Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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零歳からの教育  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  幼児の人間性は母親の心の投影
 母親の胎内に宿った小さな新しい生命。やがて心音が聞こえ、おなかの中で動く胎児の鼓動を知るとき、母親は、その元気な様子に満足を覚える。胎児はおなかの中にいる期間に、一個の人間としての機能をほぼ完全に備えて出生するが、胎児は、おなかの中ですくすくと育つ過程においても、母親の感情の起伏を、電流のように受けとめていくといわれる。胎児は母親と感情をともにし、母親をとおして外界との接触をすでに始めているのである。こうして、良い音楽を聴いたり、質の良い文学作品に触れることによって母親は胎児に有形無形の教育、いわゆる胎教を施しているわけである。
 また肉体的にいえば、母親の摂取する栄養分は胎児の身体の発育に強い影響をもっている。カルシウムやリン、鉄分の摂取が不足すると胎児の骨格の形成に甚大な被害があるから、母親は胎児のことを考えて、栄養に偏りがないよう十分注意すべきである。
 ある学者は「胎児が母胎で育っていく一日は生まれてからの一カ月に相当する」と述べているが、身体の発育の面、情操の面の調和のとれた成育のために、母親は、このことを深く留意すべきであろう。
 母親のおなかから出生し、胎児の命綱であったへその緒がとれると、子供は、すでに一個の人格をもった人間として、父とも母とも違う独自の人生行路を歩むことを必然的に開始しなければならなくなる。
 幼児教育で、母親の本領が発揮されるのは、出生してから五歳ぐらいまでの期間である。五歳までの期間というのは、この間に幼児の百四十億もある脳細胞が、さらに外界の刺激によって複雑にからみあい、神経突起ができて、大脳の基本的な傾向性が決定する時期にあたる。これは幼児の人格の骨組みが完成することで、人間としての素養を、まず第一段階として備えもったということになる。
 胎教に情熱を注いだ母親が、出生後は、育児、家事に追われてノイローゼになり、あげくは子供を捨てたり、蒸発したりする例もある。
 こうした事件の背後には、経済的貧困とか、家庭内の夫婦関係がうまくいっていないとか、それぞれに理由はあるであろう。しかし私は、ひとたび生まれた子供は、いかなる理由があろうとも、母親たるもの、全魂をこめて立派な人間に育てあげる責任と義務があると言いたい。それはまた母親独自の権利でもあり、子供から白紙の全権委任状を先天的に受けた母親の権利であり義務なのである。それほど幼児にとって母親の存在は重要なものなのである。
 生まれたばかりの新生児は、ちょうど、まだスケッチもされていない真っ白いキャンバスのような存在である。このキャンバスの上にどのようなスケッチをするかによって、子供の人格のフレーム・ワークが決まっていく。このスケッチをするのが私は母親の役割であると思う。零歳の子供は、当然ながら、自分で心の画布にスケッチすることはできない。最も身近で感化力をもつ母親の人格、人間性が子供の無垢な心に投影され、ゆっくりと着実に人格の基礎が固められていくのである。そして幼児期に母親の手によって丹念に描かれたスケッチの上に、子供は少年期、青年期と成長するなかで、さまざまな色彩を自分の手でほどこしていくのである。
 よく「もって生まれた性格だからしかたがない」という言葉を耳にするが、性格の基礎が決まるのは零歳から五歳ぐらいの間の過ごし方、母親からの影響の受け方が、その輪郭となるのであり、その後は大きく変わることはないということである。
 新生児は情緒が不安定で、感情の表し方なども一貫性がなく不規則であり、無秩序そのものであるが、この無秩序な感情表現は一日一日と傾向性をもつようになり、ある秩序をもつようになっていく。この無秩序性こそ純白のキャンバスそのものであり、秩序へと導かれていくのは、キャンバスに線が引かれていくことを意味している。初めて子供をもった母親は、まず子供のこの無秩序な存在に直面して困惑し戸惑うことが多いが、この無秩序から秩序への発育が、幼児教育のポイントであり、しつけの要諦である。
 新生児の子供の泣き声は、母親に何かを訴えているのだが、泣くとすぐミルクを飲ませたりして泣きやませようとする母親がいる。だが、時間をきちんと決めて規則正しい授乳をすることを習慣づけていくことが、この時期の幼児には大切なのである。不規則な授乳をつづけていくと子供を肥満児にするだけでなく、独占欲の強い、わがままな、情緒不安定な精神構造を育ててしまうことになる。子供の泣き声は、元気な証拠であるくらいの気持ちの余裕をもっていくべきであろう。
 また、この時期の子供をもつ母親は、夜泣きや特有の無秩序性に悩まされ、神経症になりやすい。だが母親のイラだった気持ちは子供に敏感に伝わり、神経質な子供にしてしまうことになる。
 ソ連の代表的な幼児心理学者であるアンナ・アレクサンドロヴナ・リュブリンスカヤ女史は「幼児を『神経質』なものと考えて、したいほうだいをさせ、子どものすべての気ままをかなえてやっている者がいる。これは正しくない。(中略)幼児が規則をたびたび破ることは、幼児に形成される性格特徴や習慣を崩壊させてしまう。つまり幼児の人格の発達に否定的な影響を及ぼす」(『幼児の発達と教育』藤井敏彦訳、明治図書)と明言しているが、幼児に対する母親の態度は、深い愛情をたたえつつも厳格なものでなくてはならないといえよう。幼児に対しての厳格さ、規則正しさをもって教育していくところに、子供のバランスのとれた人間としての核が植えつけられていくのである。
 ところが、子供への愛というのをはきちがえて溺愛におちいっている母親がいる。この溺愛は、幼児の人格形成にとって最もよくない影響を与える。
 子供は親から生まれたとはいえ、まったく別個の生命と人格をもっている。
 親は、まず幼児教育にあたる前提として、この子供の人格への尊敬の一念をもたねばならない。子供は親にとっては、この地球上で最も愛すべき存在であっても、その愛が盲目的な溺愛になってしまったときには必ず子供を不幸にする。親への甘えは、他人への甘え、社会への甘えを誘発して自立心のない虚弱な精神の持ち主にしてしまうのである。
 欧米に比べて日本の家庭には、この溺愛型の親が多いが、このことは子供は小さい時ほど厳しくしつけ、大きく成長していく過程で、そのしつけの枠をだんだんとゆるめるという、しつけの原則、幼児教育の基本をマスターしていないところからきているようだ。
3  子供と一緒に考える習慣を
 胎児が母親の感情を直感するように、幼児は、母親の感情の変化を微妙に察知する。そしてそれを自分なりに理解しようとするものである。もちろん、幼児には成人のような理性はないから、わずかな経験をたよりにして一生懸命に“思案”をめぐらすのである。
 私は前に一人の幼児をある期間、ずっと観察してきたことがあるが、そのときに幼児の心理に見いだしたのは、幼児には幼児の原理というものがあるということであった。感情の表し方などを見ていると、大人と変わるところがないのも新しい発見であった。ただ大人と幼児の異なる点は、幼児の心理というのは柔軟性に乏しく、硬い、ある意味で杓子定規なものであるということである。すなわち、幼児にとっては、これまで経験してきたことだけが真理であり基準になって、それにすべてをあてはめて反応し、表現していく。
 よく一般の家庭でも「子供の前ではうかつなことは言えない」とか「子供にはうそをつけない」というが、これなども、幼児の心の世界が、それだけ純粋で清らかであるからであり、母親やまわりの大人の言動というものを盲目的に受け入れていくからである。いやそれだけではない。その吸収力たるや恐るべきものであるが、いったん心の中に刻印された経験というのは絶対的な基準として銘記されていくのである。だから、もしその基準に合わない出来事に遭遇すると、子供は不思議に思い、二歳ぐらいになると「なぜ」という質問を親に発するようになる。これは、幼児が、今まで経験したことのない出来事に対する新鮮な懐疑であったり、また、経験したことであっても、すでに銘記された基準と違った場合に発する疑問である。
 二歳ぐらいになると、経験の記憶はかなりはっきりしてくる。たとえば父親が朝、会社に出かけるときに「今日はおみやげを買ってきてあげますよ」と約束すると、もしおみやげを買ってこなかったら子供は失望する。こういうことが重なると、父親への尊敬と信頼の念はだんだん薄くなってしまうのである。「子供にはうそをつけない」という大人の嘆息は「うそも方便」という諺の通用する大人の世界のさわやかな清涼飲料のようなものといえよう。
 また食事のときに食べ物をこぼすと叱られている子供が、近所の子供が遊びにきて、その子が食べ物をこぼしても注意しないでいると、子供はなぜだろうと疑問に思う。子供の心の世界というのは、そのように純粋で無垢であるとともに、一面、大人のような、融通性、柔軟性というものをもたない。だから近所の子供でも食べ物をこぼしたということについては容赦しないのである。
 私はこの子供の世界の原理というものを母親が理解することが大事であると思う。「なぜ」という疑問を発する子供をうるさがって、適当にいいかげんな答え方ですませてしまおうとするのは、子供の純粋な心を踏みにじることになる。そしてこの子供の世界に入っていけるのは母親しかいないのである。また子供の「なぜ」という疑問に対して、母親がどう対していくかが、幼児教育の一つの要点となる。この時期は、幼児の自我のめざめる時期であり、物事を考えるくせを身につけさせる絶好のチャンスなのである。
 子供は、もともと母親に対しては受け身の存在である。だから「なぜ」という疑問を発するときにも、母から単純明快な答えが返ってくるものと思い込んでいるふしがある。
 このときに即答しないで、答え方にちょっと工夫をこらし、子供と一緒に考えてあげるようにすれば、それは思索の芽を育てるためにはよい訓練となるであろう。
 子供にとって母親のもつ意味はかぎりなく大きいが、母親の存在が子供の自主性を摘み取るようなものであっては断じてならない。子供と一緒に考えるというのも、子供のもつ無限の可能性を開発していく良き相談相手となっていくということである。なぜなら子供の可能性を伸ばすのは、結局、子供自身の努力と忍耐にかかっているからである。
4  忘れられないわが母の教え
 私の母は、もう齢七十半ばを過ぎて、子供を育てる大役をはるか昔に終え、今は余生を静かに送る身となっているが、私が幼いころの母親は、子供の心をじつによく理解する母であった。というより、母の心の中に子供の世界が、そのまま温存されているように思えるほど、私たち子供と母との間には断絶がなかった。
 私の家は、四人の兄と弟二人、妹一人、それに養子がほかに二人いたので、計十二人の大家族であった。
 父は“強情さま”とあだ名されるほど昔気質の人間であったが、母は、この父に仕え、十人の子供の世話を黙々としていた。私の記憶では、母の口から愚痴というものを聞いたことがないほど健気で忍耐づよい母であった。母は家業のノリ製造業が不振になったときも、戦災で二度も家を焼かれたときも、泣き言一つ言わず黙って子供の世話をし、家事を切りまわしていた。
 ある時、その母を囲んで、子供たちみんなでスイカを割って食べたことがあった。子供たちの数だけ均等に割ったスイカをみんなで食べたが、自分の分を食べおえた一人が「お母さんはスイカが嫌いだから僕におくれよ」と言って残ったスイカを食べようとした。母はそのとき「お母さん、スイカ好きになったんだよ」と言って、その場に居合わせなかった子供の分を確保した。そのときの母の表情と声を不思議と今でも覚えているのは、母の公平な愛情に、私自身、幼い心に感動を覚えたからであると思う。
 母は、このことをとおして私たちに平等ということ、また人の迷惑になるような勝手な言動は絶対してはならないことを言外にふくめて、教育してくれたのである。
 また十人もの食欲旺盛な子供をかかえた母は食事にもずいぶんと気を配ってくれていた。費用を余りかけないで、しかもカロリーのある食事をつくってくれたので、誰一人、栄養不足になる子供はいなかった。とくに病弱だった私は、母に人一倍苦労をかけたと思う。
 そのころ、家に一羽のにわとりを飼っていた。そのにわとりの産むタマゴを長男から順番に食べることになっていたのだが、なにしろ大人数なので末っ子まで番がまわるのに幾日もかかってしまう。末っ子は早く番がまわってこないものかと考えるが、これだけはどうにも仕方がない。
 ところがある日、その日の番のまわってきた子供が鶏小屋にタマゴを取りに行くと、なんと四つもあったのである。「きょうは四つも産んでたよ」とうれしそうな声をあげて戻ってきた。予期せぬハプニングにみんな小さな手をたたいて喜んだが、それは母が朝早く起きて、前もってよそで買っておいたものを鶏小屋の中へそっと入れておいたのであった。母は食事のとき、なにくわぬ顔で、みんなのうれしそうな顔を見ていたが、母自身、子の喜ぶ姿を見てうれしかったにちがいない。
 私の記憶に残る母は口数の少ない愛情豊かな女性であった。子供に対しても、いわゆる現代風の教育ママ的なところは微塵もなかった。
 十人の子供に平等に愛情を注ぐことのできた立派な女性であったと、今も誇りに思っている。
 ただ母が、私たちに厳しく教えたことが二つあった。それは“他人の迷惑になるようなことをしてはならない”“うそをついてはならない”という二カ条である。
 なんの変哲もない言葉であるが、私は幼いころに生命にたたきこまれた言葉を、この人生において一瞬も忘れたことはない。

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