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日蓮大聖人・池田大作

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知能教育より心の教育を  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  知能の競争に勝ちえても
 現実をとおして未来をのぞくとき、未来は、決して明るいものではない。一九七〇年代から、地球人類の突入した世界は、混乱と激動を重ねつつ、その暗闇の深さを増すばかりであると感ずる人も決して少なくはないであろう。
 核による絶滅は免れえても、人と人の殺しあう戦いの“火だね”は、いたるところでくすぶりつづけている。現代の栄華を誇る石油文明も、資源の枯渇を前にして、転換を余儀なくされ、大人たちが海と河と陸地にばらまいた有毒物質は、そのころになっても、人びとの生命を蝕みつづけていくと考えられる。あるいは人びとは、夜明け前の不気味な静けさにたたずみ、寒風吹きすさぶ冬の季節に身を伏していることも予想される。
 私は未来に対して、決して悲観も楽観もしない。ただ未来世紀がどうなるかではなく、どうするかに強い責任を感ずるのである。そのためには、まず厳しい認識をもつことも、きわめて大切なことであろう。
 日本も世界も、二十一世紀を待たずとも、さわやかな一陣の風をともなった、あの夜明けの瞬間を迎えるであろうと主張する人もいるだろう。
 私も、東の雲をあかね色に染める、旭日の一刻も早い出現を、祈る思いで待ち望んでいる一人である。しかし、たとえそうであっても、終末をもてあそぶ無責任な予言さえ横行する地球人類のうえに、春を呼び、太陽をもたらす主体者は、あくまで、現代の大人ではなく、子供たちであるとの真実に変わりはない。 幼き者は未来に生きる。激変の社会を通りぬけて、新たなる世紀を開くべく生きゆかねばならない。──このあまりにも明瞭な事実を心肝に染めさえすれば、教育にたずさわる者の視座は、未来の一点に定まるはずである。
 その一点が、二十一世紀の夜明け前を意味することは、ふたたび強調するまでもないであろう。
 未来に視座をすえた、未来からの発想が、狂乱の度を増しゆく現代ほど必要な時はないように思われる。
 今日の社会は、すでに昨日の社会ではない。同じく明日の社会はすでに今日の社会ではないのだ。現代の大人たちに通用する価値の基準が、もはや十年後の世の中にも適応できるとは言いきれまい。世間の変動につれて必要となる知識も、また変わりゆく運命を免れえないはずである。学閥を骨格としたエリートコースが崩れさり、金銭を主軸として織りなされる現代社会の通念が、ものの見事に打ち砕かれるのも、遠い将来の出来事ではないであろう。いや、学閥偏重、経済至上に傾きすぎた社会の変革を、私は、幼き者の成育にかける夢としたいのである。
 つい先日のことだが、ある新聞のコラム欄に、塾の話が出ていた。熾烈な受験戦争に刺激されてか、塾に通わすことがブームになっている。「学校は休憩所で、塾こそ学校」というのが、教育にたずさわる者の常識にさえなろうとしている。そんな話が、こまごまと記されていた。
 塾には、画一的な学校教育の欠陥を補うという役割がある。こぢんまりとした塾で、教師と子供たちとの心が通いあう人間教育、心の教育がなされるならば、両親による家庭教育の効果を一層強めることにもなろう。
 しかし、ブームを起こしている塾のほとんどは、エリートコースに乗るための手段にしかすぎないようだ。現在、巷に流布している知能指数とか、テストの結果だけを基準にして、子供たちの優劣を決めつけ、競争心とエゴイズムを駆り立てる教育方針には、教育者自身の偏見とエゴがにじみでている。
 ペーパーテストで判明する能力は、無限の可能性をはらんだ子供たちの素質、生命内在の“宝”のごく一部にすぎない。人の心の中には、たんなる記憶力、計算力などとは比較することもできない豊かな心情と、知恵と、創造をもたらす泉がひそんでいる。
 その泉を、わが子の特質に応じて開発する心の教育にこそ、真実の愛情が注がれるべきではないであろうか。
 そうはいっても、受験戦争に勝利を収めなければ、わが子の将来は保証できないのではないかと危惧される方も多いことだろう。
 それは、まったくそのとおりである。受験戦争に勝たなければならない現実がある。否、学校を終えても、矛盾に満ちた、弱肉強食の社会の濁流が待ち受けている。
 したがって、一面では、受験戦争も、考えようによれば、生きる力をつけるチャンスともいえよう。甘えを排し、現実の峻厳な尾根を登る勇気を奮い立たせていくことも、当然必要なことであろう。大事なことは、それが両親のエゴからではなく、子供自身の真実の未来を考えたうえでのことであってほしいということである。
 しかし、また他面では、たとえ学校教育での生存競争に勝ったとしても、頭でっかちで、人間らしい情操も、青春の溌剌とした身体も失ってしまった青年に、激動する社会の荒波を乗りきる力が残っているとは思えない。創造の泉を枯らしてまでも、頭の中に詰め込んだ知識などは、十年もたてば古びたものになってしまう。学閥を頼りに、やっと手にした地位でさえも、社会構造の変化に遭遇すれば、あとかたもなく吹き飛んでしまうであろう。その点の深い認識も、決して失ってはならないと、私は思う。
 だからといって、私は、人類の貴重な遺産である知識の体系を軽視する気持ちは毛頭ない。知識の吸収は、知恵を磨き、個性を開花させるためにも、必要不可欠な要素である。だが、子供たちの特性を伸ばしていく心の教育をともなった知識の体得でなければ、その知識を、生きるための力として活用することは望みえないと主張したい。かえって、若者の心に、誤った優越感とエゴが植えつけられるだけの結果をまねきかねない。
 賢明な親たちが、現代社会の行く末を察知し、いかなる闇にも光をはなつ希望の灯を、わが子の胸にともしたいと願うならば、現代の風潮に一喜一憂することなく、彼らの生きる未来に視座をすえての、人間生命の知情意すべてに及ぶ、総合的な開発に専念されることが必要ではないだろうか。
3  慈悲にもとづく心の教育
 幼き者の心の“宝”を磨くべき、家庭における“しつけ”の重要性と具体的な方法については、すでに各所で述べてきた。
 そこで、私の、このささやかな提言をしめくくる意味を含めて、東洋民族の知恵の精華である仏法に説かれる一つの原理を取り上げてみたいと思う。
 それは“慈悲の原理”と名づけられ、仏法では“抜苦与楽”と解釈する。つまり、慈悲の“悲”は、他者の生命に襲いかかる苦悩に同感し、共鳴しつつも、その苦の根源を断ち切ろうとする行為であり、一方、慈悲の“慈”は、人びとの生命を慈しみ、守りぬこうと決意する働きをさしている。
 この原理を、教育論にあてはめると、母親の“しつけ”は、少年少女の心に内在し、将来に禍根を残すであろう苦悩の本源を断ち切る、抜苦の行動となる。仏法では、抜苦の母のことを、悲母と表現している。
 人間生命に息づく苦悩の本源とは何か。東洋の洞察眼は、あらゆる人びとの苦しみの根を、生命内在のエゴに求める。
 エゴは一見、自己主張のようにみえるが、それは、じつは盲目的な性質を帯び、他者の犠牲は眼中になく、ただ、自らのとどまるところを知らぬ衝動、欲求に身をまかせている姿なのである。その結果、他者と融和できず、真実の友情、人と人との温かい生命交流の喜びも知らず、独り寂しい敗残の人生を強いられる。自らも激しい欲求の炎に焼かれつつ、苦しみの流転を余儀なくされるであろう。
 自らの意志で、自分自身をさえどうすることもできない状態ほど、人間として悲しい存在はない。
 悲母の“しつけ”は、いかなる形をとったとしても、幼き者のエゴの根源を抜き取る厳愛の行為となるはずである。子供たちは、悲母の厳愛に感応しながら、自らの力で、内なるエゴを克服していく。その時、初めて少年少女の心の中に、実在する万物への愛と、自然美への開眼と、生を破壊する者への挑戦の勇気と、正義と、そして平和の灯を守りぬこうとする生涯をかけた使命が、噴出するのではないだろうか。
 内なる“宝”の開発は、まず、母の賢明な“しつけ”を出発とし、そこに、父親の慈しみの努力が、開かれた“宝”を研磨すべく参画してくるのである。
 子供たちは、それぞれの個性にしたがって、自らの道を選びとる意欲をみせはじめる。
 読書に異常なほどの情熱をかたむける子もいれば、本など見向きもしないで、野山を駆けめぐる子もいる。機械の組み立てに熱中する少年もいるし、一日じゅう、習い覚えた歌を口ずさんでいる少女もいるだろう。
 ひっそりとなにかを考え込んでいる思慮深い男の子。けんか相手を探しては、取っ組みあいを演じる子。どこへいっても、落書きをやめない子。台所に顔を出しては、母親に叱られてばかりいる男の子。──性格も千差万別なら、好奇心の対象も十人十色の異なりをみせる。そうした個性の方向を見抜き、最大限の環境をととのえるのも、親たちの役割の一つである。
 父親は、妻の助言を受け入れながら、個性がすくすくと伸びるように、社会と人生の知恵を語り、未来にかける夢をともにはぐくみあうべきだろう。
 子供たちは、父親をとおして知る古今東西の人間の生き方、過去と現在の社会の様相、人類の直面している課題などを、幼いながらも真剣な眼差しで吸収しながら、自発的に思考し、自らの道を進んでいくはずである。仏法では、賢明な父親の行為をさして、慈父と名づけるのである。
 悲母と慈父に見守られた子供たちの心の奥には、父母の生命と通いあった慈悲と創造の力が、汲めども尽きぬ泉のごとくわきおこっている。やがて、その慈悲は、両親から友だちへ、教師から先輩へ、さらには、生活圏の広がりとともに、世界の人びとと他の生き物へと向けられ、人間存在の基盤にまで触れていくことも可能であろう。そうして、子供は子供なりの、青年は青年にふさわしい哲学をもつにいたるのである。
 人間は宇宙とともにあり、他の生物に支えられて生きている。両親も、教師も、自己の生命も、地球上の他の人びとの尊い支えがあって、初めて生を保ちうる──そうした実感には、あらゆる生き物の生命自体の重みがこもっている。子供たちの、慈悲にもとづく心の教育は、おのずから、万物の生命の尊厳なる由縁の体得へと歩みゆくであろう。そして、子供たちの心にうずく哲学は、もはや観念の域を脱して、宇宙万象とともにありながら、人類総体の平和な生存を希求する人間的な心へと転化していくのではないかと思う。
 いずれにしても、慈悲心の発動と深まりは、同時に、生命の尊厳を貫くための強靱な意志と勇気をひきおこし、文明と社会に暗躍する悪を見抜く知恵と、他者のエゴに挑戦する創造の力をもたらすにちがいない。慈悲と連動する創造の力こそ、自らの健全なる心身を養いながらも、人びとの心を蘇らせ、社会の闇をはらう、偉大なる“光源”となりうるであろう。
 私は、私の切なる期待をこめて、彼らの羽ばたく二十一世紀を、生命の世紀と名づけたいのである。この緑の惑星と、百万種を超える生物と、人類を断じて滅亡させてはならないとの決意がわきたってくる。
 私は、最後に、二〇〇一年の夜明け前に、生涯の最盛期を迎えるであろう少年少女と、その時に生を謳歌すべき未来の人類の名において、心の教育の基底に、未来からの視座の必要性を重ねて訴えたいのである。

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