝く星宿の美に感動する心の余裕を取り戻すことであり、四季とりどりに華麗な躍動美を織りなす生命的存在の息吹に触れる時を持ちあわせることであろう。
 子供は親の姿のなかからおのずと何ものかを学んでいくにちがいない。
 よく言われることだが、現代っ子をもつ親はちょうど戦中、戦後の激動期に育ち、満足な教育をうける機会がなく、そのため、子供の教育に対して戸惑いと自信喪失を感じているという。
 確かに、そうした一面はあるにしても、その戸惑いの背景には、知識を教えることが、すなわち教育であるとの偏見が根強く存在しているように思えてならない。
 言うまでもなく、知識は日進月歩の勢いで進歩している。だが、自然、生命の尊さや人間らしく生きるということは時代のいかんを問わず普遍的で、永遠の課題である。知識が増せば増すほど、自然、生命への畏敬の念が要請されてこなければならない。
 今日の知識偏重教育には、この点の錯覚があるように思う。たとえ、知識を吸収するという利点を認めたにしても、それにより、幼い生命から奪い去るものがあまりにも多すぎるのではなかろうか。
 数学者・遠山啓氏は、その論文のなかで「人間は一人一人がみなちがっている。(中略)宇宙のなかで人間ほど複雑で、底知れぬものはない。人間というものの底知れなさ、測り難さにたいする畏れの念を失ったとき、その瞬間から教育は退廃と堕落への道を歩み出す」(「朝日新聞」昭和五十年三月三日付夕刊)と指摘している。
 たしかに、氏が主張するように、宇宙のなかにあって、一個の人間生命ほど底知れぬ神秘さをたたえた存在はないであろう。
 類まれな表現力を秘めた少年もいれば、自然美への鋭い感受性をそなえた少女もいるであろう。人の心の内奥に分け入り、微妙な心理のあやを見抜く才能に恵まれた子供もいるであろう。また、生来、想像力が旺盛で、アイデアの創造に情熱をかたむける幼い生命も少なくはないであろう。そして、激動の未来を生きぬく根源力も、勇気も、また子供たちの心にそなわった可能性にほかならない。
 ありとあらゆる未来への萌芽を内包した幼い生命への、厳粛な畏敬の念をいだきつづける親であって初めて、子供たちを深い愛情で包み込み、彼らの人間性を見事に開花させる真実の教育者たりうると思うのである。
 私の胸に、今、カントの有名な言葉が蘇ってくる。
 「静かに深く考えれば考えるほど、ますます常に新たに、そして高まりくる感嘆と畏敬との念をもって、心を満たすものが二つある。それは、我が上なる星空と、我が内なる道徳律である」と。
 このカントの畏敬の念は、自然や生命にみなぎる荘厳な美と、底知れぬ神秘の前にたたずみ、その偉大さに感嘆し憧れる心をさしているのであろう。生命の秘宝への新鮮な憧憬は、そのまま天地とともに生きる歓びをひきおこし、人間相互の豊潤な愛の交流へと引き継がれていくことであろう。畏敬心の根底には、生きとし生けるものに対する敬虔な愛情が脈打っているからである。 宇宙、生命、人間への敬いの心──この再発見を軸として、お金を最高の価値として硬直化させてしまったこの子供たちを、何ごとも積極的に生きる喜びに満ちみちた子供に変えていくこと、ここに両親の深い反省がなければならぬと思うのである。
4  子供は親の延長ではない
 子供が両親を乗り越えて立派な人間に成長してくれることを願わない人はないであろう。その純なる子供への期待が、ともすれば親のエゴを満足させることに陥っている場合が見受けられるのは遺憾である。
 親が成し遂げられなかったことを子供にさせたいと思うのは人情であろう。それは親なればこその温かき思いである。だが、子供の生命に内包する可能性を温かく見守り、これを育てることを怠るとき、それは悲劇となる。学歴偏重の教育ママや、成人しても“精神的離乳”を果たせない子供などは、親の過度の期待が生みだした悪い事例である。
 それは子供を愛していると思いながら、じつは親のエゴを子供に投影した姿であろう。親のエゴとは、結局、親が成し遂げられなかった過去の幻影にすぎない。
 これまで、子供を未来に生きさせようとして、親の過去に戻す結果になっていることはなかったであろうか。過保護、愛情なきスパルタ教育の両者に共通するものは、子供への愛という美名に隠れた親の利己心である。
 たとえ、表面的には親子の愛に彩られているようであっても、その愛は、他者を犠牲にして成立する偏愛にすぎない。偏愛は、子供の心にエゴを植えつけ、やがては親への反発になってかえってくるにちがいない。
 子供は親の延長ではなく、新しい発芽なのである。新しい発芽には新しい大地が必要である。そして、その大地とは、子供はわが子にとどまるものではなく、社会の子であり、人類の子であるとの発想に立つところにあるように思える。
 この発想の大地に立って、わが子を見る親の心は、純なる子供の生命に触れて、子供の閉じた魂を、開かれた魂へと変えていくにちがいない。その開かれた魂は、おのずから、社会の人たちへの、また自然、宇宙への温かい心情を養っていくであろう。さらに、万物への感謝の念をはぐくみ、自らの生命を支えるものの真実の姿に目を開いていくことであろう。
 子供に教える“現代の勇気”をめぐって、思いつくままに所感を述べてきたが、そろそろ結論に近づいたようだ。
 まず親たちが、自信と勇気を取り戻すことであろう。教育(education)とは、
 その語源(ラテン語のe^duca^tio)からも明らかなように、子供の生命に内在す
 る可能性を引き出すことにある。
 知識を教えこむことが教育であるとの偏見から解放され、海をも容れる大きな心で子供の生命に対して畏敬の念をもって接するなかに、しだいに子供の可能性を開発することができるように思う。
 仏法に「仏は子なり衆生は親なり」との教えがある。これは通常の考え方を打ち破ったものであるが、仏ですら子の立場で、衆生である親に仕え、接して初めて、衆生を導くことができるとの教えとも考えられよう。
 これを応用するとき、両親が子に対して、さながら子であるかのように、謙虚に仕え、学ぶ姿勢で接するとき、あらゆる可能性に満ちた子供の生命の傾向性を、素直にありのままに認識することができるにちがいない。そして、この態度こそ生への畏敬の念をいだいた人のとるべき行いといえよう。
 善悪の判断、物事に立ち向かう勇気、不正を憎み、打ち破る正義感など、今日の子供に教えなければならない、もろもろの精神的な価値は、口で言うより、まず両親が、家庭のなかや隣近所との付き合いにおいて、行動で示したいものである。
 口で百万言訴えるよりも、隣人を大切にする母親の優しい態度が、友人を温かく迎えるなにげない父親のしぐさが、どれほど子供の心に大きな糧となるか計り知れない。
 このように考えてくると、一見、子供に教えているようであって、結局、親自身が教えられていることになってくるのである。子供を教育する道は親自身の自己完成の道程と重なっていることに気づくのではなかろうか。
 イソップの「かにの母親」は、じつは現代の両親の姿なのである。

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