Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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零歳からの教育  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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4  忘れられないわが母の教え
 私の母は、もう齢七十半ばを過ぎて、子供を育てる大役をはるか昔に終え、今は余生を静かに送る身となっているが、私が幼いころの母親は、子供の心をじつによく理解する母であった。というより、母の心の中に子供の世界が、そのまま温存されているように思えるほど、私たち子供と母との間には断絶がなかった。
 私の家は、四人の兄と弟二人、妹一人、それに養子がほかに二人いたので、計十二人の大家族であった。
 父は“強情さま”とあだ名されるほど昔気質の人間であったが、母は、この父に仕え、十人の子供の世話を黙々としていた。私の記憶では、母の口から愚痴というものを聞いたことがないほど健気で忍耐づよい母であった。母は家業のノリ製造業が不振になったときも、戦災で二度も家を焼かれたときも、泣き言一つ言わず黙って子供の世話をし、家事を切りまわしていた。
 ある時、その母を囲んで、子供たちみんなでスイカを割って食べたことがあった。子供たちの数だけ均等に割ったスイカをみんなで食べたが、自分の分を食べおえた一人が「お母さんはスイカが嫌いだから僕におくれよ」と言って残ったスイカを食べようとした。母はそのとき「お母さん、スイカ好きになったんだよ」と言って、その場に居合わせなかった子供の分を確保した。そのときの母の表情と声を不思議と今でも覚えているのは、母の公平な愛情に、私自身、幼い心に感動を覚えたからであると思う。
 母は、このことをとおして私たちに平等ということ、また人の迷惑になるような勝手な言動は絶対してはならないことを言外にふくめて、教育してくれたのである。
 また十人もの食欲旺盛な子供をかかえた母は食事にもずいぶんと気を配ってくれていた。費用を余りかけないで、しかもカロリーのある食事をつくってくれたので、誰一人、栄養不足になる子供はいなかった。とくに病弱だった私は、母に人一倍苦労をかけたと思う。
 そのころ、家に一羽のにわとりを飼っていた。そのにわとりの産むタマゴを長男から順番に食べることになっていたのだが、なにしろ大人数なので末っ子まで番がまわるのに幾日もかかってしまう。末っ子は早く番がまわってこないものかと考えるが、これだけはどうにも仕方がない。
 ところがある日、その日の番のまわってきた子供が鶏小屋にタマゴを取りに行くと、なんと四つもあったのである。「きょうは四つも産んでたよ」とうれしそうな声をあげて戻ってきた。予期せぬハプニングにみんな小さな手をたたいて喜んだが、それは母が朝早く起きて、前もってよそで買っておいたものを鶏小屋の中へそっと入れておいたのであった。母は食事のとき、なにくわぬ顔で、みんなのうれしそうな顔を見ていたが、母自身、子の喜ぶ姿を見てうれしかったにちがいない。
 私の記憶に残る母は口数の少ない愛情豊かな女性であった。子供に対しても、いわゆる現代風の教育ママ的なところは微塵もなかった。
 十人の子供に平等に愛情を注ぐことのできた立派な女性であったと、今も誇りに思っている。
 ただ母が、私たちに厳しく教えたことが二つあった。それは“他人の迷惑になるようなことをしてはならない”“うそをついてはならない”という二カ条である。
 なんの変哲もない言葉であるが、私は幼いころに生命にたたきこまれた言葉を、この人生において一瞬も忘れたことはない。

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