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日蓮大聖人・池田大作

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愛情と理解を深める対話  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  主婦こそ家庭の主体者
 “家庭”という言葉から、どのようなイメージを描くかは、おそらく、人それぞれに、千差万別であろう。それは、家庭というものが、人間にとって抽象的な何かではなく、自分自身の育った家庭、いま営んでいる家庭生活そのものとして、各人の精神の画布に、鮮明に染めぬかれていることによるからである。
 このように、“家庭”は生活実感として知覚されるゆえに、家庭に、大きくいって喜びと、理解と、安穏をイメージできる人は、その人生自体、まことに幸せといえるし、逆に悲哀と、憎悪と、破壊を感ずる人は、他の面ではどんなに成功したとしても、その人生は、やはり不幸な人生と言わざるをえまい。
 えてして“男の生きがいは、家庭の外にある”などという場合があるが、それは強がっているにすぎず、やはり、幸せな家庭を築くことこそ、本当の意味で社会に活躍し貢献していけるための大前提であろうと私は考えている。まして女性にとっては、それは幸せのほとんどすべてであるといっても過言ではなかろうか。
 ところで、家庭の主体者は誰かという問題をまず考えてみたいのだが、家庭という以上、それは、ただ一人によって成り立つものでないことは、今さら言うまでもない。二人以上の人間が存在し、多くは、夫と妻と子というパターンをもっている。そして、家庭内の人びとの相互の愛情の深さと連携の強さによって“家庭”の内容は決まってくる。したがって、家庭の主体者は、その構成員すべてであるといえよう。
 しかしまた、家庭から出て社会で活躍し、そして家庭へ帰ってくるという男の側からすれば、家庭とは、そのまま、妻のいる家というイメージになってくるものである。それは子供にしても同じことで、家庭とは、母のいる家ということであって、とくに現代社会においては、多くの場合、父はその付属物にすぎないようである。その意味からすれば、主婦こそ、家庭の主体者であり、主婦のあり方いかんによって家庭の内容は一切決まるといえるであろう。
 現代においては、夫婦共働きの家庭も少なくない。そういう人たちにとって、家庭とは、ともすれば、たんなる“ねぐら”のような存在になってしまいがちのようである。しかし、男性にとってみれば、妻も勤めに出ていることはわかっていても、会社から帰るわが家に灯がともっているのを見ると、ホッとするし、反対に人気のない家では、その前まで帰りついても、また街の灯のほうへと足が向いていくことであろう。 共働きの若い女性であっても、一足でも夫より早く家へ帰りついて、夫を笑顔で迎えること──これも、家庭生活を支える一つの知恵といえるのではないだろうか。
 結局、家庭とは、たんなる物理的空間としての帰るべきところということではなく、人間的な結びつき、とくに夫や子供にとってみれば、妻なる人、母なる人との結びつきのうえから、立ちかえっていくところであるということになりそうである。そこにこそ、男たちが、遠い職場から、殺人的なラッシュに明日もまた苦しむことがわかっていても、毎日毎日帰ってくる理由があるのだ。
2  人間らしい生き方を大切に
 社会が、人間の競争の場、生命をすりへらすところとするなら、家庭は、生きる力を蘇らせるところであるといえるであろう。その意味から家庭は、人間生命という樹に養分を与える大地にもたとえられる。
 元来、私たちの生命も、家庭のなかに生まれいで、はぐくまれてきたものである。家庭における慈愛と教育なくして、私たちは、人と育つことはできなかったはずである。家庭は、まさしく、人間社会の原点であり、とくに人間の生存の権利が脅かされている今日、生存を守りぬくための最後の砦である。
 この砦を軽視していくところに、実り多い人生はありえようはずがない。また、社会といったところで、結局は、各家庭の集団であり、平和な家庭なくして平和な社会があるはずがないというのが、私の一貫して主張しているところである。
 ところが、今日までの文明のあり方は、家庭を軽視し、これを犠牲にすることによって発展してきたとさえいえる。その結果が、公害や戦争という悲惨な事態を生みだし、この考え方のもとに行われた教育は、人間性という大切な中身を失った人びとをつくりあげてしまった。
 今、私たちは、早急に、この根本的考え方の転換をはからなければならない。すなわち、最も大切なものは何か、それは人間自身であり、人間らしい生き方を大事にしていくことであるという視点を、第一義として確立する必要がある。そこに、生命を守りはぐくむ家庭の存在意義が、新しい光をもってくるのだ。
 しかし、このように家庭を強調するからといって、それは、ただちに封建時代の、あの大家族主義に還るべきだなどというのでないことはもちろんである。家庭のあり方自体、時代とともに変わる側面が多々あることは当然である。だから、今日においては、現代に生きる私たちが、自身の手で、新しい家庭を築きあげていくべきであろう。なによりも、それは、個人をしばりつけ従属させる家庭ではなく、個々の人間を生かし、その人びとの個性の共鳴によってつくりあげる家庭でなくてはならない。 ただし、家庭もまた一つの社会──すなわち人間が集まってつくられるもの──である以上、それを構成する一人ひとりにも、なんらかの、責任や義務というものが生まれでてくることは必然である。
 もちろん、無償の愛情、慈しみといったものが、家庭生活の基調となることは当然のことだが、それを成り立たせる条件をつくりだしていくためには、なみなみならぬ努力が要請されるものである。つまり、もし夫が給料を持ってくることをやめてしまえば、家計は成り立たないし、妻に無償の愛情と献身を求めても、それはあまりにも不合理と言わざるをえない。また、妻が、家事という煩雑で労多い仕事を、家にしばられたくないという理由でなげだすなら、どんなに愛を叫んでみたところで、夫や子供の、主婦への愛情も一朝にしてさめてしまうだろう。
 私が言いたいのは、個人の自由というものを主張するあまり、生きていくうえにおいて当然要求される、これらの努力すら放擲してしまっては、どんな家庭も生まれでないということだ。この簡単な原理を、意外に多くの人びとが無視し、貴重な家庭の場を崩壊の危機に立たせている現状を、私は悲しく思うのである。
3  自己を失わない女性として
 それはともあれ、家庭生活の良否は、ひとえに、そこに住む人の人間性、人間味によって決まるものである。ゆえに家庭生活を豊かにするうえで最も大切なことは、家庭の柱ともなっていく夫と妻の、人間的向上への絶えざる努力にあるといえるだろう。
 この点に関して夫は、社会にあって、常に向上していくことを、強く要請されている。それに対して、家庭のなかだけに生きる妻は、ともすれば、家族同士の愛情に甘えを起こして、その意欲を欠いたままに、なんとか、その日その日を過ごしてしまう場合が少なくないようだ。
 私には、さらにその深いところに、妻という個人、一個の人格としての自覚の消滅が原因しているのではないかと思えてならない。すなわち、これまで、ふつう女性は結婚をすれば、夫が社会で立派になってくれればよい、自分はその陰の力にすぎない、あるいは子供が立派になってくれることが目的で、自分はどうでもよいという考え方を当然のこととしてきた。
 それはそれで、妻なり母としての女性の美徳とされてきたのだが、その結果が、自己の人間としての成長への努力も、自己の人格の尊厳への自覚も放棄することになった。
 そうした、個人としての自覚や、人間的成長への意欲を失った妻なり母は、ありがたい存在ではあっても、尊敬心を呼び起こさせ、かぎりない魅力をたたえた存在ではなくなってしまうものである。この、自己というものの放棄が、便利になった現代の家庭では、口の悪い人が言う「三食昼寝つきの永久就職」ということになるわけである。
 私は、いつになっても「自己を失わない女性」像を、とくに、これから人生を演出していく若い女性には望みたい。結婚したとたんに、結婚前の、あのハツラツとした、周囲に生きる喜びをふりまいていた生命の張りを失い、ただ安逸と倦怠のなかに陥っていく姿に接すると、人生の無常すら感ずるものである。
 一個の人格をもった人間として生きていくには、それ相当の、精神の緊張と、戦いとが必要である。そして、その精神の緊張が、一個の人間としての魅力を醸しだしていく。ピアノの基礎的レッスンを放棄したピアニストは、ピアニストとしては死滅する。スポーツ選手にしても、俳優にしても、皆同じことだ。その原理は、そのまま、一個の女性としての魅力をたもっていく秘訣にも通じていくだろう。
 家族への温かい愛情とともに、常に自己への誇りと研鑚を忘れないことが、家庭の真の主体者たる妻に要請されるのである。その妻の姿のなかに、夫たる男性は、かぎりない魅力を感じ、豊かな人格をみることだろう。
4  夫、妻の心を知るための会話を
 何度も繰り返すようだが、夫の人格と妻の人格との共同作業によって、家庭は維持されていく。夫も妻も、家庭という一つの非人格的なある存在のなかに、自己の人格を消滅して、融合するのではない。
 かつて結婚は、家庭と家庭の結合という面が多分にみられた。そこでは“家”というものが“人間”の人格を呑み込んでいたわけである。今日、私たちがめざす理想の家庭は、それとはまったく異なるものになる。「ウチ」があって「ヒト」がいない家庭は、もはや家庭の名に値しないと、私は言いたいのである。
 さらにまた考えてみれば、およそこの世の中で、家庭ほど、赤裸々な人間像が浮かび上がるところはないといえるだろう。それは、最も人が気を許し、自己をさらけだす場が家庭だからだ。したがって、最も不幸な姿、醜い人間性が露呈される場も、ほかならぬ家庭である。それゆえ、弛緩した人間性が、その醜い面をむきだしにして絡み合っていくなら、そこに、目を覆うような惨劇が展開していくのは必然といえるだろう。
 また反対に、一人ひとりの努力と誠意があるなら、どんな小さなものでも、そこに、必ず美しい花を咲かせ見事な実を結んでいくのも、この家庭という小さな社会の特徴である。どのような人間像を家庭に築くかは、お互いのわずかな心づかいによって決まるだろう。
 人と人との温かい交流の場として、互いが互いのうちに、豊かな人格をみ、互いに尊敬しあい、学びあい、守りあっていく家庭を、私は心から期待したい。
 なお、若い人びとのために、愛情と理解を深めるための夫婦間の対話はいかにあるべきかについて触れるならば、私は、とりたててむずかしく考える必要はないと考えている。それぞれの生活のなかで、ふと心を動かされたこと、楽しく思ったこと、つらく思ったことを、そのままに表現していくところに、尽きない話が展開されていくものだ。その人が心を動かされたことを語るとき、それは、そのまま、その人自身の人柄を表しているからであり、その心を深く知るところに、また新たな愛情がわいてくるからである。
 よく、夫を理解するために、ということで、夫の仕事について根掘り葉掘りたずねる人の話を耳にするが、これには私は賛成しかねる。なぜなら、結婚した相手は、夫自身であって、夫の仕事ではないはずだからだ。そして夫の仕事を知ることは、夫自身を知ることには、直接つながらないからである。
 夫にとってみれば、仕事に疲れて帰ってきた家で、重ねてそれが話題にされることは、苦痛である場合が多い。まして、仕事についての評価などがなされたりしたのでは、なんのためのわが家かわからないということになるであろう。家庭は、先に述べたとおり、夫自身の生命を養い、充実させる場であるはずである。
 つまり、夫その人、妻その人の心を知るための会話が望ましいのではないかということだ。そしてそれは、あんがい身近なところにあるものなのである。

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