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日蓮大聖人・池田大作

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幼児教育への私の提言  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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4  子供が自由に呼吸できる広場を
 私は、幼児教育について考えるとき、しばしばエジソンの幼児期を思い浮かべる。生涯に千九十九もの発明をしたエジソンは、私の幼いころの一時期、憧憬の的であった。この不世出の科学者には、幼児期のエピソードにこんな話がある。
 彼は生まれつき、なににでも好奇心をもつ子供だった。ある時、生半可な知識をたよりに「人間風船」を飛ばそうと思いつき、一人の友人を実験台に選んだ。ビーカーに入れた酒石酸、ジュウソウなどの混合液を友人に飲ませ、体内にガスが充満すれば、人間も飛べるのではないかと思ったのだろうか。幼児のことだから、そのあたりは定かではないが、もちろん飛ぶはずもない。そればかりか、泡だつ液を飲まされた友人は気分を悪くし、大騒ぎになった。このとき、日ごろやさしい父母は、人間をモルモットにしたことに対して烈火のごとく、エジソンを叱ったという。この時の父母の厳誡にめざめて、幼いながらも人間に役立つ発明をしようと決心したと、彼は述懐している。
 母は、エジソンに十分反省の色を見てとったあと、正しい理科の教科書を買って与えた。 ──このエジソンの逸話でわかることは、叱るときは原則を明確にして叱れ、ということである。と同時に、ただ叱るだけでなく、母はエジソンの才能を鋭く発見し、その天賦の才を伸ばすことに温かい手を差しのべていることだろう。この母とエジソンの愛に結ばれた親子の絆は、エジソンが小学校を劣等生扱いされて、わずか三カ月で退学処分になったときからさらに太く深くなっていく。母は退学になった少年に、ローマ史、イギリス史等を教え、一年後には、近所の人から天才といわれるまでに育てあげた。この母の深く豊かな愛にはぐくまれてエジソンの発明の才が磨きぬかれていった。
 よく、しつけというとピアノを習わせたり、琴をひかせたりすることのように思っているお母さんも多いようだが、これはしつけではなくて芸事を身につけさせる、つまり特技の分野に入るであろう。また、しつけという言葉にのみとらわれて、子供の溌剌たる精神の自由まで踏みにじっている例も見受けられる。これなども、しつけの本義を理解しないところから起こる錯覚というべきである。子供の将来を思うよりは、親の一方的なエゴの押しつけになっている場合も多く、幼い子の精神を、かえっていびつなものにしてしまう結果になりがちである。
 いずれにせよ、両親の慈愛には一点のエゴも許されない。大人たち自身のための代償を期待する心さえも、慈愛の光を奪ってしまうからだ。自分の子供が、どのようなものに興味をいだくかを注意深く見守り、そっと手を差しのべる賢明さを、大人たちはもちたいものである。
 自由な伸びのびとした空気を呼吸できるような生活の場を、絶えず配慮する父であり、母でありたいと思う。少年の胸に秘められた可能性に全幅の信頼を寄せ、彼らの夢をはぐくむためには、親として何ができるのかを考えつづける賢明さを保っていきたいものである。
 現代に生を享受する者として、未来の使者への贈り物は、この子たちに未来の生を開拓し創造するための勇気と自信と人間原点の善悪の判断力などを与えることであろう。しつけも、遊びも、読書も、子供たちの将来にふりかかる苦難の嵐を乗り越えるための根源的な力を培うものに他ならない。
 すべての両親の努力が、子供たちの“内なる宝”の開発をめざし、創造への新鮮な生命の泉をわきいだす結実をもたらすように方向づけられるべきではないだろうか。 苦難の生を切り開く能力の開花──そこに教育の焦点が合わされるならば、その行為は期せずして、本当の慈愛の色彩を帯びていくであろう。しかし、親は子供の鏡であるといわれるように、母親自身の生き方がエゴに汚れていたのでは、かえって幼い心に不信と猜疑の心を植えつけてしまう。子供は母の行動を見守っているものである。正義を愛し、すべての人びとに信頼と誠を投げかける母親の生き方のみが、健やかな創造力にあふれた生命を培う源流となりうるであろう。
 あえて言えば、愛情あふれるしつけ、援助のみが、母と子と、父と子の、血を分けた二つの生命をつなぐ信頼の糸を太くし、相互の深い愛の昇華を可能にする。 慈愛の血潮──その暖流にうるおされて、少年の生命が開花し、しつけの果実が陽光に映え、未知なる天空をさして伸びていく。
 子供たちの瞳が希望に満ちて、輝きつづける世界を誠意と愛のかぎりを尽くして拡大することこそ、教育の究極の使命であり、理想であると、私は考える。

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