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日蓮大聖人・池田大作

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未来社会を担う「創造家族」とは  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  未来家族のあるべき姿
 昭和四十九年の初秋、ソ連から帰ったばかりの私は、北海道を訪れた。何度目かの訪問であったが、やがて飛行機が本州を離れて北上していることがわかった。しばらくすると上空は雨雲で視界はさえぎられてしまったが、ここらが函館の上空であろうと思いつつ、函館のちょっと異国情緒のただよう街の懐かしい風景を頭に浮かべた。
 この函館の地にも多くの友がいる。その友の家族たちの顔が次々と浮かんでは消えた。昔ながらの大家族をかかえた人や、最近結婚したばかりの新郎新婦や、かつて重い宿命に泣いていて、崩壊に瀕した家庭を見事に再建した家庭の主婦などである。人生の織りなす模様は、人の顔だちが千差万別であるように一つとして同じパターンではない。これらの友の人生行路の愛憎苦楽を思いやりながら、函館の多くの友の健在を祈りつつ、機上で懐かしくあれこれと思いふけっていた。
 このとき、私はふと、傷ついたある家族が、函館に別れを告げ、津軽海峡を渡って南下しなければならなくなった苦渋の人生を思い出した。──といっても、この家族は私がじかに会って話をした家族ではない。大多数の読者の記憶に新しいと思うが、昭和四十九年の春まで放映をつづけた“北の家族”のあの家族たちである。一編のドラマにすぎないといっても、身につまされるようななまなましさを織りこんだ物語であり、多くの主婦の関心をとらえていたようである。
 ドラマでは、夫の蒸発のひきおこした波紋が、母と三人の子供を函館から金沢へとおもむかせる。母方の実家であり、祖母が健在でそのもとに大家族のおもかげのあるところである。金沢では、祖母と姿を現した夫との葛藤、祖母と母との情愛、孫娘との断絶等々が繰り広げられる。やがて、長男の独立を待って、一家は港町横浜へ移り、長男夫婦のみずみずしい核家族が誕生する。同時に、さすらいの旅は、老いの迫った父母と娘に、南国宇和島の舞台を提供する。次男は、祖母に望まれて、家業を継ぐべく金沢に帰っていく。
 しかし、北の家族にとって、南の国宇和島も安住の地ではなかった。突如として襲いきたった父の死が、母と娘をひきさき、主人公である娘が一人、晴れわたった津軽海峡を北上する。──たしか、このような筋をたどっていたように記憶している。
 作者は、真実の家族のあり方を問おうとしたのであろう。一個の平凡な家族が、さすらいの旅路のなかで、新たな核家族をめざして別れていく。きわめて現代的な課題を宿したドラマではあった。それにしても、ドラマは、やがて羽ばたくであろう未来家族を暗示したところで、幕を下ろしてしまったようである。 未来家族のあるべき姿──それを、あれこれと思い描く私の思索が、着陸を告げるアナウンスによって中断されたのは、数分の後であった。
 家族は一個の生命体といってもよい。もし、社会を一人の人間にたとえれば、家族は細胞の集まりといえよう。
 社会という生き物の内部で、流れ動く家族もあれば、特定の場所に落ち着いた細胞の集団もある。社会とともに呼吸しなければ、家族の生きる方途はない。だが、同時に、細胞の活気に満ちた働きがなければ、社会の前進は望みえないであろう。
 家族の全員が協力してつくりあげる細胞集団を、私は家庭と呼びたい。家庭こそが、未来社会の行く末を決める基本単位ではなかろうか。
 家庭に集結した家族の間には、愛情という名の血潮が脈打っているはずである。夫婦、親子、兄弟の間に、愛情を交わしあう生命体が、家族にほかならない。そのうちで、夫と妻を結ぶ男女の愛が、すべての家族の基盤となり、そこから核家族が誕生する。夫婦愛に結晶が宿れば、親子の情愛が現実のものとなる。
 大家族では、祖父母との絆が、三代にわたる愛のタテ糸を織りなしていく。また、子供たちの間には、兄弟愛のヨコ糸が張られることは言うまでもない。タテ糸とヨコ糸の愛をかよわす律動が、生ける家族の営みをつくりあげていくのである。しかも、家庭にあって主婦は、夫との連帯を強めつつ、家族を結ぶ動脈ともいうべきタテとヨコの糸を、巧みに操作する役割を担っているように思われる。
 かつての日本では、大家族主義の名のもとに、〈家〉の重圧が、愛の血行をしめつけていた面が多い。むろん、三代を貫くタテの血管には、その家庭特有の伝統が一種の家庭文化として流れていた事実は認めなければならないであろう。これこそ、それぞれの家族の個性あふれる家風というものであろう。
 独自の生活様式とか、生き方とか、物の見方とか、社会とのかかわり方などが、父から子へ、母から娘へ、姑から嫁へと伝えられていた。そのなかには、先祖の獲得した貴重な体験が生活の知恵となって織りこまれてもいよう。
 父から子へは、人間としての生き方、人生観、世界観が教えられ、姑から嫁や娘には、家計の切りまわし、育児、冠婚葬祭などの社会風習がマン・ツー・マンで伝授された。
 だが、たとえ、こうした長所があったとしても、家族という生命体に律動する、人間らしい情愛を奪う欠陥を補うことはできなかった。
 その意味からいうと、現代の核家族は、人間の心情を最も重要な絆とする家族形態であるとみることができる。しかし、その一方で祖父母が健在ないわゆる三代家族の場合、よく考えてみれば、むしろ老人夫婦と一緒の生活のほうが、良い意味での家風を学べる点では、核家族の欠陥にあげられる生活の知恵の欠落を補いうるのではなかろうか。
 私は、未来家族のあり方として、祖父母とともにする生活が、理想的ではないかと考えている。しかし、現実はなかなかそれを許さない。そこで夫婦二人きりの場合は、せめて、祖父母や人生体験豊かな年配者との交流だけは閉ざしてはならないと思う。
2  力強い「開かれた家族」
 要は、家庭を守る主婦の、賢明にして巧みな手綱さばきに、家族集団の未来がかかっている。主婦は、家族間の調停者でもある。
 老人と子供の間に断絶が生じたときは、談話のなかでタテ糸をつむぎ、子供同士のいざこざには公平な裁判官となり、社会でうけた夫の心の傷跡を優しい女の本能で守る。もし家庭に、憎悪の嵐が巻き起これば、愛で包んだ知恵で静める。冷ややかなすきま風が通り抜ければ、肺炎にならないうちに、温かい団欒の場をととのえる。
 夫との間には心の底からの相互信頼を、子との間には厳愛と尊敬の交換を、兄弟には協調の心を、それぞれの血行に流し込む努力を怠らない主婦であってほしいと思う。慈愛深く、賢明な女性、家庭における太陽のごとき主婦にこそ、私は、未来の家族と社会の建設をゆだねたいと願っている。
 よくいわれることだが、家庭は社会のオアシスであるという。くつろぎと消費の場であるという人もいる。愛する者と暮らす城であると主張する若者もいるはずである。
 私も、そうあってほしいと思う。愛と信頼の清水がわきだし、質素でも手づくりの味がととのえられ、さらに、主婦の太陽のほほえみのごとき、にこやかな微笑が投げかけられている家庭の醍醐味を満喫しない者はいないであろう。老人は長寿の喜びをかみしめ、夫は明日への活力を養い、小さな子供たちの生命には豊かな情操が芽生えていく。
 まさに、福沢諭吉の「家の美風その箇条は様々なる中にも、最も大切なるは家族団欒相互に隠すことなきの一事なり」(『福沢諭吉全集』第六巻、岩波書店)との名言を絵にしたような風景ではなかろうか。
 だが、幸福そのものの風情も、一陣の嵐とともに吹き消されることがある。主婦のほほえみを凍結させる狂乱物価の寒風もあれば、夫の蒸発をもまねきかねない失業という竜巻が襲うこともある。交通事故、子供の病気等々、台風の発生源はいたるところに散在している。また、嵐が、家庭の内部から発生することも少なくはない。
 もし、一見、幸福そうにみえても、社会から逃避した“片すみの安らぎ”の城であれば、寸時にして崩壊をまぬかれないであろう。
 社会への窓を閉じた家族ほど、不幸にもろい集団はない。社会の激動に揺られながらも、嵐のもつエネルギーをくみとるほどの強靱な生命力をたくわえた家族集団を、私は、未来家族に期待しつづけている。その家族は、常に社会に開かれ、社会に充満する悪と戦う集団である。いわば、人間生命における白血球や免疫体のごとき細胞の集合体にもたとえられよう。
 「開かれた家族」は、社会の風波に直面する集団であるから、絶えまない知恵の発動をうながされる。家族の構成員に創意がなければ、いかに力強い愛の絆でも、政治や経済の激風に耐えることは望みえまい。
3  創意に満ちた主婦の姿
 狂乱物価に、まず、知恵の発動をうながされるのは、家庭の主婦である。
 悪どい企業者のエゴを見抜く知恵、毎月の家計簿からその家庭の症状を冷静に診断し、対策を練るための知恵、できるだけ物を長持ちさせ、有効に使用する知恵、高価でなくても手づくりの味をととのえる知恵ある主婦、夫との対話、マスコミを通じての情報、隣人との情報交換、祖父母の深い経験に根ざした知識を吸収しながら養いゆく理想的主婦の姿を、私は思い描くのである。
 主婦が創意に満ちた生き方をしていけば、その生き方はそのまま、子供たちの生命に植えつけられる。それは家庭教育のなによりの栄養分となるはずである。
 夫や祖父母の心からの協賛をえることも、ほぼ間違いないであろう。創造的な知恵を絶えず磨きぬく主婦の照らす家庭には、創造的な生命をはぐくむ土壌がつちかわれていこう。ある哲人は「家庭は社会の永遠の学校である」と言ったが、「社会に開かれた家庭」からは、いかなる試練にも耐える創造的生命が羽ばたいていくにちがいない。
 「創造家庭」「創造家族」の集団は、愛の動脈をかよわす人間錬磨の道場である。夫と妻、父と子、兄弟姉妹の間に繰り広げられる相互啓発の人間模様ほど、華麗な美を私は知らない。既成の美、他者から与えられた美には、生の輝きが失せている。
 創造家族のあやなす家庭美には、祖父母や老人たちの伝統が息づき、現代感覚に目覚めた若者の血潮と融けあっている。現代と歴史の触発、重厚な体験と青春のエネルギーの昇華から、創造家族のつくりだす未来の家風がうぶ声をあげる。個性豊かな家庭原理とも呼ぶことができる。
 押しつけられた人生観ではない。与えられたビジョンでもない。一昔前のカビのはえた生活様式でもない。創造のかぎりをつくして、家族全員の協調と汗のもたらした家宝──その伝持者に、私は主婦を選びたいと思う。
 主婦の体内にはぐくまれ、次々と誕生する核家族に伝えられる、その家族独自の生活理念が、娘や息子や孫たちの、逞しい未来を飾るにちがいない。創造家族の営みは、社会に開かれているとともに、世代を貫いて未来の人類にも開かれていると言わざるをえない。
 私は、つねづね、暗雲たれこめる二十世紀後半の世界を転回させる人間群を、創造的人間に求めてきた。あと二十五年にして幕をあける新たな世紀に現出するであろう社会を、創造社会と呼べるようであってほしいと願っている。そして、今、私は、創造社会という生命体の基礎をなす家族集団──創造家族──の創設を、慈愛と知性美にあふれる太陽のごとき主婦の手に託すことができるかどうかに、未来社会の一切がかかっているとさえ思うのである。

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