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日蓮大聖人・池田大作

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信仰とは何か  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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1  信仰について無関心な日本人 
 人間にとって、信仰というものは、おそらく人間が人間になって以来、絶えずつきまとってきたものといってよいでしょう。
 人間が人間になって以来、という表現は、あまり妥当ではないかもしれませんが、人間の進化の歴史をたどるうえで、“神秘なものへの畏敬”ということが、一つの重要な目安となっていることを考えていただければ、その意味は、十分理解していただけると思います。
 今日、日本人のほとんどは、この信仰という問題について、きわめて無関心になっているようです。
 世界的にみても、日本人の信仰に対する冷淡さ、無関心の度は、多分、一頭地を抜いているのではないかと思われます。たしかに、世界のさまざまな民族、なかんずく欧米諸国民の間でも、しだいに、信仰というものについて、関心が薄まってきたことも否定できません。しかし、それは、むしろ少数のインテリ階層の現象であって、庶民大衆は、大多数が信仰の重要性を認めているし、信仰をもつのが当たり前であると考えているようです。ヨーロッパやアメリカで、若者たちが、伝統的なキリスト教に対して、信仰心を失ってきているといっても、信仰そのものを捨てたわけではありません。だからこそ、多くのそうした若者は、禅や、ヨガなど、非キリスト教的なもののなかに、信仰の対象を求めているのではないでしょうか。
 いかなる宗教に対しても、きわめて無信仰な態度をとる日本人は、この意味では、世界のなかの、特異な存在といえるようです。こういえば、お正月には神社へ参詣し、法事は仏教の僧に頼み、結婚式を神前であげ、葬式はお寺で行うという、多彩な日本的宗教観は、日本人の信仰心の篤さを示しているものではないか、という反論が出るかもしれません。私がここで問題にしたいのは、そのような人生の折り節の行事のために、形式として行われる“信仰”ではなく、人生の一本の筋としての、言い換えれば、人間の一生を貫く心の支えとしての“信仰”という問題なのです。
 私は、なにも説教じみたことを言うつもりはありません。ただ、私たちがこれまで考えてきた、信仰というものの本義を、いま一度吟味しなおし、人生においてそもそも信仰とは必要なのか、必要でないのか、また、その信仰と人生とは、どういう関係であるべきか等の問題について、一緒に考えてみたいと思うのです。
2  日本人と欧米人の違い
 まず、信仰とは、いったい何かという問題について。ごく最近、犬養道子さんの『私のヨーロッパ』(新潮社刊)という本を読んでいましたら、そのなかに、ヨーロッパ人の「信ずる」という概念と、日本人の「信ずる」という概念の違いに触れた文章がありました。その冒頭に、フランスの「ル・モンド」紙にあった「日本人の宗教に関しての精神態度」を分析した一文が引かれています。それはこんな文だそうです。
 「日本人の特殊性は、宗教を形而上学的問題(いいかえれば知性、理性の問題)としてとらえず、したがって神の問題をも知的推論による存在学上のこととしてとらえず、むしろ行動(たとえば善行、慈悲の行等)の問題としてのみとらえるところにある」
 この文から、犬養さんは「ル・モンド」紙の執筆者も読者層も、宗教ないし神の問題を、まずなによりも、形而上学的な知的理性的問題としてとらえている、と規定されています。これに対して、日本人が宗教を行動の問題としてとらえるというのは、まったく、そのとおりです。ただし、カッコのなかにある(たとえば善行、慈悲の行等)というのは、かなり善意的な解釈で、一般の日本人の実情は「慣行、儀式」とするのが妥当のようです。
 もちろん、このような、日本人とヨーロッパ人(とくにフランス人)との宗教に対する態度の違いは、それぞれのたどってきた歴史の違いによって左右されている面も、無視できません。
 新教と旧教とに分かれて鋭く対立し、そのために凄惨な殺しあいまで繰り返してきたヨーロッパ人と、何百年来、宗教が国家体制のなかに檀家制度として組み込まれ、教義をめぐる対立など行われなかった日本人とが、違っているのは当たり前です。さらに、その奥には、他の宗教や教義に対して、妥協を許さないユダヤ=キリスト教精神と、あらゆるものを包容してきた仏教精神との、いわゆる宗教それ自体の違いがあります。
 が、それはともかく、宗教に対する精神的態度が、このように違うことは、まぎれもない事実であり、そこから、人生や、社会についての考え方の違いが出てきます。よくルース・ベネディクトの研究を引いて、日本文化は“恥の文化”である、欧米文化は、“罪の文化”だということがいわれます。
 “罪”とは、神あるいは、神の定めた法の存在を前提にして出てくる考え方で、神の意志、あるいは、法に違背することを“罪”として、これを恐れるわけです。これに対して“恥”とは、そのような超越的、絶対的なものはなく、あるのは世間であり、社会であるという考え方が前提になっています。
 超越的な“神”あるいは、その神の定めた“法”を一切の前提にすると、たとえ誰が見ていなくとも、神が知っており、法によって裁かれるわけですから、そこに悪事を働くことへの強い規制力がはたらくことになります。
 これに対し、日本的な“恥”の思考法は、世間という、まわりの人びとが違和感をいだかないかぎり、それは“悪”ではないのであって、ここから集団になった場合、とんでもない悪事を平気で犯す、といった結果になりかねません。
 しかし、これは、欧米的考え方に、ずいぶんと肩をもった推論であって、必ずしも、そうとはいえない面もあります。たとえば、欧米人の考え方を極端に押しすすめると、神の意志や、法の絶対性から、そのために、他人の生命や暮らしを破壊し踏みにじっても、少しもそれを悪いと思わない、ということがあります。ヨーロッパの歴史が、十字軍、異端裁判、魔女狩り、宗教戦争と、血みどろの争いに明けくれてきたのは、そのなによりの証拠だといっても過言ではないでしょう。
 ナチスの時代、ドイツではユダヤ人大量虐殺が行われましたが、そうした虐殺に手を汚した人びとは、「自分は命令に従っただけであって、少しも悪いことをしたとは思わない」と言っていると聞きます。彼らにとって、命令に従うということは、いわば“神の法”に従うのと同じだったのでしょう。
 これに比べて、日本人も、中国などで、ずいぶん残虐な行為をしていますが、それは「命令に従った」というより、集団心理に動かされたといえるようです。だからこそ、戦いに負けて、周囲の情勢が変わってしまえば、一転して、「一億総懺悔」などというようになったのです。
 日本的な宗教の態度も善意に解釈すれば、あらゆる人間や事象のなかに本来、仏性あるいは神性があるとする、東洋的宗教観が、淵源にあるといえないこともありません。もし、この基本精神が今も脈々と生きて、人間の生き方を支配していれば、非常に素晴らしいことであり、とくに現代においては大きい意義をもつでしょうが、残念ながら、そうした積極的な面は失われ、マイナス面に覆われて、非宗教化、無信仰化が、現代日本人の特徴となってしまったようです。
3  信仰の出発点
 いろいろなところに話がとんで、少しわかりにくくなったかと思いますが、信仰というものは、いったい何か、ということを、このあたりでまとめてみましょう。
 信仰とは、この人生のなかにあって、人間の力で処理できない、ある力・法・現象に対する畏敬が、その出発点になっているといえそうです。もちろん、人生の外、人間の力の及ばないところといっても、人生や人間存在と無関係のものではなく、外にありながら、強い影響を、人生に、人間存在に及ぼしているものであることは、言うまでもありません。
 信仰のもともとの出発点が、一つは宇宙や自然界の力に対する畏敬と服従にあり、一つは生と死といった生命の不可思議に対する畏敬と探究にあったことは、この事情を如実に示していると、私には思われます。自然界の力に対する畏敬は、やがて、人間の知恵や、集団の力が、自然の力に対する優位を勝ち取るようになって、そうした優れた力をもつ個人や、集団の力(または、その象徴)に対する畏敬とその神格化へと変わっていきました。
 たとえば、わが国で、山や川、木々に宿ると考えられた神々は、自然界の力を神格化した例といえます。天照大神は、もともとは太陽の恵みを神格化したものでしょうが、やがて、そのまま、日本民族の先祖神と考えられるようになりました。直接的には天皇がその子孫であるとして、天照大神の力は天皇に集約されましたが、本来は、日本民族という集団の力を、体現化しようとしたものであると考えてよいでしょう。同じような過程は世界じゅう、どの民族についてもいえるようです。
 こうした外界の力に対する畏敬は、人間が自然を究め、人間自身の力の支配下におくことによって、しだいに神秘性を失っていくことは必然の流れです。
 つまり、科学や技術の進歩、発達によって、このような淵源から流れてきた“信仰”は、もはや成立する基盤を失いつつあるといっても過言ではないのです。もちろん、自然は、今も謎に包まれていますし、究めれば究めるほど、謎が深まることは、科学の先端を行く人びとの偽りのない感慨でもありましょう。しかし、だからといって、それは、さらに鋭く深い探究の対象ではあっても、“信仰”の対象に逆戻りすることはなさそうです。
 ところが、信仰のもう一つの淵源から発した、さらに深く神秘に包まれた流れは、人間の文明がどんなに発達し、そして、科学が進歩しても、少しも変わることなくつづいております。この“信仰”の流れは、さきの“信仰”が呪術的であったのに対し、哲学的であり、さきの“信仰”の結果として期待されたものが形而下的であったのに対し、これは形而上的であるということができます。
 厳密にいえば、いろいろな異論もあるでしょうが、今日、高等宗教といわれるキリスト教やイスラム教、仏教、そしてヒンズー教のなかのいくつかは、こうした哲学的、形而上的な一つの悟りを起点として打ち立てられたものです。その後、大衆の間にひろまっていく過程で、それぞれ、既存の呪術的宗教の要素を取り入れていますから、いま現にある姿は、このように、一概に規定することはできませんが、出発点については、かなりはっきり、その特質を指摘することができるようです。
 この、生と死、生命の不可思議に対する畏敬と探究の心を起点とした宗教信仰は、今も、その存在意義を失っていないばかりでなく、人間が人間として生きていくかぎり、絶対に、意義を失うことはありえないと思われます。なぜなら、人間は、自己の存在や行為に対して、なんらかの意味と意義を見いださないでは生きられない存在だからです。
4  自己を照らす英知の光
 二、三年前から、人間の“生きがい”ということが、盛んに論じられるようになってきたのは、その一つのあらわれです。
 職場においても、ただガムシャラに働いてきた、これまでの生き方にあきたらなくなり、何のために働くのか、それが自分なりに納得できる仕事をしたいという考え方が強まっております。若者たちの間では、とくに、この傾向が著しく、給料のよさよりも、自分が意義を認めることのできる仕事を選ぶ人びとが増えています。
 人間にとって、最も普遍的で、最も根源的な“行為”は、言うまでもなく“生きる”ということです。それは“何のため”にその職場を選ぶか、何のためにその仕事をするか、というのとは比較にならない、根源的なテーマであり、しかも、あらゆる人に共通する問題です。また、何のためにその仕事をするのかということは、自分の人生に対する理想や、社会に対する考え方との関連で答えが得られます。それに対し、何のために生きるのかという問題は、現実のこの生や現実社会との関連では解決されません。
 この“人生そのもの”に意義を与えるのは、現実の生や、社会を超えたものでなければならないのです。人間の生は有限です。その彼方には、誰も知ることのできない、死の淵が黒々と広がっています。死とは、いったい何なのか。人間の生命は、死によって一切終わるのか、それとも、生きている私たちには見えない形でつづいていくのか。
 仏教は、生命が不滅の実在であり、生といい死というものは、この生命があらわす変化の姿であるとし、この不滅の生命という実在から、人間の意義づけを説いた教えです。それは、超越的な存在を現実を超えた彼方に求めるのでなく、私たちの生命それ自体に求める考え方です。これに対して、キリスト教やイスラム教は、現実の彼方に、神という超越者を想定し、この神との関係から、人生への意義づけを行った教えであるということができましょう。
 今、私は、どちらが優れ、どちらが劣るという論議をするつもりはありません。起源的にいえば、キリスト教、イスラム教等は、自然界の力に対する畏敬という信仰が、モーゼやイエス、マホメットといった人格によって昇華され、高等宗教へと変革したものといえます。仏教は、最初から、一人の聖人が生と死の問題に想いを凝らし、そこに開いた悟りから出発しました。
 また、超越的な全知全能の神は、どこにどのようにして存在するともいえません。存在の知りようがないという意味で、それはまた客観的には否定のしようもない、という強みをもっています。これに対し、生命は、現実にそれがあることを、誰でも知っています。しかし、その実在は神秘に満ちており、底知れない謎に包まれているのです。
 私自身の考えでは、超越的な神への信仰は失われることがあっても、生命の不可思議を起点とした信仰は、永久に失われることはないだろうと思っています。
 ともあれ、信仰は、人生に対して強力な“支え”となり、幾多の文明の基盤となってきました。西欧における科学の進歩も、それは結果として、キリスト教信仰の凋落をもたらしましたが、真理の究明は、神の摂理の偉大さを証明することであるという“信仰”の情熱によってもたらされたのです。芸術もまた、神の造化の美を讃え、表現するという、やはり“信仰”にもとづいた情熱が生み出したものといえましょう。
 現代は、人間にとって、自らの存在を問いなおし、自らの進む道を再吟味することを迫られている時代といえます。その自己を照らす英知の光を、私たちは、いったい何に求めればよいのでしょうか。もし、この大きい反省もなく、物質的欲望と、官能的衝動と、エゴイズムのおもむくままに突きすすんでいったら、やがては、地球を破壊し、自らも滅びることになってしまうでしょう。人生と信仰という、最も古い問題が、今、人類が滅びるかもしれないという危機に直面してみて、かえって最も新しい問題となってきつつあるのを、私は痛切に感ぜずにはいられないのです。

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