Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

家庭教育における母親の役割  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
3  子供は未来からの使者
 かつてギリシャの哲人ソクラテスは「汝自身を知れ」と叫んだ。私は今、子をもつ母に「汝の子供を知れ」と主張したい。わが子のありのままの姿を知り、慈愛の精神で包みこむところに、真実の母性愛が見事な結実を招来するであろう。
 春一番が吹き荒れたあと、大地には蘇生の喜びが満ちてくる。南国では桜の花が風に舞い、春の訪れの遅い北の国にもしだいに強まりゆく陽光が、さんさんと降りそそぎはじめる。鮮やかな自然の情景を背に、いそいそと小学校の門をくぐる学童の心にも、新たなる感動が胸いっぱいに広がっているはずである。
 四歳ごろから芽生えはじめた自我意識は、ようやく一個の人間としての独立した人生を歩もうとしている。外界への探究心もきわめて旺盛となり、見るもの聞くものがすべて好奇心の対象となる。また、仲間同士でグループをつくり、協調性があらわれるのも、ちょうどそのころである。
 児童の生命にぎっしりと詰まった“生命の宝”が、今、一つ一つ輝ける姿を現そうとしているのだ。
 愛情にあふれた母ならば、新鮮な希望に燃えるわが子の心情を、手にとるように熟知しているにちがいない。だからもし、学校を選ぶ自由が許される場合は、すべての子供たちが喜んで通学し、教師と生徒の間に和やかな会話が交わされ、学童が伸びのびと成長しているような学園を希望するにちがいない。そのうえで、子供の性格とか、能力とか、可能性を、できるだけ、はぐくんでくれる学園を選びとるであろう。
 間違っても、誤れる知識偏重教育に狂奔し、有名な上級学校への進学を看板にするような宣伝に、踊らされるようなことがあってはならないと思う。
 また、学園生活の基盤となるべき友だち同士の付き合いの仕方とか、集団生活のルールとか、あいさつの仕方などといった、人間としての基礎的な“しつけ”だけは、決しておろそかにしてはならない。それも、厳格にすぎるあまり、体罰を加えたり頭ごなしに叱りつけたりするような愚かな行為ではなく、諄々と理を尽くして、人間としての正しい生き方をさししめしてほしいものである。
 だが、いかに理を尽くして、人間らしい正道を説いたとしても、母親自身の生き方が、その言葉とは裏腹に、エゴによごれ無慈悲な言動に染められていたのでは、かえって子供の不信感と猜疑心を駆り立てるばかりになってしまう。
 子供は母の行動をすべて見守っているものだ。だから、ウソを平気でつくような母の行いは、上手にウソをつく方法を教えていることにも等しい。母の冷たい心は、陰気で弱々しい子供の性格につながり、いつも不満をいだいている女性からは、情緒がきわめて不安定な児童が生まれがちである。
 正義を愛し、平和を願い、すべての人びとに情愛を投げかける勇気と信念をいだいた母親の行動のみが、よく、健やかな、創造力にあふれ、広大な心情を培った生命を現出する力となり、源となるのである。
 私は、家庭における母は、太陽のごとき存在であるべきだと思う。常ににこやかに、美しいほほえみを忘れず、生きがいに満ちた日々を送る母──その母の姿は、幼き者の生命に焼き付いて、生涯離れることはないであろう。
 初めての学園生活でいささか疲れた身体を愛の光でいやしてくれた母、大自然の旋律を教えるために、夜道を歩きながら、きらめく星にまつわる童話を語ってくれた母、不屈の勇気をわきおこしてほしいと願って、夜の更けるのも気にとめず、人類のために一生を捧げた数々の偉人の伝記をさとすように読みつづけた母、働くことの尊さを身をもって示そうと、生活の苦労に荒れ、ひびわれた手をそっと差しのべた母──そうした母の面影をいだいて、子供たちは慈愛に生きる道を知り、悪に挑戦する知恵と勇気をはぐくみ、万物を支える大宇宙の営みに畏敬の念を呼び起こしていく。そしてなによりも、人間生命の尊厳なる所以を会得して、あらゆる人の生命を守りぬくことに、自らの使命を見いだすにいたるのではないであろうか。
 最後に私は、聡明なる慈愛に生きる“太陽としての母”に、切なる願いを込めて訴えたい。「子供は未来からの使者であり、社会の子である」と──。

1
3