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日蓮大聖人・池田大作

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知能教育より心の教育を  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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3  慈悲にもとづく心の教育
 幼き者の心の“宝”を磨くべき、家庭における“しつけ”の重要性と具体的な方法については、すでに各所で述べてきた。
 そこで、私の、このささやかな提言をしめくくる意味を含めて、東洋民族の知恵の精華である仏法に説かれる一つの原理を取り上げてみたいと思う。
 それは“慈悲の原理”と名づけられ、仏法では“抜苦与楽”と解釈する。つまり、慈悲の“悲”は、他者の生命に襲いかかる苦悩に同感し、共鳴しつつも、その苦の根源を断ち切ろうとする行為であり、一方、慈悲の“慈”は、人びとの生命を慈しみ、守りぬこうと決意する働きをさしている。
 この原理を、教育論にあてはめると、母親の“しつけ”は、少年少女の心に内在し、将来に禍根を残すであろう苦悩の本源を断ち切る、抜苦の行動となる。仏法では、抜苦の母のことを、悲母と表現している。
 人間生命に息づく苦悩の本源とは何か。東洋の洞察眼は、あらゆる人びとの苦しみの根を、生命内在のエゴに求める。
 エゴは一見、自己主張のようにみえるが、それは、じつは盲目的な性質を帯び、他者の犠牲は眼中になく、ただ、自らのとどまるところを知らぬ衝動、欲求に身をまかせている姿なのである。その結果、他者と融和できず、真実の友情、人と人との温かい生命交流の喜びも知らず、独り寂しい敗残の人生を強いられる。自らも激しい欲求の炎に焼かれつつ、苦しみの流転を余儀なくされるであろう。
 自らの意志で、自分自身をさえどうすることもできない状態ほど、人間として悲しい存在はない。
 悲母の“しつけ”は、いかなる形をとったとしても、幼き者のエゴの根源を抜き取る厳愛の行為となるはずである。子供たちは、悲母の厳愛に感応しながら、自らの力で、内なるエゴを克服していく。その時、初めて少年少女の心の中に、実在する万物への愛と、自然美への開眼と、生を破壊する者への挑戦の勇気と、正義と、そして平和の灯を守りぬこうとする生涯をかけた使命が、噴出するのではないだろうか。
 内なる“宝”の開発は、まず、母の賢明な“しつけ”を出発とし、そこに、父親の慈しみの努力が、開かれた“宝”を研磨すべく参画してくるのである。
 子供たちは、それぞれの個性にしたがって、自らの道を選びとる意欲をみせはじめる。
 読書に異常なほどの情熱をかたむける子もいれば、本など見向きもしないで、野山を駆けめぐる子もいる。機械の組み立てに熱中する少年もいるし、一日じゅう、習い覚えた歌を口ずさんでいる少女もいるだろう。
 ひっそりとなにかを考え込んでいる思慮深い男の子。けんか相手を探しては、取っ組みあいを演じる子。どこへいっても、落書きをやめない子。台所に顔を出しては、母親に叱られてばかりいる男の子。──性格も千差万別なら、好奇心の対象も十人十色の異なりをみせる。そうした個性の方向を見抜き、最大限の環境をととのえるのも、親たちの役割の一つである。
 父親は、妻の助言を受け入れながら、個性がすくすくと伸びるように、社会と人生の知恵を語り、未来にかける夢をともにはぐくみあうべきだろう。
 子供たちは、父親をとおして知る古今東西の人間の生き方、過去と現在の社会の様相、人類の直面している課題などを、幼いながらも真剣な眼差しで吸収しながら、自発的に思考し、自らの道を進んでいくはずである。仏法では、賢明な父親の行為をさして、慈父と名づけるのである。
 悲母と慈父に見守られた子供たちの心の奥には、父母の生命と通いあった慈悲と創造の力が、汲めども尽きぬ泉のごとくわきおこっている。やがて、その慈悲は、両親から友だちへ、教師から先輩へ、さらには、生活圏の広がりとともに、世界の人びとと他の生き物へと向けられ、人間存在の基盤にまで触れていくことも可能であろう。そうして、子供は子供なりの、青年は青年にふさわしい哲学をもつにいたるのである。
 人間は宇宙とともにあり、他の生物に支えられて生きている。両親も、教師も、自己の生命も、地球上の他の人びとの尊い支えがあって、初めて生を保ちうる──そうした実感には、あらゆる生き物の生命自体の重みがこもっている。子供たちの、慈悲にもとづく心の教育は、おのずから、万物の生命の尊厳なる由縁の体得へと歩みゆくであろう。そして、子供たちの心にうずく哲学は、もはや観念の域を脱して、宇宙万象とともにありながら、人類総体の平和な生存を希求する人間的な心へと転化していくのではないかと思う。
 いずれにしても、慈悲心の発動と深まりは、同時に、生命の尊厳を貫くための強靱な意志と勇気をひきおこし、文明と社会に暗躍する悪を見抜く知恵と、他者のエゴに挑戦する創造の力をもたらすにちがいない。慈悲と連動する創造の力こそ、自らの健全なる心身を養いながらも、人びとの心を蘇らせ、社会の闇をはらう、偉大なる“光源”となりうるであろう。
 私は、私の切なる期待をこめて、彼らの羽ばたく二十一世紀を、生命の世紀と名づけたいのである。この緑の惑星と、百万種を超える生物と、人類を断じて滅亡させてはならないとの決意がわきたってくる。
 私は、最後に、二〇〇一年の夜明け前に、生涯の最盛期を迎えるであろう少年少女と、その時に生を謳歌すべき未来の人類の名において、心の教育の基底に、未来からの視座の必要性を重ねて訴えたいのである。

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