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日蓮大聖人・池田大作

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家庭教育における父親の役割  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
3  子供に父親が必要な時期
 子供たちは、この世に生をうけて以来、二歳から三歳ごろまでは、情念の世界に生きている。母親への絶対的な信頼感を機軸に、他の人びとと社会への「信」を養っていく。
 ところが、三歳を過ぎると自律性を増し、自我の形成が始まる。自分で考え、自分を主張し、自主的に行動しようと意欲を燃やしてくる。つまり、創造性を養う時期が始まるともいえよう。
 父親の役割が重要になってくるのも、この時期からだと思われる。創造的な精神の基盤ができあがるのがほぼ十歳ごろだから、三歳から十歳までの間に、父親によるいかなる教育が行われたかによって、子供たちの未来が決定されるといっても過言ではない。もしまったくの父親不在であるならば、子供たちは社会の海原に乗り出すための知恵も、勇気も、強い意志も形成することは望めないであろう。
 三歳を過ぎると、子供のほうから父親を求めてくる。父親とともにいたいという願望は、生命本然のものだと考える。
 むろん、フロイトなどが力説するように、父と息子の葛藤が起きるのも事実であろう。しかし、子の親への反発は、むしろ自我のいちじるしい形成のもたらすものであり、母のふところから脱皮し、自律的な一個の人間への第一歩であるとして喜ぶべき現象ではないだろうか。
 私は、自己を強烈に主張し、やんちゃで手に負えない子供ほど、創造性に富んだ、個性豊かな、そして、逞しい生命力と意志をもった人間になる可能性をはらんでいると思う。
 自我の主張は、決して両親への単純な反発ではない。自律性、自己主張の底には、必ず、父親を尊敬し信頼しつつ、自らも父と同じような、強くて勇気ある人間になりたいという、心の奥からのうずきが横たわっているはずである。子供たちの生命の奥にふつふつとしてわきあがってくる無意識のうずきを賢明にくみあげて、正義感にあふれ、生命力豊かな人間に育てたいものである。
 そのためには、父親自身の生き方が問題であろう。「出社拒否」もしくは、それに近い利己的な人生を歩む父親には、その真実の姿を見抜いたときの子供の失望も大きく、反発心ばかりが助長されて、精神的な奇形児へと陥っていくかもしれない。
 子供の、父を求め父の像に期待する一念が深ければ深いほど、心が傷つけられたときの精神的外傷も、一生ぬぐいきれないほどの深手となるであろう。
 だからといって、子供の期待する父親像は、深淵な知識の権化でもなければ、社会的地位、名声、職業、学歴などにまつわるものでもない。父親の生き方それ自体だと思うのである。
 人それぞれによって、生き方にも違いがあるだろうが、その人なりの信念を貫き、確固とした人生観、社会観、教育観を確立して、全力をあげて社会に貢献しようとする姿勢自体が、子供の生命に鮮明な父親像として焼き付いていくのである。
 知識はさまざまな機会をとおして、子供はちゃんと得ていく。だが、知識を総合し、いかに生きるかの手本は、父親でなければならない。どのような職業であろうと、仕事に打ち込む真摯な姿と、そこからにじみでる知恵の数々は、子供たちの畏敬の的とさえなりうるのである。いかなる種類のものであれ、隣人と地域と、ひいては人類生存のために尽くす父親の行動は、幼き生命の誇りとなり、社会悪を見抜くその正義の洞察眼は、父親の素晴らしさを深くその心に刻み付けるにちがいない。
 やがて子供たちが成長して、もし父親のいだく信念、人生観、世界観に同意できないと感じたとしても、父親への感謝と尊敬の気持ちは微動だにしないであろう。
 父とは異なった道を歩みつつも、内から発する敬意の心は、ますます父の姿へと傾いていくはずである。そして、人類の平和のため、他の人びとの幸福を築くために戦いぬき、生きぬこうとする父親の生命の奥の“一念”だけは、生涯を貫いて子供たちの心の底に、永遠の灯として受け継がれていくであろう。
 間違っても、自ら成し遂げられなかった野心を、子供に強制してはならないと思う。それは伸びゆく創造の芽を摘み取り、父親の尊厳を自ら剥奪するにも等しい行為だからである。
 強い意志、生命の力、勇気、信念等のすべての人間の特質は、つまるところ、人類全体の平和と、正義と幸福を守ろうとする一念に集約されていく。ゆえに、それらの特質を受け継がせることが父親としての責務であり、それはそのまま教育の目標であり、わが子に残す最大の遺産であると、私は訴えたい。

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