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日蓮大聖人・池田大作

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家庭教育における母親の役割  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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1  知識偏重が心の貧しさを
 昭和四十八年の暮れのことになるが、世界的な細菌学のオーソリティーであり、同時に、人類の未来を憂うる数少ない哲人の一人でもあるルネ・デュボス博士が来日された。
 私も、二十一世紀を開くための真剣な意見を、心ゆくまで交わすことができた。また、博士の各所における知性と情熱に満ちた講演は、エネルギー危機の不安に脅える人びとの胸中に、新たな勇気と希望の灯をともすにふさわしいものがあった。
 来日されて最初の講演では、今も私の胸に突きささって離れない一つの話を、博士は淡々と披露しておられた。
 あるとき、博士は研究室の一員となった若い女性に、この大宇宙にちりばめられた星々の姿について語りかけたというのである。ところが、驚いたことに、その有能な女性は“天の川”の意味を理解できなかったのである。
 しかし、考えてみれば無理もない。日本の大都市と同じように、ニューヨーク市の上空にも厚いスモッグの層がたちこめ、十数年もの長きにわたって、四季の夜空を彩る雄大なドラマを覆いかくしていた。
 そして生粋のニューヨークっ子である彼女の目には、かつて多くの人びとの心を魅了し、美への情感をはぐくみつづけた天の川の絵巻が、この世に生をうけて以来、ただの一度も映しだされたことがなかったからなのである。 “天の川”を知らない彼女──このささやかな発見のなかに、博士は現代社会のもたらした悪を見事に指摘しておられた。それは、現代に生きる青少年の“心の貧しさ”である。
 たしかに、悠久たる流転を織りなす大自然への感動を失った心は貧しい。いかに知識の山を築こうと、分析的な知性の刃をとぎすまそうと、失われた本然の美への感性を取り戻すことは望みえないであろう。
 私は博士の話を聴きながら、ふと、フランスの文豪、ビクトル・ユゴーの名言を思い起こした。「大洋よりも一層壮大なものは大空である。大空よりも一層壮大なものは人間の心である」との叫びである。
 波打ちぎわに、とうとうと押し寄せる潮流をはらんだ大海原に、狭い生命を洗われる体験をした人もいるであろう。しかし、海原の水平線のかなたに広がりゆく虚空は、さらに壮大な宇宙の律動を奏でている。無数の星々の営みを漂わせながら、無限の時空へと繰り広げられる大空の壮大さに比すべきものは、ありえないと思われるほどである。
 にもかかわらず、かの文豪は、人間の心は大空よりも壮大であると主張しているのである。つまり人間の生命は、大海と大空を心の片隅に入れて、なお余裕があるというのである。
 かくも雄大にして壮麗な人間生命には、いかなる財宝、名声、権力をもってしてもあがなえない無限の価値が備わっている。思いつくままにあげてみただけでも、創造への意欲と知性、思考する力、慈しみの情愛、真理を発見する洞察眼、正義感と良心、勇気にあふれた不屈の意志等々──すべてのものが人間としての尊厳を示してあまりあるといえる。
 しかも、これらの価値は、青春の荒波を乗り越えた成人に特有のものではない。むしろ、幼き者の生命にこそ、ありとあらゆる人間の価値が、たとえ未熟ではあっても、未来への豊かな実りを待って万全の準備を整えおわっていると、私は考えたいのである。
 私は「子供を見下すような心をもってはいけない。小さな大人として接し、また親しい友であれ」と主張したい。子供の人格を尊重し、人生を語る友としての生命交流を心がけたいものである。
 とすれば、教育の原点は、あくまで、たとえば腕白で手に負えそうもない少年や、数学などの論理的な思考をきわめて苦手とする少女の生命の奥に、かぎりない可能性を秘めた壮大な人間の心と、尊貴なる“生命の宝”を発見し、はぐくみゆこうとする信念と努力のなかにのみ位置すべきではないであろうか。
 そして、教育の目的と使命は、心の豊かな人間、自らの内に秘めた数限りない“宝”を磨き輝かしつづける人間の形成にあるのではないかと思う。教育の根源は、一貫して“一個の人間をつくること”にあると力説したいのである。
 ところが、残念なことに、現代教育は知識の伝達を偏重するあまり、青少年の心の豊かさを奪いさり、狭い心、かたくなな心、ひよわな心をつくりだしている面が多分にあるのではないかと危惧せざるをえない。
 ちょうど現代文明の悪が巨大なスモッグとなって人間の身体と心を覆いつくしているように、劣悪な教育が、本来、虚空よりも壮麗なるべき児童の生命を閉じこめて、豊かな精神と身体の開花を傷つけ妨げているといえば過言であろうか。これこそ人間精神の公害である。
 ともかく、ずいぶん前置きが長くなったが、教育について考えるまえに、人間の心のありのままの姿と、その尊厳なるゆえんを知っていただくために、少しばかりむずかしい話になったしだいである。
 これだけのことを確認しておいて、今度は具体的に、理想的な教育へと進む道を、一歩ずつ読者の皆さんとともに開いていきたいと願っている。
2  教育の主役は家庭である
 さて、教育といえば、現代では学校教育と家庭教育とに大別できそうである。そのなかで多くの人びとは、学校教育のほうを重視し、家庭における人間教育の役割をあまり評価していないようだ。だが私は、家庭こそが一個の人間を形成する主要な場であり、学校で学ぶ知識は、むしろ家庭教育の成果を助けるものと考えるべきだと思う。
 教育の歴史をたどってみても、教育の場はもともと一切が家庭にあった。子供たちは両親や兄弟との心の交流を通じて、情操、情緒を養い、世の風雪に耐える強靱な意志、自信、信念を培い、また、怒涛のごとく荒れくるう現実社会での友との真情、交際のあり方、人間としての基本的なマナーを含むすべての社会的常識、判断力、人生の知恵といったものを学んできた。ところが、さまざまな学問の進歩にともなって、特殊な知識を教えるために学校教育が必要となったのである。
 この歴史的事実をふまえてみても、教育の主役は家庭であり、学校教育は補助的な立場にあることは明らかであろう。家庭教育の人間形成における重みを再認識するところから、知識偏重に陥った現代教育の変革が始まるのではないだろうか。
 ところで、家庭生活のなかで、子供たちは両親の深い愛情に支えられて、すくすくと伸びていく。父からは世の中の知識を学びとり、人生の知恵を教えられる。母の愛は、基本的な“しつけ”によって子供の生命に潜む悪を打ち破っていくだろう。また子供たちは、両親の姿を見て、この世界に男性と女性があり、それぞれの生き方があることを知るにちがいない。
 父と母の、わが子を思う愛と責任が一体となって、人間教育の見事な開花をみる。母の慈愛も必要ならば、父の教育も不可欠の要素といえる。むしろ、現在の家庭では、母の愛が過剰ぎみなのに対して、父親の無責任な態度が家庭教育の欠陥となっているとさえ考えられる。
 先ほどビクトル・ユゴーの言葉を取り上げたが、ユゴーの母は賢母の誉れが高かったと、伝記作家たちは一様に主張している。
 賢母などという言葉を使うと、一昔前の良妻賢母の像を思い浮かべる人がいるかもしれないが、私が言いたいのは、聡明な知性をそなえ、優しくも厳格な母であったとの意味である。
 ユゴーの家庭は、私たちの目からみれば決して恵まれたものではなかった。不幸の相次ぐなかにあって、母の厳愛が一人の息子の稀にみる詩情を触発し、人類の正義をどこまでも貫こうとする巨大な人生を開いていった。ユゴーはいつも幼きころの母を思い浮かべながら、母の愛に感謝しつづけたといわれている。
 母の愛は優しい。それが母たるものの生命に備わった本然的な働きである。むしろ本能といってよいかもしれない。だがその愛も、盲目なる愛であっては、かえって子供のエゴを助長し、性格をゆがめ、不幸な人生を呼び寄せる結果になりかねない。
 ある心理学者の統計によると、溺愛とか、甘やかしとか、放任にすぎることは、子供の依存欲と利己心を助長し、自発的な正しい行動を幼い芽のうちに摘み取ってしまい、反対に、愛情の欠如、冷淡な態度などは、子供の心に生涯かかってもぬぐいきれない不安と劣等感を植えつける、とあった。
 いずれにしても、それでは善と悪を判別し、正義感にあふれた、心の広く豊かな生命とはほど遠いものとなってしまう。子供の将来にわたる幸運を希求するならば、まずなによりも、正しい人間の道を教えるために、優しくも厳しい愛の努力を、一瞬も絶やさぬ覚悟が要請されるであろう。いや、そのまえに、社会の人びとの幸福と人類の平和に貢献できるような、勇気ある“人間道”を進んでほしい、との母の願いがほしいものである。
 この愛における厳しさということからすれば、現代の母親たちは、むしろ昔の母の行為に学ぶべきではないだろうか。
 ここで、ユゴーの母にまつわる逸話を一つ紹介しておこう。
 あるとき、隣の主人が、たわわに実ったリンゴを取られないように垣根を作ろうとした。ユゴーの母は「息子のために垣根を作るのならば、その必要はありません」と言いきったのである。それでも隣の主人のほうは、いたずらざかりの子供だから、きっとリンゴを取りにくるだろうと、なかば好奇心で見張りをつづけていたが、ついに腕白ざかりのユゴーは現れなかったという。
 私はこの逸話を読んで、わが子の心情を知りつくし、しかも、自分の息子の良心を心の底から信頼しえた、母親の生命の豊かさにうたれた。
3  子供は未来からの使者
 かつてギリシャの哲人ソクラテスは「汝自身を知れ」と叫んだ。私は今、子をもつ母に「汝の子供を知れ」と主張したい。わが子のありのままの姿を知り、慈愛の精神で包みこむところに、真実の母性愛が見事な結実を招来するであろう。
 春一番が吹き荒れたあと、大地には蘇生の喜びが満ちてくる。南国では桜の花が風に舞い、春の訪れの遅い北の国にもしだいに強まりゆく陽光が、さんさんと降りそそぎはじめる。鮮やかな自然の情景を背に、いそいそと小学校の門をくぐる学童の心にも、新たなる感動が胸いっぱいに広がっているはずである。
 四歳ごろから芽生えはじめた自我意識は、ようやく一個の人間としての独立した人生を歩もうとしている。外界への探究心もきわめて旺盛となり、見るもの聞くものがすべて好奇心の対象となる。また、仲間同士でグループをつくり、協調性があらわれるのも、ちょうどそのころである。
 児童の生命にぎっしりと詰まった“生命の宝”が、今、一つ一つ輝ける姿を現そうとしているのだ。
 愛情にあふれた母ならば、新鮮な希望に燃えるわが子の心情を、手にとるように熟知しているにちがいない。だからもし、学校を選ぶ自由が許される場合は、すべての子供たちが喜んで通学し、教師と生徒の間に和やかな会話が交わされ、学童が伸びのびと成長しているような学園を希望するにちがいない。そのうえで、子供の性格とか、能力とか、可能性を、できるだけ、はぐくんでくれる学園を選びとるであろう。
 間違っても、誤れる知識偏重教育に狂奔し、有名な上級学校への進学を看板にするような宣伝に、踊らされるようなことがあってはならないと思う。
 また、学園生活の基盤となるべき友だち同士の付き合いの仕方とか、集団生活のルールとか、あいさつの仕方などといった、人間としての基礎的な“しつけ”だけは、決しておろそかにしてはならない。それも、厳格にすぎるあまり、体罰を加えたり頭ごなしに叱りつけたりするような愚かな行為ではなく、諄々と理を尽くして、人間としての正しい生き方をさししめしてほしいものである。
 だが、いかに理を尽くして、人間らしい正道を説いたとしても、母親自身の生き方が、その言葉とは裏腹に、エゴによごれ無慈悲な言動に染められていたのでは、かえって子供の不信感と猜疑心を駆り立てるばかりになってしまう。
 子供は母の行動をすべて見守っているものだ。だから、ウソを平気でつくような母の行いは、上手にウソをつく方法を教えていることにも等しい。母の冷たい心は、陰気で弱々しい子供の性格につながり、いつも不満をいだいている女性からは、情緒がきわめて不安定な児童が生まれがちである。
 正義を愛し、平和を願い、すべての人びとに情愛を投げかける勇気と信念をいだいた母親の行動のみが、よく、健やかな、創造力にあふれ、広大な心情を培った生命を現出する力となり、源となるのである。
 私は、家庭における母は、太陽のごとき存在であるべきだと思う。常ににこやかに、美しいほほえみを忘れず、生きがいに満ちた日々を送る母──その母の姿は、幼き者の生命に焼き付いて、生涯離れることはないであろう。
 初めての学園生活でいささか疲れた身体を愛の光でいやしてくれた母、大自然の旋律を教えるために、夜道を歩きながら、きらめく星にまつわる童話を語ってくれた母、不屈の勇気をわきおこしてほしいと願って、夜の更けるのも気にとめず、人類のために一生を捧げた数々の偉人の伝記をさとすように読みつづけた母、働くことの尊さを身をもって示そうと、生活の苦労に荒れ、ひびわれた手をそっと差しのべた母──そうした母の面影をいだいて、子供たちは慈愛に生きる道を知り、悪に挑戦する知恵と勇気をはぐくみ、万物を支える大宇宙の営みに畏敬の念を呼び起こしていく。そしてなによりも、人間生命の尊厳なる所以を会得して、あらゆる人の生命を守りぬくことに、自らの使命を見いだすにいたるのではないであろうか。
 最後に私は、聡明なる慈愛に生きる“太陽としての母”に、切なる願いを込めて訴えたい。「子供は未来からの使者であり、社会の子である」と──。

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